裁判員裁判3
 陪審員と参審員 」2010.02.23
1、最初に出来たのは、陪審制度である。
 イングランドで11世紀に誕生し、欧州大陸に広がり、アメリカで独自の発展をした。
 ある村で犯罪が発生すると、国王は軍隊を派遣して村を取り囲み、村の主だった人を何十人と教会へ押し込め、お前達で裁判をして犯人を差し出せと命じた。これば陪審制の起源である。
 陪審員は、宣誓した、隣人の、同輩の証人と言う意味である。現場を良く知る者という条件で、犯罪地の住民が選ばれた。
 旧約聖書モーゼの十戒「汝、隣人について偽証するなかれ」陪審員は宣誓を求められ、キリスト教の神に誓い、評決を間違えることは、神への偽証となった。

 陪審制の特徴は、裁判官と陪審員の分離独立である。
 裁判官は事実及び法律について陪審員に説示するが、決して有罪無罪を判断せず、示唆もしない。裁判官は審理の最後に裁判の争点を整理し、陪審員が判断すべき事を示すだけである。「有罪かもしれないし、無罪かもしれない」と説示しなければならず、「有罪かもしれない」とは言えない。
 陪審員が無罪の評決をしたとき、裁判官は覆すことは出来ない。無罪評決には絶対的効力が与えられている。
 陪審員が有罪の評決をしたときは、裁判官は陪審員の任務を解き、更に量刑審理を進めたうえ、量刑判決をする。
 陪審員の数は12人であることが多い。軽罪事件では6人のときがある。6人以下の陪審員制は否定されている。数を揃えてこそ、真実に到達できるからである。
 陪審員の評決は全員一致である。全員一致するまで評議は長々と継続する。裁判官はこの間待たされるが、いらいらしても、評議室を覗いて「どうなっとる」と尋ねることも出来ない。昔、いらいらした裁判官が陪審員を荷馬車に閉じこめ評決が出るまで裁判所構内をぐるぐる走らせたが、決して荷馬車の中には入らなかったという話も残っている。
 最終的に全員一致の評決が出来ないときは、評決不能ハングジュリーとなり、裁判官は陪審員を解任し、新規の陪審員を招集して、裁判は最初からやり直しとなる。ここで検察官が諦めれば、起訴取り消しとなるが、諦めなければ、新陪審員を迎えて証人調べもやり直す。
 何故、全員一致にこだわるのか。一人でも無罪を主張する陪審員がおれば、有罪は証明されたとは言えない。合理的疑いを越える証明がなされたとは言えないからである。
 全員一致制の為に裁判が長引くことを懸念して、多数決制に進む国もある。陪審員制発祥の地、イングランドは戦後1967年10対2の特別多数決制に移行した。アメリカでは、5州が10対2或いは9対3の多数決を採用している。46州と連邦裁判所は全員一致である。スコットランドは元々イングランドと法制を別にしており、単純多数決である。

2、参審制 
 英米法は陪審制、大陸法は参審制、職権主義の伝統が強いからである。
 ドイツでは、裁判官3人、参審員2人で、3分の2以上の多数決、裁判官と参審員の5人で量刑までおこなう。参審員は任期5年間であり、5年間に何件も裁判を担当する。陪審員がその1件だけとは大いに違う。
 参審員2人が法律の専門家の裁判官3人と互角に評議できるか、大いに疑問のあるところで、単なるお飾りになっているのではないかとの批判が当たっている。 ロシアでは陪審制があった。トルストイの名作「復活」の冒頭は、主人公の侯爵が陪審員となり、殺人事件の被告人となった初恋の人に再会するシーンである。革命後ソ連は参審制に変更してしまい、裁判官の横に人民の代表たる参審員が並ぶこととなったが、裁判官に反対すれば、反革命分子として処刑されるので沈黙するしかなかった。
 陪審制と参審制の違いは、陪審員が裁判官から独立しているかの違い、全員一致制かどうかである。裁判官の職権主義官僚主義を排して、人民の知恵に託す、という意味からは、陪審制の方が優れている。
 フランスは、1789年フランス革命後陪審制を採用したが、改正され、裁判官3人と陪審員9人が、有罪か無罪かを9対3で、量刑を8対4で評決する。裁判官と陪審員とが同じ評議室に入り、量刑まで評決する意味では、参審制に近いが、裁判官の数より陪審員の数が3倍であり、裁判官の支配力が弱いから、陪審制に近いと言える。
 日本では、戦前から民事調停委員制度があり、知識人徳に優れた一般人が調停委員となり、民事紛争の調停解決を裁判官の指揮の下に行っている。判決手続きに関与する訳ではないが、外国には民事陪審制もあることから、日本の調停制度は民事参審制と呼んでも良い。戦前の陪審制と同時期に民事調停委員制が出来たことを日本法制史上特筆すべきことである。あの人権蹂躙のファシズムの時代、裁判所に一般人が民事と刑事事件の解決の為に出入りしていたのである。
 現在、2万人の調停委員が民事家事調停事件で年間35万件を解決している。この規模は世界に類がない。
 調停委員は志願制であるが、検察審査会は裁判員と同じく、呼び出し制であり、検察官の不起訴を審査し、不起訴不当か否かを議決し、検察官の捜査を洗い直す。反対の意味での、大陪審である。検察審査会の委員を務めた人に対する統計調査があるが「突然の呼び出しで訳も分からず当惑したが、やってみると貴重な体験を得て、法や裁判への理解が深まり、有意義であった」との感想が殆どである。「突然呼び出されて迷惑した、検察審査会など廃止した方がよい」と言う意見は極めて少数であった。現在、裁判員制が徴兵制だとの批判があるが、検察審査会体験者の殆どは喜んで裁判員になるであろう。

3、素人裁判より専門家の裁判官の裁判の方が誤判を防止できる、との説がある。ならば、戦後山ほど起きた冤罪事件は何故なのか、との反論に説明できない。
 素人には素人なりの長所がある。玄人には玄人の欠点がある。日常性の錯誤である。
 警察官・検察官・裁判官は毎日毎日犯罪者と付き合って暮らしている。朱に交われば赤くなる。100人の容疑者に付き合っていると、99人は本当の犯罪者であり、1人が無罪である。しかし、日常性の中で見分けが出来なくなる。
 スーパーの出口で鞄調べをしたら、値札の付いたままの商品が出てきた。逮捕すると、容疑者は「無罪です。トートバックだから誰かが悪戯で或いは私に悪意を以て投げ込んだのです」と弁明すると、たいていの警察官は「まあ、嘘を上手に付いて、本官を嘗めるのか、23日間泊まって貰うぞ。有り体に申せ」と怒鳴り出す。毎日毎日、万引きを見ているから、これも万引きと思い込むのである。
 しかし、素人の陪審員は、「そんなこともあるかも知れない。トートバックは蓋がないからね、で、商品の指紋検査はしたの」と質問するであろう。
 警察官証人が「鞄に入っているのを現認して逮捕したのですから、指紋検査の必要を認めません」と証言したとき、陪審員は首を捻るだろう。
 「それって、捜査の手落ち、警察には証拠保存義務ってありませんか」と言うだろう。
 陪審員は100人の善良なる市民の隣人である。犯罪者などを久しく見ていない。法廷に引き出された被告人を見て、犯罪者だと言われても、合点がいかない。証拠は何処にあるの、と質問する。この素人の感覚こそ、陪審員の感覚であり、隣人の冤罪を救うのである。

4、電車痴漢冤罪事件が多発している。
 5年前までは、被害者から「この人、痴漢よ」名指しされたら、被告人は助からなかった。混雑した電車の中での無罪の証明など、悪魔の証明に等しい。
 被告人の無罪の証言、被害者の有罪の証言、+−の証拠が並んだとき、裁判官は、日常性の錯誤の原理により、起訴に対する有罪率99.5%原則に従い、いつも法廷に来る者は犯罪者と予断し、被害者の告訴の勇気を讃えて有罪判決を下した。
 しかし、その後、被害者の中には示談金で儲けている者がいるとの話、男と女が共謀して痴漢事件をでっち上げ示談金詐欺を謀ったが、女が途中で改心して自首した話、防衛大学医学部の教授が一審二審で実刑判決となったが、いくらなんでも最高の紳士がやる筈ないだろうと最高裁が逆転無罪にした話、等があり、被害者の証言だけで有罪にしない、手に粘着テープを貼り付け、下着の繊維が付着しているか検査する方針に変わった。遅すぎるのである。これまで有罪確定した事件でどれだけ冤罪があるのかと恐ろしくなる。

 そもそも、猥褻と迷惑防止条例違反とを区別せずに、被害者の告訴があれば、初犯でも起訴したという実務が間違いであった。パンティの中まで手を突っ込めば、強制猥褻、しかし、スカートの上から撫でる程度では迷惑防止条例違反に過ぎない。違法の程度が違うのである。ところが、条例違反程度の事件でも、容疑者が否認すると初犯でも起訴した。一罰百戒と言うのである。
 しかし、私が検察官ならば、初犯の条例違反ならば、否認していても、全部起訴猶予にしてしまう。但し「混雑した車内のことで、痴漢をした記憶はないのですが、誤解を与えたかも知れません。今後は誤解されないように注意します」の一札を取っておく。これでも二泊はしてもらうから、警告としては十分効果がある。強制猥褻事件でも、少し疑問があればこうする。
 その後やったら、犯意疑い無しで、起訴する。
 もともと、この種は常習犯なのである。やる奴は又やります。泳がせておけばよい。