平成晩年期(1)
2019/01/01
 1、明治45年は大正元年、大正15年は昭和元年である。昭和64年は平成元年 である。
 ならば、明治45年を明治晩年、大正15年を大正晩年と呼んでもいいはずであるが、呼ばない。一世一元、終身天皇制であったので、晩年と呼べば不敬罪と糾弾されるからである。
 しかし、平成天皇は自身の意思で生前退位を希望され、平成31年は平成晩年と呼んでもいいことになった。
美空ひばりは昭和の歌姫、西城秀樹は平成の名歌手と呼ばれている。この平成晩年に当たり、私が思うことを綴る。

2、「明治大正昭和の三代天皇にお仕えして」で始まる、軍人、役人、政治家の回顧録は多い。日本を焼け野原にした責任者なのであるが、その戦争責任や原因について語ることはなく、ただ、自分の領域についていかに最善を尽くしたかを語るのみである。  戦争責任や原因について語り出すと、昭和天皇が開戦の詔勅を布告したことに言及せざるをえなくなるからである。昭和16年、体を張ってでも開戦を阻止しようとした、軍人、役人、政治家は一人もいない。本当に一人もいないのである。代議士でも早期和睦の議会演説した者は一人もいない。全員一致で聖戦貫徹の議会決議を何回もしたのである。東条英機と特高の弾圧に恐れていたからである。
 軍人、役人、政治家がそろってこの体たらくでであったから、国民も同じく戦争に諸手を挙げて賛成し、入隊して戦地に出陣し、全滅の最後を果てた。戦争に反対して徴兵忌避罪で入獄する者はいなかった。招集令状を貰って逃亡した者は絶無、「特攻隊に志願する者は一歩前に」の号令には、全員が前に進んだ。
 太平洋戦争で国民は酷い目に遭った。「国民は戦争を望んでいなかったのに、軍部の強圧でいやいや戦場に赴いた」と言う人がいるが、嘘である。
 兵隊は手柄をたてることを念願し、敵英米の殲滅を決心していた。昭和の時代に何故こんなことを信ずる国民が圧倒的となったかは、原因に日清戦争がある。明治27〜28年の日清戦争では勝利して巨額の賠償金と台湾を得た。賠償金は大日本帝国の何年分もの予算に匹敵し、次の戦争準備を可能にしたし、戦死者には多額の弔慰金が支払われ、墓地には立派な戦死者の墓石を建立することができた。日清戦争の戦死者の数は現代の交通事故死者数に及ばない。
 戦争は儲かるという認識が国民共通のものとなった。日露戦争では陸戦海戦に勝利したが、講和条約では、南樺太を得たのみで賠償金は獲得できなかった。これを怒った国民は日比谷公園焼き討ち事件を起こすのである。賠償金がロシアから獲れなければ、代わりにロシアがいなくなった朝鮮や満州を切り取りにいこう、との発想で、官民一体となって朝鮮や満州に進出し、大韓帝国や清国の主権を侵害し、日韓併合や満州国建国へと進んでいくのである。これは陸軍だけの発想ではなかった。国民全体がそう考えていた。民間会社は朝鮮満州に次々と工場を建設したし、日本の貧農は大陸で大地主になることを夢見て移住したのである。
 満州は清国の満州族の故郷であるが、清国最後の皇帝溥儀を丸め込んだ日本は昭和7年に満州国を建国してしまい、日本人の移民を推し進める。豊富な資源を利用して大工場群が建設された。満州は広い。ゲリラの抵抗も続いた。ここを維持経営するだけで大変なのであるから、満州経営に徹しておればよいのに、すぐ北支、万里の長城の北辺まで手を広げだし、建国したばかりの中華民国の蒋介石の反撃を招き、昭和12年から日中戦争が始まる。海辺の南京はすぐに陥落させたが、蒋介石は重慶に首都を移転し徹底抗戦に入った。中国大陸地図を見なさい。重慶は遙かに遠い。
 この戦争が泥沼に陥り講和するしかない情勢となったが、軍も民間も承知しない。領土や賠償金が獲得できなければこれまでの戦死者の霊に対して申し訳ない、弔慰金が出ず墓石も建立できないとの理屈である。蒋介石は領土や賠償金を渡す意思はさらさらなく、日本軍の撤兵を要求するばかりで、交渉のとりつくしまもなく、迷う近衛首相が「中華民国政府を相手にせず」と捨て台詞を吐くに及び、停戦講和の見込みは途絶してしまった。 そうなれば国際仲裁人の登場が待たれることとなり、日露戦争ではアメリカがその役割をはたしてくれた。アメリカは日中戦争では日本が侵略者であると批判し、日本に対して撤兵の要求をし、日本向け禁輸制裁を実行し、さらにはインド・ビルマ経由で武器の援助を中国にするようになった。日本がこのアメリカ援助を遮断するにはビルマへの侵攻が必要となる。要路に当たる東アジアを攻撃することは、英米蘭仏を相手にしなければならなくなる。
 ここで軍部は何を決断したか。この頃ヒトラーの戦争が始まり、眼を見張ったのである。昭和14年9月ドイツはポーランドを攻撃する。ソ連も攻撃し、独ソはポーランドを東西二つに分割占領してしまった。前年のミュンヘン協定に違反する侵略行為で有り、英仏は対独宣戦布告に踏み切った。英仏は対独宣戦布告をしたが、ソ連に対しては沈黙した。英仏は対ロ恐怖症に陥っていたからである。ドイツ軍だけでも強敵であるのに、ソ連赤軍までも相手にしたくなかったのである。せめて英仏はソ連に国交断絶くらいはしておくべきであった。昭和16年6月独ソ戦が始まると、英米は北極海を経由してソ連に武器食糧の援助を始めた。これは膨大な量であり、ソ連軍を救った。第二次世界大戦では、ドイツとソ連が共倒れすべきであった。国交断絶しておれば、ソ連への援助はなかったであろう。戦後ソ連は東欧を共産化して世界一の勢力圏を建設し、そのため東欧の人々は悲惨をなめた。これが解消できたのは1989年ソ連崩壊であり、44年間の共産支配が東欧にもたらした損害は大きい。その原因は昭和14年にある。
 ドイツ軍は昭和15年4月デンマーク、オランダ、ルクセンブルグに侵攻しフランスパリを目指した。ドイツ軍は陸軍の機甲師団化に成功していたが、第一次世界大戦の疲弊に苦しんでいたフランスは旧態依然の陸軍のままであり、塹壕に立てこもるフランス陸軍は包囲殲滅されドイツ軍はパリ近郊まで迫った。第一次世界大戦の英雄将軍ペタン首相は敗戦主義にとりつかれ降伏してしまった。ドイツ軍と戦う者はもう英軍一人になってしまった。
 この欧州情勢に目を見張った日本陸軍は、世界四分割思想にとりつかれた。世界は南北アメリカを支配するアメリカ、ユーラシア大陸を支配するソ連、欧州を支配するドイツ、アジアを支配する日本というものである。フランス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグ、ノルウェーは既に降伏したが、イギリスもやがてドイツに降伏してドイツ圏に帰属すると。日本民間壮士は盛んにこの四分割思想を宣伝し、アジアへの雄飛を煽った。信じ込んだ者は続々と大陸に渡った。
 この思想にとりつかれた日本陸軍は日独伊三国同盟の締結に走り、ドイツの欧州占領とアラブへの南下を承認し、反対にドイツに日本のアジア支配を認めさせた。インダス川のほとりで会おう、という約束である。
 日本のこの国策決定は昭和15年と16年のわずか2年間でなされてしまった。軍装は冬用から夏用に転換され、軍需工場は超繁忙となった。本当にイギリスがドイツに敗れるのか、ドイツはソ連に勝てるのか。アメリカの参戦がありうるのか。問題点がありすぎるのに、誰も議論しないまま突き進んでいった。イギリスは降伏する。アメリカはアメリカに閉じこもり欧州に出てこないとの勝手な議論が通用した。
 本当は、ドイツが独ソ戦を開始し、イギリスへの上陸攻撃を断念したとき、日独伊三国同盟の基礎が破壊されたと見なし、三国同盟解消を模索すべきであった。
 軍人と右翼壮士がアジア支配を叫んでいるとき、民間の知識人の反応は鈍かった。世界四分割思想のもとに本当に日本が世界戦争をおこすなど信じていなかったのである。 真珠湾攻撃で欧州戦争から世界戦争へと進展したとき、知識人が一番驚いたのである。陸海軍があり得ない決断をしたと。しかし昭和天皇の開戦の詔勅がある以上、服せざるを得ないと結論した。
 戦局が暗転し、特に昭和19年マリアナ海戦で再建した航空機が全滅したとき、もはや勝利はあり得ず、本土決戦で自壊することが明白になっても、誰も、早期停戦、和睦を主張しなかった。一部隊が反乱を起こすとか、ソ連に逃げ込むとかなかったし、民間個人がソ連や中国に逃亡する例もなかった。
 
3、日本人には反乱の気風がそもそもなかったであろうか。そんなことはない。薩摩長州の明治維新は徳川幕府への反乱であり、西郷隆盛の西南戦争は明治東京政府への反乱である。大和朝廷以来、日本史は反乱の連続であり、特に戦国時代は盛んであった。戦場で勝敗が決定したあと、天皇が新政権の承認をして戦争は終わる。
 昭和11年の2.26事件は軍人による反乱である。この事件は平和に向けての反乱ではなく、戦争に向けての反乱すなわちクーデターであった。軍国主義内閣と総動員体制を樹立しアジア侵略戦争を始めようとするものであった。太平洋戦争開戦と同じ事なのであるが、時期が早すぎて失敗したのである。反乱の失敗の原因は宮中に連絡を持っていなかったことにある。反乱青年将校の背後には、詐欺師のような真崎甚三郎大将がいて「君たちの心情はよく分かっている。宮中にもご理解がある」と嘘話を持ちかけた。 反乱青年将校たちはこれを真に受け、真崎が天皇を説得してくれると信じ、皇居の占拠と天皇の身柄確保を怠った。先に玉を捕ることは戦法なのであるが真崎の詐欺話を信じてやらなかった。古代と中世では天皇の玉取り合戦がよくなされた。三人の重臣を殺された若い天皇は激怒し反乱鎮圧を命じた。
 このように決断力を示した昭和天皇が太平洋戦争開戦に当たり、何らの指導力を発揮しなかったことは不思議である。その後重臣達が反乱青年将校に対する世間の同情憐憫を背景に、立憲君主制は重臣が決めたことには天皇が裁可するものだと説教苦言を言い、天皇はその後これに従い、重心の提案する開戦案を承認することとした。「この戦争に敗北すれば、日本の壊滅と天皇の処刑がありうるが、どうか」とのご下問もされなかった。2.26事件の時は賢明であった昭和天皇は閉じこもってしまい自己の意見を控えることが立憲制下の天皇の義務と信じようとした。だから東条英機が開戦案の裁可を求めたとき重臣達が決めたことだからと反対しなかった。
 しかし、東条英機を首相に任命したのは昭和天皇である。「大事で有り国家の存亡がかかわるから、首相を代えてもう一度再議せよ」と言うことも出来た。また東条英機のままであっても、「戦争の相手国は、現に同盟国ドイツと戦っているイギリスのマレーシンガポール、ドイツの占領下にあるオランダのジャワ、同じくフランスの仏印に限定し、アメリカのフィリピンは外したらどうか。再議せよ」と言うべきであった。
 御前で恐懼する東条英機は退席して陸海軍に再議を命ずる。大変更であるから再議には時間がかかる。その内に昭和17年になり、モスクワ正面でのドイツ軍の苦戦が伝えられ、これまでのドイツ軍必勝の雰囲気が崩壊してくる。ドイツ軍の対英、対ソ必勝を前提とする開戦計画に破綻が出てくる。敵からアメリカを外した場合と入れた場合とで軍事費が格段に違ってくる。軍事予算を編成する主計将校部は大混乱となろう。
 よく、「昭和天皇の戦争責任」について議論されている。右翼は議論すること自体不敬罪だと言う。戦争責任という言葉は曖昧で好ましくない。私は、昭和天皇には、計画不十分な開戦の責任と、日本を焼け野原にした敗戦の責任がある、と言います。

4、何故 昭和日本で反乱が起きなかったのか。徴兵忌避も脱走もなく、「特攻志願する者は一歩前に」の号令に全員が進んだことは何故か。教育勅語の教育のせいだと言えるが、もっと複雑な原因がある。
 西郷隆盛の西南戦争終結後、明らかな反乱は収束したが、自由民権運動が進展し、帝国議会が開設され、言論の自由を謳う帝国憲法も施行された。昭和の初期には、陪審制と普通選挙も施行され、自由と民主主義が確立した。この元を作ったのは、大正時代の大正デモクラシー運動である。世界軍縮の流れと共に軍人の肩身の狭い時代ができた。 軍人の給料は安く、戦争がないから手柄をたてることもなく、定年退職軍人は徴兵保険を売る保険屋になって糊口をしのいだ。軍人は戦争を待望していた。
 凶作が連続し農村は疲弊し、世界恐慌の為に産業が困難となり、誰もかが改革を熱望していた。右と左から新旗手が登場した。ヒトラーを信奉する者、スターリンを信奉する者たちである。世界?分割主義者は右翼で、産業資本家を攻撃し、アジアへの進出を公言した。左は、国際共産党日本支部を設立し、日本をソ連の支配下に置こうとした。普通選挙の結果、左翼は伸びなかったが、少数の議席を獲得し、支配層を恐怖させた。 治安維持法が施行され、共産党員らの徹底的弾圧がなされ、資金援助するシンパにも利敵罪として弾圧された。小林多喜二が逮捕当日虐殺された以降は、特高も少し反省し、英雄を作らないために治安維持法違反では死刑判決は出さないこととした。転向が薦められた。共産党はソ連共産党の支部で日本を占領して、かってのロシア革命と同じく国王一家と資本家を処刑することを目的としているが、貴様は何故共産党に近づくのかと詰問され、たいていのシンパは天皇様大事で転向した。労働組合運動が発生したが、殆ど共産党員が指導していたので、すぐに弾圧された。昭和初期のインテリは思想を語らないことを身の保全とした。芸能界では喜劇が喜ばれ、盛り場は満員で誰も戦争が近づいていることを知らなかった。招集令状が届けば旗指物で飾って出征し、大陸雄飛の者は僅かな金を持って海を渡り、とにかく金をためることに励んだ。
 第一次世界大戦後の世界は、戦争から平和へと向いかけ、平和のための条約がいくつも締結され、軍縮も進んだが、ヒトラーとスターリンはこれを信じてはいなかった。日本軍も軍縮は職場縮小につながるので、抵抗していた。
 昭和の初期、普通選挙と引き替えに国家国民総動員体制が準備されていき、徴兵忌避も脱走も捕虜もなくなってしまった。この背景には教育勅語と天皇崇拝がある。天皇の命令→上官の命令、捕虜になったら死ねの思想が確立していった。
 明治の日露戦争のときは、捕虜虐待を禁ずる国際法が日露双方で守られたので、結構日本人捕虜もいた。しかし太平洋戦争になると捕虜はなく、自決せよと命令された。軍部と国家による人心統制が強化され、特攻隊に志願する者は一歩前に、の号令に全員が従った。
 戦後の今、このようなことはなくなったであろうか。
 私は何百人という人に質問したことがある。「もし戦争時代に生きていて、招集されたり、「特攻隊に志願する者は一歩前に」と言われたら、どうしますか、」
 回答の99%は「多分行くだろうね」
 一人も反乱を起こすとか、脱走するとかは言わない。
 平成になっても国家全体主義は未だに続いているような気がする。金正恩による戦争が始まったとき、自分の頭で考えて行動できる国民がいるであろうか。

5、ドゴールはどうしたか。
 日本では開戦に反対して反乱や反逆は絶無であったが、フランスでは反乱をおこした男、国防次官ドゴールがいた。昭和15年6月首相ペタン将軍が降伏したとき、ドゴールは単身イギリスへ飛行機で飛んだ。ドゴールはロンドンにフランス臨時自由政府を樹立しラジオで祖国解放を訴えた。海外の植民地にいたフランス人が続々とドゴールの下に集まり、昭和19年6月ノルマンディーに英米軍と共に上陸し、8月パリを解放した。ドゴールの偉いことは、フランス軍の一反乱部隊ではなく、フランス臨時自由政府を正統政府として英米に認めさせたことにある。この結果、第二次世界大戦後の国連発足に当たり、フランスは戦勝国の地位を得た。ペタン首相はドゴールを脱走と反逆罪で欠席裁判に掛けて死刑判決にした。戦後ペタン首相は反逆罪で死刑判決をうけたが、老齢故に死刑は執行されなかった。

6、イタリアはどうなったか。
 昭和18年7月イタリア議会はムッソリーニ首相を解任しバドリオ政権が樹立され、直ちに英米に無条件降伏した。イタリアでは反乱ではなく、正規の法的手続きを踏んで戦争を終結させた。ヒトラーは拘束下にあったムッソリーニを救出し、北イタリアに新政権を樹立するが、民衆の人気は終わっており、最後は民衆によって吊された。
日本では、議会で東条英機首相不信任案が提出されたことはなかった。どの代議士も震え上がっていた。昭和19年マリアナ海戦敗北の責任を取って辞任したが、後継首相等は聖戦貫徹と言い続けた。

7、ドイツはどうであったか。
ノルマンディー上陸作戦の一月後、ドイツ軍シュウタウフェンベルグ大佐が作戦会議室に時限爆弾を破裂させてヒトラーの暗殺を試みたが、ヒトラーは無事であった。これは一人の計画ではなく、多数が関与しており、その後終戦までに八人の将軍を含む五千人が処刑されている。大佐は暗殺ではなく反乱を起こしたのである。

8、フランスにもイタリア、ドイツにも、自分の頭で考えて行動した者がいたが、日本では一人もいない。天皇の降伏命令が来ない限り戦い続けたのである。降伏や脱走も小隊単位でもおきなかった。自分で考えることをやめてしまうのが、日本人の特性、天皇崇拝ならば、昭和平成を通じて引き続いており、平成晩年の今日も続いている。
 戦後、日本人は民主主義者となり戦争を放棄したが、現実に金正恩の戦争が予想される今日、国論は定まっていない。金正恩は戦争を興さないだろうという期待論が支配的である。自衛隊の中で危機感を抱いている者等が2.26事件のようなものを起こさないか心配である。
 昭和の時代、連合赤軍事件があった。党内粛正で十三人が殺された。反乱も逃走もしないまま殺されたのである。
 平成の時代、オウム真理教事件があった。教祖の指示を信じて大量殺人をした。途中で逃走した者はいない。
 ある権威の元で死ぬまで服するという日本人の気質がある。民主主義がこれを否定し自分の頭で考えよと言うのであるが、現状は難しい。

9、北方領土問題、沖縄基地問題
 阿部首相はどうもプーチンにやられそうである。二島返還だけで妥結しそうである。ロシア式解決の方法を考えてみた。
 十九世紀に帝政ロシアは領土であったアラスカをアメリカに売却した。住んでいるエスキモーと白熊も込みであった。ロシア人の方がアメリカ人より先にアラスカに国旗を掲げたのでロシア領土になっていたが、帝政ロシアは広大なシベリア開発の資金集めにアラスカを売ったのである。
 明治の初めに日露は樺太千島交換条約を締結した。
 日露戦争のとき日本軍は千島を占領し、ポーツマス条約て北半分は返還したが、南半分を領有した。つまり、戦争による領土獲得である。
 ソ連・ロシアは北方領土は第二次世界大戦による獲得領土だと主張している。樺太と同じ理屈であるから国際法から言っても合法である。
 要するに、ロシア式領土問題の解決は、売買、交換、戦争の3手段しかない。

 北方領土4島と小笠原諸島の内4島との交換はどうであろうか。ロシアは不凍港が欲しい。太平洋のど真ん中に領土を得て基地化することは、中国の海進策に対抗する意味で効果がある。小笠原諸島の無人の小島四島交換で北方領土問題が解決することなら安いものである。小笠原諸島の小島で良い。領土面積より領海面積で計算し適当な小島を選べば良い。
 日本列島は北朝鮮に向かって弓のように広がっている。北朝鮮から核ミサイルを撃てば日本列島の何処にでも命中できる。核ミサイル発射をレーダーで確認できてから十五分くらいで到達する。パトリオットという迎撃ミサイルがあるそうだが、成功したビデオを見たことがない。打率何割か不明である。
 日本の日米軍事基地は北朝鮮に近すぎるから、遠くへ移動させるべきである。最前線には偵察部隊を配置し、後方に歩兵部隊、最後方に砲兵部隊を配置するのは兵法である。 だから、沖縄の日米基地は小笠原諸島の硫黄島に移転させるべきである。辺野古への移転は不要である。勿論金正恩も小笠原諸島の硫黄島めがけて核ミサイルを撃つだろうが、防御の時間があるし、隣の島がロシア領土になってロシア軍事基地があれば、金正恩は小笠原諸島方向にミサイルを発射できなくなる。日本防衛にロシアを引き込む。硫黄島は太平洋戦争の日米決戦の地である。ここを日本防衛の最後の砦にしたら良い。横田も沖縄も基地を閉鎖すれば良い。金正恩が東京を占領しても硫黄島から逆上陸が出来る。
続く