はじめに 2006/08/28
(1) 私は、昭和24年生まれの57歳の弁護士です。昭和49年から名古屋市で弁護士を開業しています。最近の憲法改正論議に対して私なりの意見がありますので、このページを作成することにしました。
著作の出版という形式でも良い訳ですが、インターネットの双方向性の利点を考えました。投稿欄を用意してありますので、ご意見をお待ちしています。投稿意見は尊重いたしますが、管理上不適切と判断するものには、管理者である私の権限で抹消することもありますので、ご承知の上、ご投稿をなさってください。
(2) 憲法とは何か。
 聖徳太子(574〜622)の17条の憲法(制定604年)を思い浮かべる人が多いと思いますが、これは近世憲法学上の憲法とは言いません。「和を以て貴しとなす」とは立派な言葉ですが、これらは天皇が官吏に命じた服務規律であります。
近世憲法学では、憲法とは、国王と国家と国民の三概念の対立関係から発生するものを言います。
17条の憲法では、国王(天皇)と官吏の関係を規律するものであり、対国民の概念がないので、近世憲法学上の憲法とは言わないのです。
 又、国王と国民は実在の概念ですが、国家は法的概念であり実在を視認できません。朕は国家なりと豪語した専制国王にとっては、国王=国家でありますが、国王が打倒されれば国王が不存在となり、国民=国家となります。
 この意味で最初の憲法は、1215年イギリスのマグナカルタ(大憲章)です。
当時ジョン王は国民(と言っても当時は国民の中の有力層である貴族と都市豪商)に対して徴税・逮捕・財産没収を勝手気ままに行っていたが、貴族たちが団結してジョン王をつるし上げ、「議会の同意なしには勝手に致しません」との63条の詫び証文を書かせたのである。ジョン王はつるし上げられて詫び証文のマグナカルタ(大憲章)を書かされただけですんだが、チャールズ1世は、1628年議会から要求された権利請願を、その後11年間これを反故にした結果、議会と対立し内乱となり、クロムウェルの清教徒革命の結果、1649年処刑されている。
 その後ジェームス二世が専制政治を復活させ議会と対立したので、1688年議会はジェームス二世をフランスへ追放し、娘婿のオランダ総督ウィレム夫妻を共同王に迎えている。無血による革命であったので、名誉革命と言う。1689年権利章典制定される。

 フランス革命では、ルイ16世が妻マリアントワネットとともに1793年議会によりギロチン処刑されている。
 このように、国民が国王=国家に対して人権の請求を出して認めさせたものが、憲法なのであり、国王から見れば、詫び証文を書かされたのである。書くことを拒否すれば、内戦となり、勝敗のいかんにより処刑も追放もありえたのである。
 国王が書かされた憲法の内容は、
   議会の承認した法律に基づかない徴税はしない。
   裁判所の承認のない逮捕はしない。
   議会が制定した法律以外に処罰されることはない。
   国王は国民の基本的人権を侵しえない。
 というものであり、憲法制定の歴史的過程の中で、議会主義、法治主義、人権保障、罪刑法定主義という近代憲法思想が結実していくのである。
 国民議会との対立→内乱の中で、フランスでは国王がいなくなり、イギリスでは国王はいるものの「君臨すれども統治せず」の原則に支配されることとなった。当たり前である。統治すれば、処刑か国外追放かの運命となるのが、歴史的教訓なのである。政治は議会に任せ、君臨の名誉のみをもって王政の維持を図ることにしたのである。
 国民は国民を統治する国王を廃帝した後、もっと恐ろしい事態に直面する。独裁者の登場である。国民の代表を唱える独裁者は党派性の熱狂の中で、どんな暴君の国王もなしえなかった独裁と恐怖政治を実行する。ルイ16世は愚帝ではあったが、恐怖政治をした訳でもないが、ルイ16世をギロチンで処刑したロベスピェール(1758〜1794)は恐怖政治と粛清を実行し、フランスを大混乱に陥れたが、最後は処刑されている。 帝政ロシアでは、300年統治したロマノフ王朝最後のニコライ2世(1894〜1917)はロシア共産党ボリシロェビキや左翼党員を多数逮捕してシベリヤへ
追放するなどの弾圧をしていたが、その後のレーニン・スターリンが実行した恐怖政治・粛正と比較すれば可愛いものであった。ニコライ2世は反対派を死刑にすることは少なく、レーニンも処刑されることなくスイスへ亡命が出来た。1917年3月革命でロシアへ帰国し、暴力革命を実行し、1917年女子供も含めてニコライ2世一家を虐殺したことをはじめとして、革命の反対派をことごとく処刑した。レーニン・スターリンの犠牲者は何千万人にも達するであろう。
 どの王家でも国民管理のノウハウを長年の経験で蓄積しており、暴君が出ても一代限りである。外圧あるいは特別の失政がない限り、王家は長続きするものである。徳川幕府が例である。
 暴君を打倒するつもりが、独裁者を招き、王政時代よりも過酷な恐怖政治を体験させられた国民は市民革命の経験として
  国家からの自由と人権保障
  権力の分立、国会・政府・裁判所の三者間のチェックアンドバランス
  法治主義
 を憲法に取り込むことにしたのである。思想的根底には、国家とか権力に対する不信感・猜疑心、権力は腐敗する。絶対的権力は絶対的に腐敗するとの経験則がある。中華人民共和国憲法には、いまだこれらの思想はない。
  
 アメリカはイギリスの植民地であり、イギリスの支配下にあった。植民地アメリカは英国議会に代議士を選出できないまま、課税に苦しんでいた時、「代表なければ課税なし」とのスローガンを掲げて独立戦争(1775〜1781)を起こして勝利するのである。 1776年独立宣言、1781年ヨークタウンの戦いで勝利して独立し、1787年憲法を制定する。
 この憲法の特徴は、
   イギリス王を廃止し、共和制を建国すること
   州と連邦の関係を規律していること(この説明は難しく、後で詳述する)
   徹底した権力分立制
   国家からの自由権、国民の武器携帯権
 である。

 ドイツプロシャでは、英米仏のような国王と議会との内乱(これを市民革命と言う)はなかったが、産業資本主義の発達とともに市民階級が成長し議会勢力を構成するにおよび、旧態依然の国王専制主義では立ち行かないとの国王側の認識から議会主義を取り入れた憲法を先取り制定していくという欽定憲法が生まれた。この欽定憲法は国王から国民へ下賜する形式を取っているが、実際には国王の権限を国民の議会により制限する意味であり、市民革命の防止、国王の権力自制である。
(3)明治憲法(正式には大日本帝国憲法と言います)の成り立ち
 明治維新1868年から明治憲法発布1889年まで21年間しかない。英仏で700年かけて作った憲法を21年間で体得しえたか。
 明治維新が市民革命であったと言う説もあり、その根拠として江戸時代末期の豪農豪商による産業資本主義の芽生えによる市民階級の形成を挙げるが、有り得ない。日本では、市民革命の体験なくして明治憲法が制定されたのである。
国王は誰も処刑されなかったし、国民が国王に詫び証文を書かせたこともなかった。市民革命未体験という事実が、その後の日本の歴史に大きな影響を及ぼし、戦前の軍国主義化に対する国民の抵抗を組織し得なかったことに繋がる。そして21世紀の現在に至るも、日本での市民革命の事実はないのであり、この度の憲法改正が国民の発意によらざる危険性が顕著に存在する。
 しかし、21世紀の今更、国王を処刑することも、追放することもない。これに代わる市民革命の実体験を何に求めるべきかが問題である。市民革命の実体験を持たない国民は、憲法上の国民の権利を自己擁護できず、国民の立場からの憲法改正さえ出来ないであろう。
 私は、方策としては、国民の国政への参加による実体験の積み重ねにより、国民自身が被統治者から統治者へ自己変革しうるようにしむけなければならない。選挙での投票、納税、陪審そして教育、実業の自由により自由産業資本主義を体験すること、自由競争と公正な取引による市場経済の実現、これらの実践の中で、市民革命を実体験することが重要となるが、これは本憲法改正私案の結論に近くなる。後に詳論する。

 長州薩摩による倒幕運動は、武士階層内の権力闘争であり、源平交代、関が原の再戦に等しい。長州も薩摩も関が原の敗者であり、時節改まれば再戦するは藩の宿命であり、外様大名として冷遇され、徳川に恩義はなかったのである。長州も薩摩も倒幕藩士は倒幕後は藩主が征夷大将軍に任命され、新幕府を樹立するつもりで戦っていたのであるが、外圧を乗り切るためには強力な中央集権の新国家が必要であり、封建時代の旧態依然の幕府システムではいかんともし難いこと、長州も薩摩も藩主に英雄はおらず、下級武士団が実権を掌握していたこと、その他様々な歴史的偶然の積み重ねにより、天皇を頂点に戴いた長州薩摩下級武士団が新政府を構築し、かっての藩主に対して、版籍奉還、廃藩置県、武士階級全体に対して秩禄処分(武士を解雇して退職金を分割30年で支払うこと)を行った。封建思想から言えば、忘恩の限りと言える。忠義を尽くすべき藩主をなきものにし、同輩の武士を失業者にしてしまったのである。勿論藩主については華族待遇が与えられ、幕政時代の借金地獄から解放されたから不満はなかったのであるが、秩禄処分により失業者とされた武士は不満が甚だしく、不満武士の叛乱が、佐賀の乱、西南戦争へと続くのである。
 新政府は、明治維新の大義名分であった、攘夷は忘れたふりをし、海外へ留学生を派遣して世界知識の導入に邁進し、西洋の国家体制の導入を急ぐこととし、憲法制定が予定されることになった。
 一方、在野でも、早くも明治7年に板垣退助が民選議院設立建白書を発表し、明治15年頃には在野で憲法私案の発表が相次いでいた。明治維新後数年にして、人民主権、人権保障、二院制、自由選挙、女性参政権、人民の抵抗権、議院内閣制、等を盛り込んだ憲法私案がいくつも発表されている。
 明治維新の1868年までは、日本人は言論の自由も自由選挙も考えたことはなかったのである。「将軍は人民の選挙で決めましょう」と言う者がおれば、奉行所に連行され、ご政道を論ずる不届き者として打ち首にされるのが関の山であるし、江戸の町でこれを談じても、狂人扱いされたであろうことは間違いがない。
 明治政府は、この動きに対して俊敏な対応をしており、明治14年に10年以内に国会を開設するとの勅諭を発布し、1889年明治22年憲法発布、1890年国会開設と進んでいる。このスピードの速さには驚かされる。この明治維新の時期の日本人がいかに精力的に憲法知識の吸収に勤めたか、驚くばかりであるが、私が本憲法改正私案を発表する気持ちになったのも、植木枝盛らの明治憲法私案のエネルギーに触発されたからである。
 在野からの憲法改正私案の続出に対して、明治政府は、明治15年伊藤博文に渡欧させ、たった一年で、主にプロシャの憲法を模範に明治憲法構想を策定する。
 その特徴は、英米仏憲法のような、国王の詫び証文ではなく、国王が国民に下げ渡す式の欽定憲法であり、民主主義の一級低いものであった。
 しかし、伊藤博文が、明治憲法を解説して「憲法の本旨は天皇の権限を議会が制限すること」と述べているように、近代的憲法としての性格は備わっていたのである。昭和になって、軍部と右翼が天皇大権を理由に議会を無力化し、太平洋戦争へと突き進んだのは、実は明治憲法に違反することなのである。市民革命の体験を持たない国民は、明治憲法さえ擁護できなかったのである。
(4) 憲法進化論
 フランス憲法は、1791年憲法から現行の1958年憲法まで15本あり、平均年数は約15年、最長の第3共和制憲法で65年であった。立憲君主制→共和制→帝政→立憲君主制→共和制と変更している。最後の1958年憲法は大統領の名前を取ってドゴール憲法とも呼ばれるが、1958年から2001年までの間に15回憲法改正がされている。例としては、大統領の間接選挙から直接選挙へと改正され、議会中心主義からドゴール主張の大統領中心主義へと改正された。
 公職での男女平等、国民投票による法律の採択も追加されている。
 このように、フランスでは、新憲法の制定とか、憲法改正は常時の政治課題である。

 アメリカ憲法は1788年に制定されたが、このときは連邦統治機構についてだけであり、人権規定はなかった。1791年修正第1から第10条項までが追加され、合計で27回修正されている。1791年以降の憲法改正のうち主だったものを紹介する。
 1865年 修正13条 奴隷の禁止 南北戦争終結の年の改正である。
 1868年 修正14条 適正手続きの保障
 1870年 修正15条 黒人の選挙権
 1913年 修正16条 所得税の新設
 1913年 修正17条 上院議員間接選挙→直接選挙 
 1919年 修正18条 禁酒法
 1920年 修正19条 女性の参政権
 1933年 修正20条 大統領任期変更
        修正21条 禁酒法廃止
 1951年 修正22条 大統領三選禁止
 1964年 修正24条 選挙資格から納税実績をはずす。
 1971年 修正26条 18歳選挙権
 2006年 国旗冒涜禁止改憲案は、星条旗の焼き捨て行為を禁止する
        ものであり、上院三分の二の67票の賛成が必要のところ、
        賛成66票、反対34票で否決された。反対派の民主党は、表現
        の自由に反するとして反対に回った。
 以上を眺めると、アメリカ史の進歩が憲法改正の流れを見ることにより理解することができる。
 アメリカとは不思議な国である。世界そのものを見るようである。州と連邦の関係は、国家と国連の関係に似ている。昔は州の権限が強固であり、連邦最高裁は連邦政府に対して州の権限を侵すものとして何度も連邦政府の決定を違憲と判決していたが、最近は州より連邦政府を優先している。
 現在の国連は各国間の調整に強制力を発揮できていないが、アメリカの州と連邦の関係を世界に及ぼし、国連を強化すれば、世界連邦も不可能ではない。
 アメリカは正義も悪も存在しながらも、未来に向かって前進し続けている。
 欧州からの食い詰め植民者がアメリカに辿り着き、気のよいインディアンを騙して土地を奪い、アフリカから黒人奴隷を輸入して差別しながら、天賦人権論を唱えてイギリスに対する叛乱に勝利し、理想高邁で格調高い独立宣言をした。人は皆法の前に平等だと言うのである。インデァンも黒人奴隷も迫害・差別をしているのにである。
 北部の工業、南部の農業、西部への開拓、この中でインディアンへの迫害、奴隷差別、貧民増大による貧富の格差、自然破壊とバッファローの死滅、自由と平等と博愛を唱える陰には血まみれがあった。もっとも中米・南米を征服したスペインと比較すればまだ可愛いものではあったが。
 アメリカは、このような現実を覆い隠すことを長くはせず、人道主義の方向に向かっていった。奴隷制廃止のために南北戦争では60万人が戦死している。第二次大戦では55万人であるのに。
インディアンに対する迫害は続き、インディアン部落は焼き討ちされ、西部へ強制移住させられたが、19世紀末には、保護されるようになった。今ではインディアンの居留地への白人の侵入は禁止である。
白人がインデイアンの土地から恐竜の化石1個掘り出して買っても、連邦警察が出動して化石をインデアンに返還してしまう。アメリカの博物館にある史上最大の肉食恐竜スーがその例である。
 連邦政府の許可なくしては白人はインディアンと不動産の取引が禁止されているのである。化石も不動産の一部なのである。

 アメリカはいつも大きな過ちを犯すが、必ず改めることを繰り返している。第二次大戦では日系人を砂漠の強制収容所へ隔離した。ドイツ系人に対しては自由を保障したのにである。第二次大戦中、日系人は人種差別であり憲法違反だと最高裁まで提訴して戦ったが、最高裁は憲法違反ではないと退けている。
 しかし、1988年になって、連邦議会は日系人に謝罪し、一人2万ドルの補償金を支払っている。
 インディアン、黒人奴隷、人種差別、第二次大戦後のマッカーシーの赤狩り、と間違いを犯すが、時を経て改めている。禁酒法の憲法改正があったが、これなど不合理が判明して14年後には禁酒法廃止の憲法改正をわざわざしている。この間シカゴのギャングの金儲けのネタになっただけのことであった。
 ストウ夫人の「アンクルトムの小屋」という黒人奴隷の悲劇の涙話が南北戦争60万人の戦死者の原因になった。
 アメリカ人は特定の倫理観に熱狂することがあり、この特性を掴む大衆政治家は大統領になれるのである。
 アメリカが未だに謝罪しないことに、原爆投下がある。第二次大戦を終結させるためにやむをえなかったと居直り続けている。
 アメリカも批准した1925年のジュネーブ議定書では、毒ガス使用を禁止している。毒ガスは戦闘員、非戦闘員問わず広範囲無差別的に殺傷する残虐な兵器であるが故に禁止となったのである。毒ガスが禁止ならば原爆が禁止であることは当然の解釈である。原爆は放射能を撒き散らし、毒ガスより格段に殺傷力が強いからである。原爆は広範囲性からして、非戦闘員に対する組織的大量虐殺であり、ナチスがユダヤ市民を毒ガス室で虐殺することと変わりがない。西ドイツのブラント首相は1970年ポーランドのワルシャワゲットーのユダヤ人虐殺記念碑の前で膝まつき、頭を垂れた。ユダヤ人はナチスドイツを決して許さないであろうが、ブラント首相の謝罪を素直に受け入れた。いつかアメリカ大統領が広島と長崎でそうする日が来ることを信じている。それまで日本とアメリカの本当の友好はない。
 戦時国際法では、非戦闘員に対する組織的虐殺は禁止されている。日本軍は第二次大戦でこれを忠実に守ってきた。アメリカの非戦闘員で戦死したものはたったの6人である。1945年日本軍がアメリカ大陸へ山火事目的で焼夷弾付の風船を大量に飛ばしてたことがあり、その一個がアメリカ大陸に到着したが、牧師親子が風船を触っているうちに爆発し、6人が死亡している。これ以外にアメリカの非戦闘員市民が戦死した例はない。真珠湾では市民に犠牲者が出ているが、これはアメリカの対空砲火弾が住宅地に落ちたのが原因である。日本軍機はアメリカ戦艦あるいは軍事施設を目標に必殺の爆撃を試みるのであり、非戦闘員を狙う一発の弾も持ってはいなかった。アメリカは昭和17年4月のドーリットル初空襲以来、軍事施設以外の学校とか住宅地を爆撃しており、アメリカグラマン戦闘機の機銃掃射を体験した子供は多かった。校庭を走って逃げる子供に対して銃撃を繰り返すグラマン戦闘機の姿は、インディアン部落を襲撃する騎兵隊と同じである。
 日本は撃墜したアメリカ軍機の操縦士を捕虜として国際法に従い厚遇していたが、住宅地の非戦闘員を爆撃したアメリカ操縦士捕虜に対しては、日本の軍律法廷は国際法違反を理由に捕虜の待遇を与えず処刑したが、戦後アメリカは軍律法廷の裁判官を戦犯として報復裁判にかけている。
 
 以上見てきたとおり、憲法とは進化するものであり、歴史の進歩を国民の最高法規たる憲法に刻んでいくことが歴史に対する現在国民の責任である。日本国憲法は60年間改正がない。この間歴史が進歩していないのではなく、憲法改正反対運動が憲法の進化を押しとどめているのである。60年前にできた日本国憲法は歴史の進歩の中で遅れた存在になりつつある。憲法改正すべき点があるのならば、改正すべきが正しい。
 現在、日本国憲法改正を反対しているのは、第9条戦争の放棄に対しての特定の反対者であり、第9条戦争の放棄を改正したくない一心で他の条項の憲法改正全部にも反対しているのである。だから単に憲法改正の手続き的規定に過ぎない憲法改正国民投票法の審議にも反対している。守るべきものは守り、正すべきものは正す、という見地に立てないのである。
 憲法改正反対者には二つのタイプがある。
 一つは、理想的平和主義者、非武装中立主義者である。右の頬を打たれたら、左の頬を差し出す寛容の精神の奉仕者である。私も信条的宗教的には憧れるが、現実政治には合わない。
 もう一つは、日本列島の非武力化を政治目的とする人々である。日本列島に自衛隊の基地も米軍の基地もないことを政治目的とする人々がいる。金正日は第二次朝鮮戦争を準備しているが、日本列島に自衛隊と米軍がいては困る。朝鮮戦争で勝利できなかった理由は、日本列島が戦場の後衛としての補給基地の役割をはたしたからである。だから日本列島から自衛隊と米軍を排除させることが第二次朝鮮戦争勝利への条件と信じている。
 同じように、中国共産党も台湾解放戦争に勝利するためには、東アジアからの米軍排除が必要であると信じている。フィリピンでは比共産党を使ってアキノ政権を攻撃し、米軍の撤退を成功させている。今日東アジアにおける米軍は、日本列島とグァムの線まで下がっている。日本列島から米軍を排除できれば、グァムとハワイの線まで下がることとなり、共産軍が南韓も台湾も攻略でき、即ち第二次朝鮮戦争も東アジア戦争にも勝利できる。
 金日成も金正日も中国共産党もこの考えに立って、対日工作を組織してきた。社会党・左翼労働運動家・左翼文化人を厚遇して、第9条戦争の放棄の遵守、日米安保条約の廃棄、非武装中立を繰り返し洗脳してきたのである。信じ込む人もおって、朝鮮民主主義人民共和国も中華人民共和国も平和の使徒、悪いのはアメリカ帝国主義だけというスローガンで、毎年のメーデーがいまだに安保反対の旗で埋め尽くされているのである。金日成・金正日と中国共産党の対日工作が奏効しているのである。
 勿論、アメリカも過ちを犯したことは前に述べたとおりであるが、アメリカの過ちと中華人民共和国の過ち、朝鮮民主主義人民共和国の過ちとは性質が異なる。日本国民はアメリカ国民に対して直接その過ちを批判して正すことが可能であるが、中華人民共和国と朝鮮民主主義人民共和国の国民に対して直接話しかけることさえできないのである。
(5)押し付け憲法か
 日本国憲法が押し付けなのか自主的に誕生したのか、議論がある。
 憲法改正反対派は自主的憲法と言うのが常である。
 板垣退助の自由党以来、大正デモクラシィーを経て、国民が獲得してきた民主主義が、軍国主義の敗北により花開いた。日本国憲法は明治維新以来国民が長年の努力により獲得した成果というのである。

 明治憲法では、押し付け議論はどうなっているのか。
 明治期は、天皇が日本国家の統治者であり、国土と国民の所有者であり、国民は被統治者の立場にあった。明治憲法は欽定憲法と呼ばれ、天皇が施政方針を国民に下賜したものであるが、その中に近世憲法の理念である、国民の議会が天皇の権限を制限するということが規定されているので、近世憲法の分類に入るのである。国民にとって、押し付けられた、というものではなく、下賜された、ということになる。

 日本国憲法の押し付け議論の前に、日本国憲法の前提となったポツタム宣言受諾→降伏は押し付けであったのか。ポッタム宣言とは、1945年7月26日ポッダムにおいて、アメリカ、イギリス、中華民国が会談して発表した対日宣言である。後日参戦したソ連も加わる。
 日本占領・日本の民主化・軍国主義の除去、領土の局限、戦犯裁判、が要求された。日本はこれを無視すると新聞発表するや、広島・長崎への原爆投下があり、8月14日ポッタム宣言受諾となった。原爆投下による非戦闘員への大量虐殺を見せ付けられて、宣言受諾した訳であるが、任意受諾と言うか、押し付け受諾と言うか、明らかである。天皇以下大臣軍人みな戦犯裁判での報復死刑を覚悟したのである。

 明治憲法の改正が占領軍から日本政府に命令された事実は間違いがない。早くも1945年10月4日マッカーサーは近衛文麿大臣に面会したとき、憲法改正を指示している。幣原喜重郎総理大臣の元で、松本丞治大臣が憲法改正案を準備していたが、松本案は、天皇を「神聖」から「至尊」に用語変更する程度の微修正であった。マッカーサー占領軍司令官は、当時日本占領の最高指揮官であったが、間もなく連合軍の極東委員会が組織され、その下に入る見通しがあったので、極東委員会が組織化を完了するまでに、思うままの憲法改正を実行したい、と考え、占領軍の民生局の若手将校を集めて、「松本案では話にならん。一週間で憲法改正案を作成して日本政府に指針として与えよ」と指令を発した。極東委員会が発足すると、天皇戦犯裁判が現実化し、マッカーサー占領軍司令官の希望する天皇の権威を利用する対日占領政策が不可能になると考え、極東委員会発足前に主導権を確保したかったのである。
 若手将校たちは軍人ではあったが、占領政策が専門であり、アメリカのロースクールを卒業した弁護士資格を有する者もおったが、日本法については無知、無経験であったので、殆んど徹夜仕事で英米法丸写しの憲法改正案を作成し、幣原喜重郎内閣に英文のまま手渡したのである。
 天皇大権は象徴となっている。幣原喜重郎総理大臣は明治憲法との余りの違いに驚いたことであろう。
マッカーサー占領軍司令官は幣原喜重郎総理大臣に対してこの憲法案を呑まなければ極東委員会の天皇の戦犯起訴が避けられないと言うので、内閣は煮え湯を飲まされた気持ちで了承させられたのである。
 憲法改正案は衆議院で421対8、貴族院で298対2で修正可決、回付されて衆議院で425対5、で可決された。反対者は衆議院では共産党、貴族院では憲法学者佐々木惣一(京大教授 近衛文麿大臣の依頼により帝国憲法改正要綱を天皇に上奏している)らに限られ、賛否票数だけから見れば、圧倒的多数の賛成であるから、憲法改正は押し付けではないといえるだろう。
 しかし、当時の状況を見ると、東京裁判が開始しており、東条英機をはじめとして、戦争指導者は文官、軍人を問わず逮捕され巣鴨プリズンに勾留された。文官の近衛文麿は憲法改正作業をしていたが、占領軍が戦犯逮捕することを知って自決している。 マッカーサー占領軍司令官は公職追放を行い、戦前の主だった指導者は全員公職から追放された。マッカーサー占領軍司令官は占領政策に違反する者に対しては、逮捕し、米軍法廷で処罰したが、弁護人もなし、罪刑法定主義もなし、即決軍事裁判で沖縄送りとなった。 マッカーサー占領軍司令官は郵便・出版の検閲を実施し、生徒に教科書の黒塗りを強いた。郵便の検閲は手間が大変で特高警察もなかなかできなかったが、マッカーサー占領軍は日本人を動員して大量組織的に郵便の検閲を実施している。
 マッカーサー占領軍司令官の占領政策を批判する言論に対する検閲を強化した。戦前の特高警察は出版禁止の場合、禁止部分のみの白紙出版としたが、マッカーサー占領軍司令官は白紙出版では検閲の事実が露呈するので白紙を埋めさせることまでさせた。特高警察以上の巧妙さで言論の自由を弾圧したのであり、アメリカ憲法の言論の自由が泣いてあきれ果てる事態であった。
 このような事態の中で、憲法改正案を審議する日本政府関係者も衆議院・貴族院の誰もかが、占領政策に反対しているとマッカーサー占領軍司令官に睨まれれば、身の危険があると考えていたのである。
 昭和21年11月3日天皇は、日本国憲法公布の詔勅を発する。
 「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至ったことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。
      御名御璽
   昭和21年11月3日
   内閣総理大臣兼外務大臣             吉 田   茂 
   国務大臣  男爵                   幣原喜重郎   
   司法大臣                        木村篤太郎
   後に12人の大臣の署名と花押が続くのである。

 日本国憲法第14条は、法の下の平等を規定し、「華族その他の貴族の制度は、これを認めない」とある。幣原喜重郎は憲法審議時の総理大臣であり、公布時は吉田茂が総理大臣となり、幣原喜重郎は憲法担当の国務大臣となっていたから、吉田茂の次に署名花押をしているが、男爵と肩書きを記している。日本国憲法を作り、貴族制度の墓堀をした男が、詔勅に、天皇の御名御璽、総理大臣の署名花押に次いで、男爵と書いているのである。
 議論した結果を議事録とか判決書に記載するとき、議事に参加した全員が署名押印するのが慣例であるが、結論に反対の人は、署名の一画一点を落としたり、印を逆さまに押す例がある。幣原喜重郎としてはマッカーサー占領軍司令官に押し付けられた無念を留めるために、廃止とさせられた男爵を書いたのであろう。
 要するに、私の結論を言う。
 日本国憲法は押し付けられたか、そうではないかは、議論の分かれるところである。押し付けられたと思う人もおり、当の幣原喜重郎も無念であったと思う。しかし、日本国憲法を心から歓迎した人も多くいたし、特に参政権を得た女性は日本国憲法を喜んでいたものと思う。
 この状態は、国論、国民の意見が一致しないまま、日本国憲法が出来たということであり。日本国憲法の誕生の正当性に陰を残すものである。本来ならば、占領が終了した講和条約の時点で日本国憲法賛否の国民投票を実施しておれば、この点の恨みを解決できたが、しないまま、政党の政治対立の中で憲法問題が先送りされて今日に至っている。
 フランス1958年第五共和国憲法第89条は、「領土の一体性が侵害されているときは、いかなる改正手続きも、着手し、あるいは継続することができない」と規定している。第二次大戦中ドイツにフランスを占領された経験から生まれた規定である。
 日本の基本法である日本国憲法の誕生について、法的疑義があることは問題であり、解消すべきである。そのために、日本国憲法の賛否の国民投票か、あるいは新憲法改正手続きをしてはっきりさせるべきである。
 そして、憲法改正案の末章に
  「外国軍隊の占領中における憲法改正は、禁止する」
  との条項を入れるべきである。
余 談
 現在アメリカがイラクで行っていることは、対日占領と同じである。イラクのフセインを逮捕し、憲法制定議会を召集して新国家体制樹立を目指している。まったく1945年のマッカーサー占領軍司令官の対日政策で同じである。
 しかし、イラクでは、爆弾テロが活発であり、アメリカ寄りのイラク人政治家はテロの恐怖下にある。なぜマッカーサー占領軍司令官の対日占領はあんなに上出来にいったのか。不思議である。やはり天皇の存在が大きい。天皇が、自分はどうなってもいい、と言って降伏し、国民に無抵抗を呼びかけたことにある。
 イラクでは、天皇に匹敵する存在がなく、混乱は長期化するであろう。そもそもイスラム世界は西洋民主主義と異なることが多い。日本は明治維新以来西洋の思想を導入し、明治憲法自体ドイツプロシアからの導入思想である。民主主義憲法を受け入れる素地はあった。
 イラクではこの点が異なり、西洋民主主義憲法をなかなか受け入れがたいであろう。西洋民主主義は非宗教主義、非民族主義なのである。イスラム教は唯一絶対神である。神への批判は死刑に値し、イスラム坊主は特権的権力を所有し、坊主と国民は平等ではない。イスラム以外の宗教は差別されている。
 イラクに西洋民主主義が定着することは将来あるとは思うが、100万人が戦死する宗教主義と非宗教主義の戦争を体験しなければならない。宗教主義は、選挙とか国民投票とかで、非宗教主義に改めることは絶対にない。イラクの国民も未だに市民革命を体験していないのである。
 この宗教主義と西洋民主主義との戦いでは、西洋民主主義が敗北する危険性がある。そうなれば、過去に戻ることとなり、フセインの脱出復権の可能性さえある。イスラムにも他宗教に対して寛容な宗派もあるが、この宗派が主力になればよいが、原理主義派は戦争に強いから、イラクの将来は混迷が続く。

 今日、2006年8月8日、アメリカはイラクが内戦となれば、米軍を引き上げると言い出した。
シーア派とスンニ派との内戦が避けがたい見通しである。日本占領を模範としてイラク占領を始めたが、憲法制定も新政府樹立も選挙もままならず、米軍総引き揚げの一歩手前である。
 この内戦に勝利した側は、対米戦争で強硬派になり、イランとパレスチナと共闘し、イスラエル攻撃をすだろう。中東で戦火は収まらない。国際連合が強力な組織に変わり、アジアと南米の諸国が国際連合で有力国になれなければならない。
国際連合は五大国のクラブから加盟国全員参加型に変わり、加盟国が共同の責任を負担するようにならなければならない。イラク、パレスチナ、レバノン、朝鮮民主主義人民共和国と懸案は多すぎるが、解決の主体としての国際連合の強化こそが肝心である。