裁判員裁判12−48
「自白調書の読み方」2012.7.20
                 2011年1月〜  宮道佳男

八海事件
 高裁の無罪判決を破棄差し戻した最高裁判決
「記録を反復熟読すれば、吉岡供述の中には真実に触れ、これを如実に物語っている部分のあることを到底見遁し得ないのである。事実審裁判官は、被告人の供述であれ、証人の供述であれ、供述の部分部分の分析解明にのみ力を致すべきではない、これらの供述の中には部分的には嘘もあり、食い違いもあることは原判示のとおりであるが、これらの供述は素朴で率直であり判示に言うほどの不自然さも感じられず、むしろ大筋を外れていないと思われる。おしなべて被告人の供述にしろ証人の供述にしろ、供述というものは枝葉末節に至るまで一致するものではない。記憶違いもあり、食い違いもあり、しゃべり過ぎて嘘のある場合もあるであろう。だからといって、そのような供述が常に不正確で採用に値しないものということはできない。同じ供述でも採用できる部分もあれば出来ない部分もあるのであって、大事な点は、その供述が大筋を外れていないかである」
 差し戻し後の有罪高裁判決を破棄無罪とした最高裁判決
「まず吉岡供述の信用性につき考察するに、逮捕以来、共犯者の有無、人数、顔ぶれにつき十回余りもの供述の変遷がみられるのであって、このこと自体が同人の供述全般の信用性を疑わしくしているのであるが、・・・残虐なる手段によって殺害したうえ金員を強取し・・・刑責は優に死刑に値するであろうとは何人も想到しうるところであり、犯人が自己の刑責の軽からんことを願う余り、他の者を共犯として引き入れ、これに犯行の主たる役割を押しつけようとすることは、その例なしとしない。もっとも、この点のみによって吉岡供述を虚偽と決めつけることの相当でないことはいうまでもなく、その供述内容が他の証拠によって認められる客観的事実と符合するか否かを具体的に検討することによって、さらに信用性を吟味しなければならない。しかし、この場合に、符合するか否かを比較される客観的事実は確実な証拠によって担保され、殆ど動かすことのできない事実か、それに準ずる程度のものでなければ意味がないと解せられるところ、吉岡の供述は、それが自己の行為に関する部分については、確実な証拠により裏付けられているのであるが、他の被告人らの行為に関する部分については、必ずしもかような物的証拠は存在しない」
 同じ自白調書を読んで、これ位、裁判官の判断が分かれるのです。
 最後の最高裁判決が示すとおり、辿り着いた先は、物的証拠第一主義なのでする
 極論ですが、自白調書なんか捨ててしまえ。裁判員に物証と公判供述だけを見せて判断させよ。公判直接主義と言いたいのです。
 
 裁判官は自白調書を判決に引用するとき、丸写しにしてはいけない。取調官の意図・思想に伝染してしまい、取調官の思いとおりになってしまいます。
 松川事件第二次最高裁下飯坂少数意見、八海事件第二次最高裁下飯坂多数意見は自白調書を延々と何百枚も引用している。当時コピー機もなかった時代だから、下飯坂裁判官は自白調書を筆写して判決起案をしたのです。戦前の絵画教育はお手本の丸写しでした。戦後、この教育法は児童の創造力を高めないという理由で廃止されました。裁判官は取調官の苦心の作文の自白調書を丸写しにしている内に、創造力・想像力が萎えて行き、取調官の、具体的且つ詳細にして臨場感のある作文を名筆と感心してしまうのです。