裁判員裁判4
 平成裁判員裁判 」2010.02.25
1、昭和3年からファシズムが横行し、自由な言論は封殺された。特に中国大陸を侵略しようとする軍部を批判する言論は弾圧され、代議士でさえ議会から除名され、政党は大政翼賛会に改変させられた。ファシズムにとって自由で独立した人民は目障りであり、徴兵に従順に応ずる臣民以外を非国民と呼んだ。
 昭和17年4月戦時下での最後の総選挙があり、政府は大政翼賛会非公認立候補者に対して空前の選挙干渉を行った。鹿児島選挙区では選挙無効訴訟が提訴され、敗戦直前に選挙無効判決が下された。裁判所はファシズムに対して戦ったのである。

2、戦後、女性を含む普通選挙権が制定され、デモクラシーは復活したが、陪審制はなかなか議論されなかった。しかし、再審無罪判決、何時までも続く自白偏重と冤罪事件に、司法部と弁護士会が腰を上げ、平成になってようやく裁判員裁判が復活した。
 裁判員とは平成になってからの新造語であり、もともと歴史的には陪審員と言う。陪審制か参審制かの議論があり、その折衷的形態として裁判員制度が出来た。 裁判官と裁判員とが評議する意味に於いては、参審制、裁判員が裁判官の倍数いるという意味に於いて、陪審制なのである。本当は裁判員が9人おって裁判官3人とで12人ならば、もっと陪審制に近づいた筈である。陪審派と参審派の議論の妥協の所産である。昭和陪審制発足のときと同じく、司法部は積極的であり、多くの予算を獲得できた。検察庁が裁判員裁判を嫌うかと予想していたが、積極的なのである。冤罪防止の為には人民の知恵を借りるしかないと思ったのであろう。口の悪い奴は、冤罪批判の言い逃れ用「裁判員が有罪決めたから仕方ない」と言うが、検察庁は証拠開示で前向きである。冤罪再審事件の教訓を学ぼうとしているのは間違いがない。皆前向きに動いているのである。検察庁はビデオ録画を一部とこだわっているが、もうじき全面録画方針を打ち出すであろう。一番遅れているのは弁護士かも知れない。裁判員裁判研修に来る弁護士が少ないし、一部に偏っている。弁護士の中には裁判員裁判反対運動をしている者もいる。裁判員裁判は憲法違反と言っている。明治憲法でも大正デモクラシーの陪審制を認めていたのに、新憲法で認められない筈がない。
裁判員6人、裁判官3人 有罪無罪と量刑は裁判官と裁判員の単純多数決主義 但し最低裁判官1人の票が必要 
 裁判員5人有罪1人無罪 裁判官3人無罪→無罪 
  裁判官に無罪の方向に拒否権を与えたもの
 裁判官3人有罪 裁判員5人無罪1人有罪→無罪
 法律専門家の裁判官が裁判員を誘導するだろうとの危惧があるが、テコでも動かん無罪だと怒鳴り出す裁判員がいるだろう。

3、法律判断、証拠の採否は裁判官の専権

4、控訴・上告あり。

5、重罪事件について強制適用、被告人の辞退権なし。従って犯行を認めている事件でも裁判員裁判となる。
  軽罪事件について被告人の適用申請権なし。

6、呼び出しへの欠席
 裁判員呼び出しに欠席すると、過料10万円がかかると怖れる向きがある。確かにその規定はあるが、発動されることはまずない。アメリカでもその規定があるが、発動された例はない。陪審員の数を確保すればよいのであり、欠席者が多ければ、その分余計に呼び出し状を発送すれはばよい。善意の公益奉仕を過料を以て強制することは正しくない。
 アメリカも日本も公益に対する貢献は市民の義務であるという意識が定着している。投票所へ行くのが市民の義務として理解されているのと同じである。
 何日も拘束されるのが嫌だとの意見もある。確かに多忙な人にとっては迷惑であるから、今は欠席していただいて、いずれリタィアーされて閑になったとき陪審員を勤めて貰えばよい。働き盛りの時、PTAや町内清掃当番を嫌がった人でも、閑になれば喜んでするものである。これらの会長職を嫌がりながらも実は喜んで引き受ける人が多い。陪審員のなり手に不足するはずはない。
6、守秘義務
英国法では守秘義務規定があるが、アメリカでは自由である。陪審員体験記がいくつも出版されている。
 裁判員法第108条では、評議の秘密を漏らしたときは、6ヶ月以下の懲役又は50万円以下の罰金と規定されている。
 評議の秘密とは何か。確実に禁止されているのは、裁判官・裁判員各人の意見と評決の数である。
 従って、裁判官・裁判員の誰が何と言ったか、とか、何票対何票で有罪となったか、ということは禁止されるが、それ以外は禁止されていない。
 裁判官・裁判員を匿名にして個人特定を不可能とする配慮をし、何票対何票と書かなければ、裁判員体験記の出版も可能である。裁判員制度の普及を図ることのほうが、守秘義務を強調して、裁判員裁判を暗黒裁判化するより有益である。
 「12人の怒れる男」は戯曲であるが、作者の陪審員体験をもとにしている。このような人間の良心に迫る作品、それが小説であろうとドキュメンタリーであろうと、又は実録風小説であろうと、日本に登場することを期待したい。