裁判員裁判12−70
「自白調書の読み方」2013.5.16
                 2011年1月〜  宮道佳男
17,しかし不自然、いかにも不自然
 裁判官が信用性を否定する最後の決まり文句は「不自然」です。
 これは裁判官の経験則からの直感であり、類型化することは困難です。又批判するのも難しい。直感と直感の対立ですからね。しかし、判例を読むと、裁判官は直感だけに頼ってはいない。被告人が犯罪体験として自白するところが、一般人の経験法則と合致するのか、取調の実情に照らして体験供述として納得しうるかを検討している。証拠を検討することなくして、不自然と切って捨てることはありません。
 「具体的かつ詳細」という決まり文句を使いながらも「しかし不自然」と言って信用性を否定するのです。「具体的かつ詳細過ぎるのが不自然」と言う判決もあります。自白の矛盾、秘密の暴露のないこと、説明の欠落、等の理由を挙げて、最後に、不自然と信用性なしと結論するのです。まあ、決まり文句です。

 松山事件 再審無罪「被告人の自白内容は、被害者の4人の寝ていた方向と傷の位置を特定しているが、犯人は高度な興奮状態にあったはずであるから、いちいち正確に記憶しているはずがない。取調官は検証と解剖によりこれらを知っていたから、被告人は取調官の取調に合わせて供述したとの疑問が残る」
 取調官は寝ていた方向と傷の位置を知っているが、犯行時の被害者の抵抗の様子は分からない。だから自白調書は、前者は詳細に、後者はあいまいに書かれている。
 詳細すぎるというのは、説明の欠落の反対です。

 1965年六甲山保母殺人事件
 被告人は、たまたまパチンコ店で知り合っただけの名前も知らない男を共犯者に巻き込んだと言い、その男の人相風体を具体的に述べているが、従前面識もなく、氏名も分からぬ、行きづりの気心も知れない男の前で、いきなり殺人という重罪を犯したうえ、死体の始末もさせたことになるが、この点常人の理解を超える。被害者が被告人の女性関係に気付いていたのではないかという憶測から殺したと言うが、それを被害者に確かめもせずに殺人という重罪を犯すということはいかにも不自然の感を免れない」

二俣事件最高裁破棄差し戻し判決 昭和28年11月27日
 被告人の自白する兇器の入手方法は、盗みに入った先の縁の下の羽目板の脇に白い木綿に包んであったというものであるが、この出所について記録上何ら明確にされていないし、裏書きする何らの証拠もない。被告人の供述は全く架空のものであるかも知れない。
鹿児島夫婦殺人事件 最高裁判決
自白では夫の不在中に妻と情交をしようとしたものであるが、夫の帰宅が容易に予測される時刻に情交するとは、いささか非常識にすぎる。

 八海事件 第一次最高裁判決「阿藤が八海橋で、自分は長斧を探し、久永はロープを探す、と言ったという自白は、当時被害者宅に長斧やロープがあることを被告人らが知っていたという証拠がない以上不自然であり、夜間数名が侵入して二人を殺すような場合には彼我の態勢次第では殺害者側は臨機応変の挙動にいでなければならないかも知れないから、予め殴打の順番を打ち合わせておくことは無意味・不自然、現場に臨んで、被告人らが代わる代わる長斧で被害者の頭部・顔面等を強打した、との点は、怨恨等の感情を持っていたという証拠がなく、単なる金品強取だけの目的とされている犯行の態様としては不自然」
 1審2審の裁判官が何の疑問も抱かずに読み進めた自白調書、最高裁が読むと、こんなに不自然なのです。もっとも、第二次最高裁は酷い判決でした。
 反対に、有罪とするときは、被告人の自白は不自然ではない、と判決します。
 最近は、この不自然という決まり文句は少なくなってきました。代わって登場したのが、合理的疑いです。アメリカの影響でしょう。不自然だけで有罪にすることは証拠裁判に解離しますから。

 動機関係では、不自然を用いることは多い。妻に対する無理心中事件、夫婦仲を調べ動機があり得ないとして過失による転落事故の可能性を否定しきれないという判決がある。