裁判員裁判11−7
「名古屋地裁裁判員裁判傍聴記」2010. 12.22
                 2010年8月〜10月  宮道佳男
7、パトカーの追跡を逃れんとするブラジル人窃盗団の乗ったセルシオが時速120qで進行中、交差点で赤信号、対向右折車を避けようとし左折急ブレーキ、衝突は避けられたものの、横滑りして、歩道の3人を死亡させた、危険運転致死・窃盗・無免許運転等の名古屋地裁刑事2部2010年10月裁判員裁判
 被告人は認否で認めました。
 弁護人は、120qを争い、その余は認めました。
 しかし、共犯者が出廷して「メーターは120qを指していた」と証言し、絶体絶命です。
 裁判官が被告人に「君は日本法の危険運転致死と業務上過失致死の違いを分かっておって、それでも尚、認めると言いたいのか」と質問してくれないかと期待しましたが、ありません。そんな質問をしたら、公判スケジュールが吹っ飛んでしまう。当事者主義だから、弁護人の言わないことに介入しない、その為に時間を掛ける公判前整理手続制度を置いたのだ、ということでしょう。
 しかし、強気な検察官、変な弁護人がいても、賢い裁判官がいるからこそ、これまで日本の裁判は何とかやってこれたのです。公判当日、弁護人が「被告人の誰それ君いるか。ああ、君か、認めるんだろ」とやって、書証は全部同意。
 被告人質問で、被告人は殺意を争う姿勢、弁護人は無言
 裁判官は検察官を呼び寄せ「被害者とこの証人だけは検察官から申請してくれないか」 検察官「しようないですなあ」

 私は腰が抜けました。
 公判途中、弁護人に「何故否認し、業務上過失致死を主張しないのか」と問いました。答は「否認だと心証が悪くなり、情状で争うことを選択した」と言うのです。私は「被告人に認めさせ、弁護人が法律適用を争うという手があるだろう」と言いましたが、言うことを聞きません。公判前整理手続で既に言ってしまったことを苦にしているのです。君子豹変すればよいのに。男子恥をかくべし。恥は先にかけ。
 時同じく、隣の刑事6部の法廷では、飲酒、98q、追い越し失敗、追突、一人死亡の危険運転致死の裁判で、弁護人が危険運転致死と速度を否認し、普通の交通事故と主張していたのです。裁判官は速度について丁寧に裁判を尽くしたのです。この裁判は、検察官求刑8年、判決3年の5年執行猶予となりました。立派なものです。
 ブラジル人は日系3世で法廷には母、弟、妹が来ていました。
 求刑は27年、判決は23年でした。
 危険運転致死は、最高20年、併合罪の窃盗等があるので、最高30年です。これまで最高記録は、4人死亡の20年です。弁護人は17年を希望していました。
 被告人は頭を下げましたが、同乗者から「逃げよ」と言われたのでパニックになったと弁明したことをとらえて、検察官は責任転嫁と責め立てました。下げている頭を踏みつけ、史上最高の求刑をして、判例史上日本新記録の判決を獲得しました。検察官は金メダルを取ったのです。 
 本当は、危険運転致死を否認し、普通の交通事故と言うべきでした。被告人はブラジル人で日本の法律を知りません。知っていたら、ポルトガル大陸法系の気性から言っても、争った筈です。弁護人は法的援助者なのです。日系3世で日本語もおぼつかない被告人でした。
 検察官の論告は20分、弁護人の弁論は35分でした。量刑グラフを用いて、4人死亡で20年だから、17年が適当と力説していました。さて、裁判員は量刑グラフに従ったでしょうか。
 私は弁護人に「裁判員諸君、君が120qで走り、猫でも避けるために急ブレーキを掛けてスリップして三人死なせたら、何年役めたいのですか。ABSが効かなかったのが原因」と言えと教えましたが、言いません。

私なら、こう弁論するでしょう。
 裁判員の紳士淑女諸君  
 被告人は日系三世です。ブラジル移民の子孫です。明治時代日本はブラジル移民を推し進めました。実態は、過剰人口の捨て場、棄民政策だったのです。ブラジルに渡り、ありとあらゆる苦労を強いられました。第1回芥川賞石川達三の名作蒼氓、蒼氓とは民草の意味ですが、移民の悲惨な姿を描いています。被告人の祖父母、そして両親は祖国に捨てられて辛酸を舐めたのです。
 2008年移民開始100年を記念して、天皇陛下はブラジルを訪問され、移民の末裔達は涙で迎え、天皇陛下はその苦労を労いました。蒼氓の民は労われて又涙なのです。法廷には、母親、兄弟が来ています。祖父母、両親の苦労に免じて、被告人に恩赦を恵み給えられたし。
 検察官は赤信号で進入したのがいかんと言っています。
 危険運転致死罪では、赤色信号無視と危険な高速運転が要件です。
 交差点の信号機は赤色ですが、右折矢印が点灯していました。右折矢印は交差点内に進入して右折することを許しているのです。停止は命令されていないのです。おりから対向してきた車は右折しかけました。被告人は衝突を回避するために急ブレーキをかけながら、右折するか左折するか咄嗟に考え、左折した方が衝突を回避しうると判断し、少しハンドルを動かし左折しかけました。それが成功し、衝突は避けられましたが、急ブレーキのためスリップして車は横滑りをおこし、ABS不良により、歩道にいた三人をなぎ倒したのです。
 分かりますね。交差点内に進入したことは罪ではないのです。
 事故の原因は、スリップの横滑りなのです。
 検察官は速度が120qと非難しています。陪審員諸君、120qで運転したことないですか。全員体験がある筈です。
 トヨタの最高級車セルシオは世界の誇りです。愛知県民はトヨタが誇りなのです。セルシオは200qまで出せるのです。200qまで出さないと、アクセルペタルは床に付かないのです。危険運転の構成要件的行為とは、対向車が来ても、ハンドルを左右させて転針する気も、ブレーキ掛ける気もなく、対向車が先に回避してくれると期待して、アクセルペタルを床まで押しつけて「オラオラオラ、行クゾー」と叫ぶ姿なのです。事故を未然に予防する気がない姿です。
 120/200という控えめな速度なのです。どうして危険運転と言えるのでしょうか。
 傷害致死は20年以下の懲役刑、危険運転致死も同罪、傷害致死と危険運転致死は同じ行為と結果の態様を持つのです。
 刑法208条の2 危険運転致死とは、
 アルコール又は薬物の影響により正常な運転が困難な状態で走行させ、進行を制御することが困難な高速度で、又は進行を制御する技能を有しないで人又は車の通行を妨害する目的で、走行中の自動車の直前に進入し、その他通行中の人又は車に著しく接近し、かつ重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運転し 赤色信号又はこれに相当する信号を殊更無視し、かつ重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運転し、よって、死亡させることを言います。
 危険運転致死罪は平成13年新設されましたが、その以前は業務上過失致死罪でした。業務上過失致死罪はたいてい執行猶予です。交通三悪が重なると、1〜2年の実刑でした。暴走運転に対する世の批判があって、新設された罪ですが、構成要件の拡大解釈は許されません。傷害致死に匹敵する暴走行為のみに適用すべきです。
 トヨタ最高級車セルシオは、120/200では、進行を制御することは可能です。トヨタが太鼓判を押すABS機能は「進行を制御する技能」なのです。
 傷害行為とは、群衆の中で刃渡り10pの刃物を振り回すことです。刃渡り20センチならば殺人行為です。
 被告人はABS機能付きのセルシオを120/200で走行させ、赤色右矢印に従い、交差点内に進入し、右折しようとしましたが、対向右折車を発見し、瞬時に右折左折の判断を行い、衝突を回避させる為には左折すべきと結論し、左折させて、衝突回避に成功しました。「赤色信号を殊更無視し」ではありません。漫然と直進走行をさせた訳ではありません。ちゃんと、衝突回避行動を取り、かつ成功しているのです。事故予防行動を取っています。その直後、ABSが機能せず、横滑りをおこして歩道の3人をなぎ倒しましたが、ABSが機能して車を静かに停止させ、車が横滑させていなければ、事故は発生しませんでした。
 被告人は衝突回避行動をとっており、群衆の中で刃物を振り回したのではありません。120/200で走行することが危険運転と言うのならば、高速道路の車の半分は有罪です。それならば、トヨタは120qを超えたら警告音を発生するように改造すべきか、国が製造を禁止すべきなのです。
 
 愛知県民がトヨタを誇りとすると同じように、ブラジル日系人もトヨタを誇りとしています、金を貯めてトヨタ車を、特に最高級車セルシオを買いたいのです。日系人のトヨタに対する信仰には訳があります。
 特殊潜行艇5隻が真珠湾攻撃に向かいましたが、全艦沈没し、9人戦死して九軍神の英霊となりました。一人酒巻和男海軍少尉が生き残り、捕虜第1号となりました。戦後帰国しましたが、捕虜、捕虜と世間は冷たく、日本にはおれず、ブラジルに旅立ち、トヨタブラジル支店長となりました。日系人は彼を捕虜ではなく真珠湾の英雄として愛しました。彼の努力でブラジル人はフォードよりベンツよりもトヨタを愛したのです。
 1974年ルパング島から帰ってきた小野田陸軍少尉もそうでした。日本で暮らせなくてブラジルに渡り牧場経営を始めたのです。
 ブラジルの民は、日本からのはぐれ者に暖かいのです。
〈ここらへんで、検察官が異議を言い出すであろう。証拠に基づかない弁論だと しかし、恐れることはない〉
 検察官から異議が出ました。裁判長、時計を止めてください。この異議に対する問答の時間は、私の弁論の持ち時間に加算されるべきではありません。ボクシングで審判が試合を止めたとき、時計も止めるのです。2500年前のギリシャにも陪審裁判がありました。100人300人規模の陪審員が集まるのです。法廷の真ん中に水時計が置かれ、双方の弁論の時間を公平に測るのです。異議が出たときは裁判長は水時計の穴に指を入れて止めるのです。
 検察官の異議に対する弁護人の弁明の機会を与えよ。
 天皇陛下も証拠には登場していない。しかるに、検察官はその時異議を述べていません。酒巻海軍少尉も証拠にない。しかし、これらは公知の事実であり、かつ罪体の証拠のことで言及したのではなく、罪体への導入部分として言及していることです。弁護人はシェークスピアも論語も引用していいのです。若い検察官は、ブラジル移民のことも酒巻少尉のことも知らないだろうが、年寄り達は涙なくして語れない話なのです。
 検察官は弁護人の弁論の腰を折ろうとして異議を言いました。裁判員諸君、私の話の続きを聞きたいのか、聞きたくないのか、決めて下さい。裁判長、裁判員とともに評議を開始して下さい。

 検察官の異議を棄却するとの決定を得れば、 公正なお裁きに感謝します。
 日系人の誇りは酒巻支店長の売るトヨタ車です。性能抜群、完璧なる安全性を信頼したのです。
 ABS、急ブレーキを掛けても、車をスリップさせることなく、静かに停車させる装置です。最高級車セルシオには常備されています。証拠の説明書を読みましたね。ABSについて良いことばかり書いてありますね。ただ、高速時には働かなくなることもありますと書いてありますが、何qからか書いてありませんね。ポルトガル語での説明書はありません。
 被告人は120/200で走行していたのです。控えめな速度で走行していたのです。120q位でABSが壊れることを信じていなかったのです。対向右折車が接近したとき、被告人は急ブレーキを掛けました。真っ直ぐ進み、静かに停止するものと信じていたのです。世界のトヨタ、酒巻少尉が誇るトヨタを信用していたからです。
 120qなのに、急ブレーキを掛けると、ABSが働かずに、車は横滑りして歩道の三人をなぎ倒しました。横滑りさえしなければ、なぎ倒すこともなかったのでする。これは、危険運転ですか、通常の交通事故ですか。
 酒巻少尉の潜水艇は真珠湾潜入に失敗しました。ジャイロコンパスが故障していたのです。夜明け前の暗闇の海、潜望鏡だけで悪戦苦闘しました。故障したら帰艦せよとの命令が下されていましたが、酒巻少尉は帰艦しなかった。上陸して拳銃だけで戦いを挑もうとしましたが、人事不省になって捕虜になりました。ジャイロコンパスの故障さえなければ、湾内に突入し、敵戦艦アリゾナに第一撃が出来たのです。北太平洋の荒波に揉まれて、日本海軍の誇るジャイロコンパスは壊れました。トヨタの誇るABSは120/200で壊れました。二人の男の運命が変わってしまいました。もしかすると、ブラジルで酒巻少尉と被告人の祖父母は出会っていたかもしれません。大草原の奥地、トヨタ車の販売に来た酒巻少尉、古びたカンカンから皺クチャの紙幣を取り出して支払う祖父母、永年貯めた金で買う最初のトヨタ車、渡来以来初めての買い物、誇りのトヨタ車、検察官はパトカーの追跡から逃げたと非難しています。
 逃げることは無罪なのです。逃走罪という罪があります。これは正式に逮捕されてから、拘置所や刑務所から逃走する罪であり、逮捕前は、巡査に「止まれ」と言われても、犯人は止まる義務はないのです。
 検察官は、素人には耳障りのよいことを語って、法に義務なきことを有罪の理由にしています。
 検察官は三人を救護しなかったことを非難しています。しかし、被告人は飛ばされた三人の姿を見ていないのです。ですから、巡査に追われる犯人のように、走り出しても違法でないのです。
 危険運転致死罪には、飲酒・薬物の場合が多いのです。しかし、被告人は何も飲んでおりません。
 三人死なせたことは悲しいことです。悲惨です。しかし、たった1秒間の出来事です。ABSが働かなかったのです。1秒の過ちを27年の懲役にしてよいのでしょうか。
 今から3000年前、イランにハンムラビ王がいました。ハンムラビ法典を作りました。目には目を、歯には歯を、と言います。
 わざと失明させても、目医者が治療に失敗して失明させても、同じ罰を与えるのです。これを結果責任主義といいます。野蛮から文明へと、人類の法の進化論により、結果責任主義から行為責任主義へと進化しました。
 刑法第38条は、故意犯を罰する。過失犯を罰するときは特に法律で定めたときだけにすると規定しています。例えば、詐欺とか器物損壊は故意犯だけ罰します。過失犯は罰しません。このように、刑法は行為責任主義となり、故意犯と過失犯は絶対的に区別しています。過失犯を処罰する特別の法律があっても、刑期は故意犯と比べて大幅に少ないのです。
 例えば、計画的ではなく、一人を殺したとき、刑は十年以下が多いのです。3年として執行猶予をつけることも多いのです。
 交通事故で一人死なせた場合、しかも、無免許・飲酒・暴走の交通三悪が重なると、実刑一年から二年が多いのです。交通三悪がないと、たいてい執行猶予が付きます。このように、故意犯と過失犯は刑期が全く違います。
 本件で、交通三悪はいくつありますか。無免許だけです。飲酒はありません。暴走は、120/200の速度、ABO不良によるスリップですから、暴走があるとは言えません。貧しさ故に被害弁償も出来ません。しかし、貧乏は罪ではありません。貧乏人を貶めないでください。
 検察官は27年を求刑しています。これは計画的でなく3人を殺した殺人罪の刑に等しいのです。無期ならば12年で仮釈放ということもありますが、27年は丸々刑期を勤めることもあります。
 検察官は故意犯と過失犯を混同しています。結果責任主義なのです。刑法の根本原則、行為責任主義に反します。
 検察官は求刑27年と主張しましたが、弁護人は通常の交通事故と同じく、扱うよう求めます。余罪の併合罪もありますが、それでも5年を超えることはあり得ないと申し上げます。 
 最後に強調したいことは、今申し上げていることは弁護人が法律的援助者の立場から申し上げていることです。被告人はだだ罪を認めて頭を垂れ、被害者の冥福を祈っています。しかるに、検察官は、反省が足らんと、被告人の垂れた頭を踏みつけています。
 被告人は外国人です。日本語も日本の法律も分かりません。危険運転致死も業務上過失致死の違いも分かりません。もしも検察官が未必の故意の殺人罪で起訴しても、被告人は意味が分かりませんから、認めることもあり得ました。
 憶えておいて下さい。
 被告人の頭を垂れている姿を、弁護人が言い過ぎたかもしれません。それは被告人の意思とは無関係です。叱るのならば弁護人だけを叱ってください。
 弁護人が法廷の正義のために法律論を述べたことを、日系人の母上、兄弟が、祖国の法の正義をじっと見つめていることを、昔、棄民政策で島流しにしました。その蒼氓の民を今は懲役27年にするのですか。
 裁判員諸君、何年か後、貴方が120qで運転していて、猫でも避けるために急ブレーキを掛けて、横滑りして歩道の三人を死なせたとしましょう。
 その時、検察官から
「お前は何年前に裁判員を勤めたね。今回と同じ120qで3人死亡だね。あの時の判決は懲役何年だったね。今回、お前は、危険運転致死を認めますか。何年役めますか」と問われたら、貴方は何と答弁されますか。
 パトカーに追われる窃盗団と一緒にしてくれるな、との反論があり得ます。しかし、刑罰とは、やはり行為と結果の重さで決めるべきです。何qで何人死亡という行為と結果が同じならば、同じ刑期にすべきです。
  
 私は落胆しています。
 このように危険運転致死を争っても、懲役23年の判決を下された可能性が高いからです。闘っても23年、認めても23年、裁判員裁判発足時に危惧された感情裁判になっていたからです。
 このブラジル人窃盗団の事故により罪のない三人が死亡し、犯人が逃亡したことはマスコミで広く何回も報道され、鉄槌を下せ式の報道が繰り返されました。裁判員はそれを読んでおり、既に厳罰のイメージを抱いて法廷に来たのでしょう。
 刑事6部の執行猶予の付いた事件は報道が殆ど為されず、世間の話題になっていませんでした。この違いが出たのです。
 裁判員の表情を読みました。
 マスコミ報道を知っており、あ、こいつか、三人も殺して、さあ、厳罰にするぞとの感情が出ていました。
 120/200もABSも聞くことがありませんから、厳罰一直線です。

 陪審員裁判、裁判員裁判に付きまとう、感情裁判の恐怖
 アメリカでは300年の歴史を掛けてこの対策を講じています。
@犯罪地と裁判地を離して、犯罪地の興奮から冷まします。
 白人居住地で、黒人が白人女性を強姦した陪審員裁判では町中に「ハング 吊せ」のプラカードが並ぶのです。アメリカもそんなに文明的ではないのです。ですから、裁判地を遠く離します。
 この裁判も東海地区以外で開廷されていたら、減刑されたと思います。少なくとも日本新記録を出すことはなかったでしょう。そもそも、量刑で日本新記録を出すということは、その法廷の恥です。全国均一の判決を目指すべきです。
A陪審員全員一致制
 12人の内、一人でも冷静な陪審員がいれば、冤罪を防止できます。
B陪審員は事実認定だけ、量刑は裁判官
 裁判の目的は全国均一の量刑です。何処の裁判所で裁判を受けても、均一であるべきです。陪審員は全国の量刑相場を知りません。ですから、陪審員は事実認定の有罪無罪のみ評決し、量刑はそれを熟知し、かつ冷静な裁判官に委せるのです。
C裁判官が陪審員に説示するとき、疑わしきは罰せずから、証拠の判断基準、感情に左右されず、裁判官が法廷に提出を許した証拠のみを判断の対象とすることを懇切に説示します。何時間もかけるときもあります。
D有罪のとき、控訴権、控訴審で再審理

 感情裁判に対する対策
 アメリカでは裁判官が陪審員に感情裁判を避けるよう法廷で説示し、弁護人はこれを聞いています。弁護人は裁判官の説示に違法が有れば、異議を言いますし、控訴理由とします。日本では、裁判官は法廷で裁判員に説示せず、退廷して評議室で説示します。ですから、弁護人には何が説示されたのか、分からないのです。もしも、違法な説示がされていても、裁判員の守秘義務により、弁護人が知る機会は永久にありません。控訴趣意にも書けないのです。大きな問題点です。
 裁判員裁判制度発足によっても、控訴審制度に変更はありませんでした。ここにポイントがあります。
 昭和陪審制では、控訴審はなしで、いきなり、法令違反と判例違反の大審院でした。破棄された事例の多くは裁判官の説示違反です。裁判官は、有罪無罪を説示できないのに、してしまった例が多かったのです。
 今、高裁判事は裁判員裁判の控訴を受けて迷っているでしょう。裁判員の判断を尊重するのが民主主義ならば、破棄できないのです。やる仕事がなくなる。高裁は一体何をすれば良いのか、苦慮されているはずです。
 高裁は、事実誤認、法令違反と全国量刑相場違反を対象とすべきです。この点、以前と変わるべきではありません。現在、高裁は一審判決後の示談成立位しか、破棄しません。これを改め、高裁判事が存在感を示すときです。量刑の不当、感情的かつ証拠に基づかない、明治以来100年の精密司法の伝統に反する、事実認定、法令違反を破棄すべきです。
 裁判員裁判の判決は短い。否認事件であっても、10枚程度なのです。
 普通、否認事件の判決は、100枚を超えるのが多い。任意性と信用性に対する判断は、証拠に対する経験則と心理学を駆使し、罪体への判断は証拠に対する精緻な論理過程を示すのです。判例集は司法文化として後世への遺産です。何故、有罪、或いは無罪の結論に至ったのか、裁判官の精緻な思考過程と脂汗の滴るのを感ずる判決が多いのです。10枚程度の裁判員裁判の判決は、これまで築き上げてきた精密司法文化を崩壊させます。
 法律と裁判の素人を短期間集めて10枚程度で仕上げた判決は、高裁で精密司法の裁判官により再点検されるべきです。裁判員裁判は民主主義であるから、変更できないとの考えは、俗説です。素人の地裁、玄人の高裁の区分が維持されるべきです。職能分担の思想により、司法全体の正義と民主主義を守るべきです。素人の多数決挙手式の判決を玄人の高裁判事が再点検するのです。
 特に、明治以来100年の精密司法が築き上げてきた、自白調書の任意性に対する判断、違法収集証拠排除論を適用し、一審裁判官が行った証拠決定に対して再検討すべきです。一審裁判官が違法に任意性を認めて証拠採用した自白調書、違法収集証拠が証拠として裁判員の目に触れてしまったのです。一審裁判官の違法を高裁が正すことは従前と同じであり、裁判員裁判制度施行にもなんら影響を受けていません。
 アメリカでは、任意性なき自白調書、違法収集証拠に対する排除は日本より厳格です。少し警官が手続きをミスしただけで、弁護人を呼ぶ前に自白調書を取ってしまった位のことで、ミランダルールの違法収集証拠として排除されています。それの理由は、違法な証拠は陪審員に見せるべきではない、素人は誤解しやすいからであるとされています。素人が誤解しやすい証拠という観点から、証拠排除基準が拡大されます。 拷問、強制、脅迫、長期間の拘束などの理由に限定されず、誘導・誤導・利益供与・法の不告知など、これまで任意性を否定する理由としては例外的であったものについても、原則的に証拠排除が認められるべきなのです。この点はアメリカの例が大いに参考になります。素人の陪審員に見せるべき証拠と見せるべきではない証拠を区分することが、法廷の主宰者である裁判官の義務であるべきです。アメリカ判事は良く言います「陪審員諸君、今の証言を記憶から消したまえ」

 従って、日本で裁判員裁判制度施行により、以前より厳しい、任意性、違法収集証拠排除論が唱えられるべきです。高裁判事の仕事はより重要になったのです。裁判員の判断を再審査することは、玄人の素人に対する判断として勿論ですが、裁判員の判断の前提となった裁判官の証拠採用決定を、玄人の玄人に対する判断として、再審査するのです。この点に限れば、従前の控訴審と同じ事です。
 裁判員裁判制度発足によっても、控訴審制度に変更はなかったのであり、むしろ高裁判事の使命がより大きくなったと言うべきです。