裁判員裁判2
 古代の裁判 」2010.02.19
1、神判裁判
 人類が集団を形成した時から裁判が始まった。王と呼ばれる者、神父と呼ばれる者の聖なる職責であった。誤判は彼の権威に対する人民の信頼を害することになるから、裁判は神聖であるべきであり、神の意志を表現しなければならず、神判裁判の性格を有した。
 魏志倭人伝によると、卑弥呼の邪馬台国時代、盟神探湯(くがたち)と言って、被告人の手を熱湯に入れさせ火傷しなければ無罪とした。この裁判方式は世界に古今東西普遍的に存在する。フランス語で神に宣誓することを「手を火の中に入れてでも、とか、手を切られても」と表現する。
 手を熱湯に入れる以外に、熱した鉄片を握らせたり、被告人を縛って水中に投げ込み、浮かんだら有罪、沈めば無罪とする。沈めば溺死するだろうと思えるが、浮かばずに、裁判官達の目の届かない所まで水中を泳いで逃げのびれば、神の祝福があったことにするのである。だから被告人の縁者たちが水中で待ち受けて救出することもあった。
 首吊りのロープが切れたとき、神の意思が下されたものとし、釈放された。後世に、処刑は二度しないと言う法として継承された。
 キリスト教世界では、1215年第4回ラテラーノ会議で、神判裁判と決闘裁判が禁止された。神判裁判はこれで消滅したが、決闘裁判は自力救済の思想が合理性を持っていたため、禁止令は普遍化せず、長く継続した。

2、ハンムラビ法典・旧約聖書
 イランのハンムラビ王、紀元前1729〜1686 282条の法典の石碑が1901年発見された。「目には目を、歯には歯を」が代表的であり、野蛮法の印象を与えるが、そうではない。失明の罰に死刑はしないのであり、刑罰均衡主義なのである。
 その他、証拠と証人関連での特異な条文を紹介する。
 死罪に当たる罪で告訴した者は、証明できなかったら、偽証罪で死刑となる。 証人が証明できなかったときは、偽証罪で死刑になる。
 魔術を使った罪で告訴されたら、被告人は川に飛び込み、水死したときは告訴人が被告人の家屋を所有し、水死しなかったら、告訴人は死刑となり、告訴人の財産は被告人が所有する。
 ある人が被告人が自分の物を持っていると告訴する者は証人を立てよ。証明できないときは、紛争を掻き立てた者として死刑とする。
 民事訴訟で偽証する者は訴訟物と同額の賠償を支払う。
 証人を用意する期間は半年とし、証人を立てられないときは罰金を支払う。
 妻が夫から不倫で告訴されても、現行犯でない限り、妻は宣誓して無罪で実家に帰れる。
 
 神判や決闘の裁判の時代が長く続いたが、公正な証拠調べによる裁判も始まった。
旧約聖書ダニエル書、3000年前のエジプトからメソポタミアの歴史書
 裁判で有罪にするには、二人以上の確かな証人が必要とされている。
 二人の男がある女に不倫を持ちかけて断られ腹を立てた。そこで裁判官に女が不倫したと告訴した。二人以上の証人がそろったわけであるから女は有罪となるところであったが、賢明な裁判官は二人の男を別々に法廷に喚問して尋問した。
「不倫の現場を何処で目撃したか」
 一人の男は、乳香樹の木の下で、一人は梅の木の下で、と証言した。裁判官は女を無罪とし、二人の男を偽証罪で死刑とした。
 3000年前の法は、二人以上の要件の外に、確かな証人という要件を定めたのである。
 二人以上の確かな証人、という法は中世のヨーロッパ法に継承されたが、やがて廃れ、確かな証人であれば一人でよいことに変わった。
 しかし、イスラムやユダヤ法には継承されている。
 イスラム法では、夫が妻を不倫で告訴するときは、4人の証人を立てなければならず、立てて証明できれば、妻は石打の死刑、夫が立てられないときは、侮辱罪で80回の笞打ち刑となる。
 
3、決闘裁判
 決闘裁判はゲマルン古法が起源と言われているが、古今東西からあった。
 紛争を私戦による解決から、裁判官の前での決闘裁判へ合法化した。かくして一族郎党挙げての殺戮の私戦を防止できた。非常に愚かな仕方で処理される賢明な事柄が無数にあるように、非常に賢明な仕方で運用される愚かなことも多数ある。
 文明の進歩と共に、決闘裁判に対する批判がなされてきた。
 12世紀のパリ大学ペトルス・カントール教授「汝は神を試してはならない。決闘で神の奇跡を期待するのであれば、何故老いぼれを代闘士としないのか」
 決闘裁判のとき、代理人が可能で、腕に自慢の男は代闘士を職業にしていた。
 都市の市民は決闘裁判を嫌い、宣誓裁判と陪審裁判を求め、これが近代裁判へと発展していく。

 1386年 パリで国王シャルル6世が裁判長となって決闘裁判がなされた。
 ある騎士がある騎士に妻を強姦されたと告訴した。被告人の騎士は無罪を主張し、二人以上の確かな証人は登場せず、告訴人は決闘裁判を求めた。被告人は決闘裁判を拒否することも、教会へ逃げ込んで決闘裁判を否定する教会裁判を求めることも出来たが、騎士の名誉に賭けて、決闘裁判を受諾した。二人は各6人の証人を差し出して領地へ帰り決闘の準備をした。
 裁判当日、二人の騎士は甲冑に武装し騎馬で裁判所の特設決闘馬場に登場した。告訴人の妻は喪服姿であった。彼女は、強姦されたと宣誓証言をしており、もしも夫が敗れれば偽証罪として処刑される運命であった。二人が差し出した証人各6人は二人の出廷と引き替えに釈放された。
 国王の裁判長は二人の騎士が持参した武器を調べ、同じ長さであることを確認した。武器平等原則があった。
 裁判長と神父が神に祈り、お互いを左手で握手させて宣誓させた。
 告訴人は「被告人が自白し、判決に服し、死刑を受け、財産没収されることを求め、この身を以て告訴の正しさを証明する」と宣誓し、
 被告人は「国王の仰せのままに紳士として武装しここに参りました。我が神にどうか私の証人になってくださるようお願い申し上げます。」と宣誓した。
 国王は何千人という傍聴人に「咳をしたり叫ぶことも禁ずる。応援してもならない。神の意志が下されるのをただ見守れ」と訓示し、決闘開始の手袋を投げた。
 告訴人が被告人を打ち倒し馬乗りになって、「汝、自白すべし」と問うが、被告人は「魂がどんなに危険に曝されても無罪なり」と叫び、命は絶えた。
 被告人の死体は刑場に曝され、没収された財産は告訴人に訴訟費用として与えられた。告訴人の妻は釈放され、その後一児を産んだ。
 1396年最後の十字軍に従軍した告訴人はオスマントルコ軍と戦い、戦死した。その子は10歳となり領地の相続人となった。
 長らくパリでは、被告人は無罪ではないかという噂が伝えられた。告訴人は被告人の出世を妬み、罠を仕掛けたのではないか。告訴人は武術に秀で、被告人は文弱であった。
 この噂が立ち消えることなく、パリでの決闘裁判は二度と開廷されることはなかった。フランスでは1482年ナンシーで、英国では1583年アイルランドが最後となり、英国議会は1819年正式に廃止とした。
 決闘裁判が廃止され、決闘禁止令が出ても、紳士達は止めようとはしなかった。敗者は倒れ、勝者は国外亡命という危険を冒してでも止めなかった。 

 決闘裁判には代闘士が許され、それを職業とする者もいた。男同士の決闘では剣が調べられ、武器平等原則が守られた。
 女と男の決闘の場合には、ハンディが付けられた。
 男は腰まで掘られた穴に入り右手に棍棒が与えられ、左手は縛られ、穴から出ることが禁止された。女は自由に地上を歩き回ることが許され、石を結わえた縄が与えられた。男が勝てば女は手を切断され、女が勝てば男は斬首された。
 決闘法廷にはそれぞれの証人が同行し、負けた方の証人には罰金が科せられた。決闘の最中に和解は可能であった。負けそうになった方は不利な和解に応ぜざるを得なかった。
 モンテスキュー法の精神
「戦争があり、血族の一人が手袋を投げるか、受けるかしたときは戦争の権利は消滅した。当事者が裁判の通常の進行に従うことを望んだものと考えられた。当事者の一方が戦争の継続をするようなことをすれば、その当事者は損害賠償を判決で命じられる。このように決闘裁判という手続きは一般的な争いを個別的な争いに変え、裁判所に力を取り戻させ、もはや万民法によって支配されていなかった人々を公民状態に戻すことができたという利点を持っていた」

 王の権力が弱く、聖俗未分離下で、権力に頼らず、紛争を自力解決する精神、これは名誉と自由の精神であり、近代の自由、人権、自治の精神であり、資本主義の魂である。
 決闘裁判と陪審制度は時代に併存していた。都市市民は決闘裁判を避け、同輩の陪審裁判を求めるようになり、やがて陪審裁判が定着していった。

 古来、裁判は糾問手続きであった。大岡越前守が座敷に座り、被告人がお白洲に座らされる。越前守は警察官であり検察官であり裁判官であった。自分で捜査し証拠を集めて起訴したから、有罪との予断に満ちている。だから被告人からお白洲で弁明がなされても真摯に聞くことはできない。誤判は必定である。
 手続きが進歩し、当事者構造となった。検察官と弁護人が対峙し、当事者双方から提出される証拠を、裁判官が真摯に予断なく判断する。思考方法の合理主義である。
 このような裁判の当事者構造の発祥は、決闘裁判に由縁する。
 検察官に証明責任を課すことは、女と男の決闘裁判のハンディ思想に由来する。元々は、当事者主義はトランブゲームのようなものであった。持ち札を手元に隠して切り合う。持ち札を相手に示す義務はない。当事者双方が全知全能を賭けて相手の持ち札を読み切って勝負するのだ。しかし、一方が何枚か余分にカードを机の下に持っていたら公平なゲームになるであろうか。
 検察官は国家権力を代表して警察を指揮し、国家予算を用いて捜査する。民間の弁護人とは格段の優劣がある。ここにハンディを付けなければならないし、検察官が税金で集めた証拠を弁護人に開示させる制度が必要となる。
決闘裁判は愚かなことであったが、王にも神にも頼らず、当事者の自力により紛争を解決する、賢い思想として後世に引き継がれていったのである。