国旗国歌強制は違憲判決 20060923 |
平成18年9月21日東京地裁は、東京都教職員401人が東京都教育委員会を訴えた裁判で、国旗国歌強制は違憲との判決を下した。入学式・卒業式の式典で教育委員会が教職員に対して国旗国歌への起立斉唱を義務づけた通達は、憲法が定める思想・良心の自由を侵害し、規律・斉唱の義務がない、違憲の通達で苦しんだ教職員の一人当たり慰謝料を三万円と判断し、都に支払いを命じた。 色々議論があるでしょう。 最近の成人式を見ていると、新成人は来賓の挨拶も聞かず、雑談に興じ、携帯電話を掛けまくり、酩酊して騒ぎ出し、議事の進行を妨害し、怒った来賓のプロレスラーの代議士と取っ組み合いを演ずる醜態がありました。学校の式典で、校長・教頭と日教組組合員が、国旗国歌への起立と斉唱を巡って、大騒ぎしてもみ合いを演じている姿を子供たちが見て成長しているから、成人式が乱れるのだ、という意見もあります。礼節教育はどうなっとる、との批判が多いのです。 日の丸が国旗、君が代が国歌、ということは国旗国歌法で決まっていますから、法律を守ることは大事なことだ、という発想ならば、起立と斉唱を強制しても良いことになります。 教職員組合の考えは、日の丸・君が代は、侵略戦争のシンボルであり、起立と斉唱をすることは侵略戦争に賛成することに等しく、良心の自由に反する、というのです。 しかし、私が思うに、日露戦争のときは、中国・インドの民衆もロシアに勝利した日本を賞賛していたのですから、日露戦争は侵略戦争とは言えません。アジアの人々は、ヨーロッパ帝国主義列強のアジア侵略支配に抵抗して勝利した日本を模範と考えていたのです。 日本がおかしくなって帝国主義に変じたのは、昭和5年の日中戦争からであり、昭和20年の敗戦までのたった15年間に過ぎません。たった15年間の異常な時代の出来事がその後60年間も続いたと言い続けることは、歴史認識が間違っていると思います。戦後60年間日本は平和主義に徹し、アジア諸国へ巨額の平和的人道支援を続けてきたのです。15年間の侵略も60年間の人道支援も日の丸の国旗の下でなされてきたのです。オリンピックでも日の丸を揚げ続け、世界から日の丸は日本の国旗として認知されています。 国旗及び国歌に関する法律は、平成11年に制定公布されています。この時国会ではかなり紛糾しましたが、多数決で可決されたのですから、法治主義から言うと、解決済みの議論となり、反対の人も法律を尊重して、日の丸・君が代が国旗国歌であることを承認していただくことが望ましいのです。但し、法律で決めたことであり、憲法改正して決めなかったという事実は残ります。諸外国では国旗国歌を憲法で定めている例も多いのです。 従って、私の意見としては、日の丸・君が代は法律で決まったことですから、起立・斉唱くらいのことは反対せずに従えばよろしいではないか、礼儀作法の類だと思います。結婚式に呼ばれたらキリスト教式であり、面食らったが、賛美歌を口パクでやった体験があります。口パグをした理由は主催者に対する礼儀であり、私がキリスト教に帰依する気はさらさらないのです。 教育委員会は国旗国歌法に基いて式典に日の丸・君が代を準備したのですが、組合の人は口パクを拒絶するのでしょうか。教職員組合の人は、日の丸・君が代は侵略戦争を思い出すと、反対にこだわるのです。君が代を口パクすると良心に反すると体感するそうです。エー本当と驚きます。これは考え過ぎと言うものであり、極端な考えに拘泥する人は、好きではありません。私なら起立・斉唱します。これは私の趣味的感想であり、憲法論として言っているのではありません。こうゆうタイプの人から離婚事件を頼まれても、受けたくないですね。離婚は清算なのであり、細かい対立点は度外視して基本点で離婚に合意できるのならば、一方を批判することなく、離婚すればよいのですが、ある種の教員とか医師の夫婦は、清算ではなく、相手に非を認めさせたいとか復讐を依頼してくるのです。復縁がダメなら何も論ずることなくさっさと離婚すること、これが離婚事件解決の提要です。離婚裁判も、裁判ですから、勝ち負けです。しかし、勝ち負けを論ずることなく、終える解決方法もあるのです。 憲法論としては、判決を支持しますが、慰謝料三万円認定は反対します。通達を取り消せば済むことであり、税金401人×30000円の支払いは組合員への不当利得です。 思想・良心の自由は、自分の好まざる思想に強制されないことです。踏み絵を踏ませることは憲法違反です。公教育で宗教団体への参拝をさせても憲法違反です。修学旅行で神社仏閣へ行きますが、あれは参拝ではなく、見学ですから許されるのです。 どうしても、日の丸・君が代に起立・斉唱したくないと思っている人に強制してはいけません。教育委員会が職務命令として起立・唱歌を命じ、しなかったら懲戒ということは、憲法違反です。 日の丸・君が代は、侵略戦争と関係ないでしょう、これは礼儀の問題だ、と議論を吹きかけることは、憲法上無益です。相手は侵略戦争だと言い張っているのです。思想・良心の問題は、正解がないのです。正解がないのに、正解を出そうとすることに無理があります。ブッダとキリストの教えのどちらが正しいか、という議論と同じです。組合の人は、君が代を口パクすると、良心の痛みを覚え、憲法違反を体感し、慰謝料三万円を戴きますと言うのです。そんなアホな話はないと言ってみても、相手はそうだと言い張ります。公論は正解の出ない私論に立ち入ることを避けよと、憲法「良心の自由」は言っています。 従って、教職員が、起立・斉唱せずに、着席したまま沈黙していても、懲戒すべきではありません。 他人の思想に対して、寛容であることが憲法の趣旨なのです。自分に反対の思想の存在を擁護することなのです。民主主義者と宗教家の中の過激派は、絶対に理解できない、したくない思想です。教職員組合の人にも理解してもらいたい思想です。他人に寛容を要求する者が一番寛容ではないこともあります。 以上の私の結論を、もしも、ヒットラー、レーニン、スターリンが聞いたら、直ちに銃殺刑を命ずるでしょう。 アメリカでは今年の夏に国旗冒涜禁止案が憲法改正案として議会で審議されましたが、上院でたった一票差で否決されました。この国旗冒涜というのは、星条旗を燃やしたりすることですが、役所の前に掲げられている星条旗を燃やせば、器物破損罪で当然有罪ですから、改正案はこのことをいっているのではありません。デモ隊が所有する星条旗を燃やして反米アピールをすることを禁止しようとしたのです。上院は議論した結果、思想の自由、表現の自由を理由に否決しましたが、一票差でした。アメリカの自由と民主主義の現在レートが一票差なのです。 国旗国歌強制の議論にも、二種類があります。 起立せず座して・沈黙という消極的抵抗です。 卒業式の演壇に突撃し、国旗を破棄し、君が代のレコードのスイッチを切り、労働歌を唱和して赤旗を振るという積極的妨害です。70年代に大学ではこれがはやりました。 後者については、器物損壊罪、業務妨害罪ですから違法です。 前者は、前に述べたとおり、合憲です。 もうひとつ議論があります。 先生が起立せず座して沈黙していると、生徒達の教育上良くないという議論です。生徒が先生の姿を見ていると、朝礼で、整列と指示しても勝手バラバラになってしまうという、教育上の観点です。 従って、教育委員会は、起立・斉唱しない先生へは、式典への出席を排除し、自宅或いは職員室での待機を命じても許されると考えます。多分組合の先生は、又反対を唱えるでしょう。 平成11年国旗国歌法が制定されても、このように議論が複雑になっています。憲法改正で国旗国歌を決めなかったからいけないのです。憲法改正ならば国民投票をしますから、政府自民党が勝手に決めたとの言い分が出てくることはなくなります。 私の憲法改正案は次のとおりです。 「国旗は、日の丸、国歌は・・・・とする。 国旗を破棄或いは焼却したり、国歌斉唱を積極的に妨害することを禁止する」 消極的に妨害すること、即ち教職員組合がしているような、起立しない、座して斉唱しないことは合憲とします。積極的妨害のみを禁止とします。 国歌は・・・・と書きましたが、私は、君が代が陰気で嫌いです。もっと明朗な歌曲が望ましいと思います。たとえば、兎おいしかの川の故郷、春のうららの墨田川、さくらさくら弥生の空の桜の方が好きです。 国歌を何にするかは、国民の趣味の問題です。国民投票で決めればよいのです。 憲法改正投票では、一括賛否を問う形式になるかと思いますが、国歌に関しては、個別に賛否を問うべきです。多分に国民各人の趣味の問題がありますから、個別に投票させて、第一位を採用すればよいのです。決まった歌曲が嫌いでも、国民投票して決めたのですから、組合の人も妨害とか慰謝料三万円の要求はやめてくださいね。 石原都知事は、控訴することを言明しました。間違いです。通達を取り消して、今後は、反対者は式典中は、職員室待機を命じることとすればよいのです。 石原都知事は、作家であり、権力者ではなかった筈ですが、この世には、議論してはいけない世界、議論しても正解に到達できない世界、勝手に議論させておく世界、公の議論と私の議論は別、を理解できるでしょうか。 |
![]() |
![]() |
![]() |