裁判員裁判9
 合理的疑いを超える証明 」2010. 3. 8
1、有罪にするには、合理的疑いを超える証明が必要とされる。
 裁判員裁判では、裁判長がこれを密室の評議室で説示するようだが、どうやって説示するだろうか。
 これの起源はアメリカ判例にあるが、素人が聞いても、絶対に分かりにくい。私だって、実は自信がない。
 アメリカの裁判長の手元には、各州法律家協会の作った説示集の種本があり、いつも陪審員に「合理的疑いを超える証明」のページを法廷で読み上げることにしている。種本の朗読だから、弁護人は異議の申立ようがない。聞いている陪審員もチンプンカンプンなのだ。余りにも分からんから、陪審員が自宅で辞書を引いて理解したつもりになり、有罪評決したら、高裁から法廷以外で仕入れた知識で評決したらいかんと破棄差し戻しにされた。
 私の手元にあるから全文引用しても良いのだが、3ページもあり、聖書か哲学書のようであり、退屈きわまりないから止めておく。

 要するに、疑わしきは罰せず、ということだ。
 黒か白か、ではなく、黒か黒でないかを評決する。白の証明は悪魔の証明で出来る筈がないと最初から断念している。
 大多数のアメリカの州のような全員一致原則は、一人でも有罪ではないと言えば、全体的に、黒とは言えなくなるから、黒ではなく無罪となる。
 裁判員裁判は、単純多数決原則により、5対4で有罪に出来る。4票も無罪があって、合理的疑いを超える証明が出来たと言えるであろうか。
 単純多数決は、昭和陪審員制と平成裁判員制とスコットランドくらいなもので、イギリスの10対2、アメリカの少数の州の10対2、9対3と特別多数決を採用していることから、単純多数決はむしろ例外的と見られる。
 何故、日本で単純多数決を採用したかは、疑問が多い。ハングジュリーによる裁判やり直しを回避して、一回の裁判で結論を出したい、という拙速主義である。
 将来、裁判員法が改正されるとき、全員一致か、特別多数決に改正すべきである。

2、単純多数決を採用しているので、裁判員が陥りやすい誤解がある。5対4で有罪に出来ることから、一人の裁判員の心の中でも、有罪5対無罪4で決めて良いと誤解しそうである。5対4ならば、黒を疑う証拠が4あることであり、有罪にできない、無罪しかない。
 5対4は裁判官と裁判員全員の頭数計算であり、一人の裁判員の心のなかのことではない。難しい話であるが、もう少しお付き合い下さい。
 ボクシングの判定と誤解してはいけない。
 最終ラウンドが終わると、観客は5対4でチャンピョンの勝ちとか、7対3でチャレンジャーの勝ちとか予想を立てます。単純多数決を刑事裁判に持ち込んではいけません。一人の裁判員の心の中で、有罪5対無罪4ならば、無罪の投票をしなければなりません。
 犯行現場で被告人の姿を目撃したという証人が5人、同時刻に別の場所で被告人を目撃したというアリバイ証人が4人いるとします。裁判員は5対4だから有罪と判断してはいけません。
 訓練を受けた裁判官なら、4人も無罪を裏付けるアリバイ証人がいるのならば、5人の有罪を裏付ける証人がいても、合理的疑いが残るとして、無罪との判断をします。このような場合で、裁判官が有罪判断をするときは、こうします。
 4人のアリバイ証人を細かく調べて、2人は被告人の家族だから信用できない。1人は盲人であり被告人が来ていると話を聞いただけだから、伝聞証拠で信用できない。最後の1人は別の日に被告人と会ったことを勘違いしているから信用できない。だから5対0で有罪とします。
 (勘違いを否定できない、とは書かない。否定できないでは、5対0にならず、5対0.5位はある。有罪にするには、勘違いしていると断定しなければならない。しかし、否定できない式の書き方で有罪認定を平気でする裁判官はいる) 
 最後の1人について、信用性を否定できず、結局5対1となったとき、裁判官は有罪を否定するアリバイ証人が1人でもいる以上、合理的疑いを超える証明は為されなかったから無罪と判断します。
 1人の裁判員の心の中では、5対1は無罪、5対0であって始めて有罪なのです。

 アメリカの民事陪審では、合理的疑いを超える証明は適用されない。蓋然性の優劣の比較でよく、一人の陪審員の心の中で5対4なら原告勝訴の評決となり、この評決を集めて、各州により、全員一致か特別多数決で判決が決まる。
 OJシンプソン事件で、刑事陪審無罪、民事陪審有罪3350万ドル損害賠償命令と異なる結論が出たのは、刑事と民事で証明責任が異なっているからである。
 命を賭ける刑事陪審は厳格に、金の話の民事陪審は緩やかに、ということである。
 
3、証明責任
 検察官は有罪の証明責任を負う。
 殺人事件の場合、検察官は被告人により殺人行為がなされたことについて証明責任を負う。
 被告人から正当防衛の主張が出たとき、検察官は正当防衛が成立しないことの証明責任を負う。
 裁判員は、被告人が正当防衛を主張したのであるから、被告人が証明責任を負わなければならないと思いがちであるが、そうではない。
 過大な証明責任を検察官に負わせた理由は、検察官は国家予算を自由に使い、警察を指揮する捜査権限があるからである。
 弁護士は民間人であり捜査権限がなく、かつ依頼者である被告人は概ね貧困で弁護士に充分な弁護費用を払うことが出来ない。この力の差に着目してハンディを付けているのである。検察官と弁護人とが法廷で戦う姿は、当事者主義であり、力の実質的差に着目してハンディを付けるのは、前に書いた女と男の決闘裁判に由来する。
 当事者主義はトランプゲームに似るとは前に書いたとおりである。検察官が机の下に隠したカードは税金で集めたものであるから、弁護人に開示せよと言う証拠開示制度は最近確立された。これも実質的当事者主義である。