裁判員裁判1
 陪審制の歴史 」2010.02.12
  起源前のギリシャのアテネにも陪審制はあった。ソクラテスも陪審員に裁かれた。何百人も市民が陪審員に選任され、全員無給であった。
 この時代のことは良く分かっていない。陪審制が一般に認められるようになるのは、紀元1000年頃のイングランド史からである。
 陪審制は、1000年前のイングランドの習慣から始まり、1215年のマグナカルタに書かれている。「自由人はその同輩の合法的裁判による以外処罰されない」
 国王がまだ領主と呼ばれていたとき、村に犯罪が起きると、領主は軍隊を連れて村を包囲し、主立った者を教会に押し込んで「お前達で裁判をして犯人を引き出せ」と命じたことが始まりである。領主は捜査能力がなく、村のことは村人で決めさせれば間違いがないとしたのである。
 国王の権力が強力となったとき、国王は勝手に課税し、裁判で罰金を取った。有罪の時、被告人は財産没収の罰金となり、連座罰で一族郎党まで罰金となった。国王は課税と罰金で富んだ。
 これはたまらんと人民は革命を起こし、国王を取り囲み、「課税するときは議会の同意を取ります。裁判には陪審員を参加させます」と詫び証文を書かせた。これが憲法である。書かなかった国王は処刑された。1600年代のことである。
 人民の代表を議会へ、人民の代表を法廷へ、
 イングランドの陪審制は1600年頃植民地であったアメリカ大陸へ輸出され、その地で独自の進化を遂げた。英国王の代理人である総督から植民者を保護する機能を発揮し、イギリスの名誉革命、フランスの市民革命に影響を受けて、デモクラシーとして陪審制が確立された。植民地の自治はやがて独立へと進み、憲法で陪審制が規定された。
 南北戦争の直後、リンカーン大統領は戦死者を悼み、何の為に彼らは命を捧げたかを、人民の人民による人民の為の政治という言葉に凝縮させて世の人に感銘を与えた。

 明治の自由民権運動は、憲法を制定させ、議会に代表を送った。
 大正デモクラシーは、普通選挙と陪審制を昭和3年に実現させた。
 明治から大正に掛けて、疑獄事件が連続し、過酷な取調の中で自殺者が続出し、官憲の暴力が批判された。政友会原敬総裁は冤罪を防止し司法官憲の暴圧を阻止する制度としての陪審制を提議し、大正12年議会が可決した。
 役人は権力を放さないのを常とするが、大正の司法官は陪審制に賛同した。陪審法廷と宿舎が建設され、陪審員には夕食に酒1本が供された。陪審員は羽織袴で出廷し、人民は普通選挙にそれぞれの威儀を正して出頭した。
 冤罪を防止するためには、人民の知恵に託すべし。陪審は成果を上げ、無罪判決が続出し、陪審制は日本に定着しかけた。普通選挙と陪審制が民主主義の発展に貢献した。
 デモクラシーを打倒したい昭和ファシズムは議会制度を破壊して侵略戦争へ進み、戦争激化の中、陪審制は昭和18年停止となった。戦後新憲法が制定され、男女の普通選挙権が実現したが、陪審制の復活は遅れた。戦後冤罪事件が後を絶たなかった。いくら知恵を絞り、自白偏重を批判し、科学的捜査を叫んでも、古畑鑑定・足利事件のDNA鑑定の通り、裏切られてきた。やはり、人民の知恵に託するしかなし。かくして陪審制が復活したのである。私は生きている内に陪審制の復活を見たことを無上の喜びとする。マグナカルタは待っていたのである。
 この復活に平成の司法官も積極的であった。

 裁判員制度に対して、赤紙一枚で兵士を召集する徴兵制だと非難する人々がいる。全く反対である。陪審制はファシズムに反対するデモクラシーの思想である。投票所へ行くと同じように法廷に行くのである。
 人民はそんなに進化していない。裁判員制は時期尚早であるとの批判もある。しかし、教育勅語の読み書きと明治の議会選挙の訓練を受けた大正の人民はその能力を既に備えていると、議会と天皇が認めたのである。それから90年が経過した。遅すぎる位であり、時期尚早はあり得ない。