時事評論 4 |
「 モンゴル紀行記 」20080930 |
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2008年9月16日から21日まで愛知県弁護士会からモンゴルへ、モンゴル弁護士会創立80周年式典参加と愛知県弁護士会とモンゴル弁護士会の友好協定調印のため、公式訪問をしました。 参加者は、伊藤邦彦、田邊正紀、大津卓也、浅野了一、佐藤昌巳、小川晶露、服部由美と小生でありました。 1911年清朝が崩壊し、モンゴルはロシアの後押しで独立宣言をしましたが、外モンゴルに対する宗主権を主張する中華民国とロシアとは対立していた。1917年ロシア革命が勃発し、ソ連と中華民国は内モンゴルは中華民国、外モンゴルは独立との協定を締結し、モンゴルは二分された形となった。1924年モンゴル人民共和国は独立宣言し、一応独立国の形を取ったもののソ連の衛星国となった。スターリンの指導下にあったチョイバルサンが国内で弾圧政治を行い何万人も犠牲に遭い、チベット仏教寺院は破壊された。 19世紀後半ロシアのアレクサンドル2世治下では、選挙制度、裁判制度、陪審制度、弁護士制度が普及していったが、独立直後のモンゴルにも弁護士制度が導入され、以来80年が経過したのである。 ソ連の崩壊の後、1990年モンゴルは一党独裁を廃止し、国名をモンゴル国と改めた。 公式訪問であるので訪問先は多数であり、貴重な体験を得た。 @地方裁判所 所長が案内してくれてとても親切であった。 庁舎は古びており、現在3階建を5階建に増築中であった。地震がない国だからいいものの、日本の発想では立替です。 法廷は狭く、国際援助で贈られた法壇がでかいのでマッチしていない。この地方裁判所では判事13人、 助手15人、その他合計42人が勤務している。判事はソ連留学生かモンゴル大学法学部卒業である。女性 の社会進出が甚だしく、判事の6割が女性である。以前は9割にもなった時期があったと言う。確かに2つ の法廷を見学したが、皆女性であった。しかもかなりの美形であった。男性所長に女性判事の資質につい て質問すると、模範的回答が返ってきた。 地方の判事は3年間に4〜5人汚職で捕まっているとのこと。 付帯私訴、公証人制度、判事の任期なく定年まで身分保障がある。 A調停センター JICAの支援で2005年開設された。ビルの一部を賃借しているが、狭い。法律相談と調停が月に30〜40件ある。ここの所長は男性であるが、その日いた調停員は皆女性弁護士であった。ここへは当会の林光 佑弁護士が講義に来ている。訴訟よりも調停で解決するやり方は浸透してきているとのこと。 B法務内務省 行政局長が案内してくれたが、40歳になっていないように見える。最高裁の権限外の法務を担当している。行政訴訟で訴えられることもある。日本の交番制度を導入しつつあるとのこと。 CJICA 1996年から開設しており、石田幸男所長が説明をしてくれた。市場経済化の為の人材育成・円借款援助・新空港建設をしている。日本企業のモンゴル進出が遅れていることを嘆いておられた。韓国の方が進出意欲強い。 その他、国会、名古屋大学日本法教育センターを見学した。 この夏の選挙で当選した旭鷲山を国会で見た。暴動で燃えた人民革命党本部も黒こげのままであった。 中国の上海は大発展しているが、モンゴルはビルも古く街頭も暗い。社会資本の整備と開発がまだまだである。教育水準が高く、男女の日本語学習熱も高いが、日本企業が進出してこないから就職も困難であるとのことであった。 モンゴル弁護士創立80周年式典は大統領臨席のもとに開催され私たちも招待され勲章を授与された。 人口200万人余の小国家であるが、やることは大国と同じく一つの国としてやる。有名な歌手が登場しての大宴会となり、我が隊の勇士伊藤邦彦は乾杯を全部受けていたが、翌日寝込むこととなった。ウオッカが卓に並んだのであるが、火を付けると燃えるのである。これをストレートで呑むのであるから倒れるはずである。 翌日も記念行事の昼席ということで郊外のモンゴル村のような所へ案内され、羊の丸焼きを戴いた。 ただし羊肉には好き嫌いがあるところである。この昼席にも有名なモンゴル相撲と曲芸団が呼ばれており終日楽しむことができた。 その他、乗馬に誘われ、全員が1時間モンゴルの大草原を楽しむことができ、誰も落馬しなかったのは目出度い。 今回の旅行は以前駐在していた田邊先生の引率のもと、現在の駐在員の一弁の飯塚美葉弁護士が親身にお世話してくださり、貴重な体験を得ることが出来た。海外旅行は公式訪問に限ります。行けない所へ行けます。今回参加者が少ないのが残念であるが、このような企画に乗らないと損をします。以前名古屋第一法律事務所大連事務所5周年記念式典に参加し加藤洪太郎先生に世話になったが、同じように公式訪問は得るところが多かった。 空路からシナ海、大草原、砂漠と眺めて、現在の国境は不変のものではないと痛感した。 冒頭に、内モンゴルと外モンゴルと書いたが、モンゴル人はこの言い方を嫌う。中国からの呼び名なのであり、モンゴル人は内モンゴルを含めてジンギスカンの時代の栄光に懐かしさを抱いている。 内モンゴルが中華人民共和国に含まれたのは歴史的偶然である。清朝は最盛期に内モンゴルまでは支配したが外モンゴルを支配できなかった事実がもとになっている。清朝後の中華民国とロシアが締結した国境線が現在に至っているだけである。ジンギスカンの蒙古ならば、内外モンゴルも中国もモンゴルのものである。 ここで、中国と書いたが地理学的には間違いやすい概念である。私はシナと呼ぶ。支那と呼ぶとシナ人は怒る。支那の語感に「辺境」の意味があるからである。欧米人がチャイナと呼んでも怒られない。その語感がないからである。脂那と呼ぶと怒られない。私が言うシナとは黄河と揚子江流域の漢族の祖地を言う。シナと中国と言い換えないと間違う。 満州国が建国されたとき、五族協和と言われた。満州民族、漢民族、蒙古民族、朝鮮民族、日本民族の意味である。 これには原典がある。孫文の唱えた五族共和である。これは、満、漢、蒙、回、藏の五族である。回はウイグル、藏はチベットである。元は蒙古族の支配王朝、清は満州族の支配王朝であり、漢族は被支配民族であった。清朝を倒した孫文は中華民国の国境を元朝ではなく清朝の最大版図と設定した。孫文は彼の三民主義の中で民族自決主義も唱えていたから、本当は漢族の祖地であるシナだけで中華民国を建国すれば理論的であるが、大中華主義者である漢族孫文は満・蒙・回・藏を支配する為に清朝版図を中華民国の国境線としたのである。 同じ事はスターリンもした。中央アジアの諸民族を独立させずにソ連邦の中に吸収してしまい、反対する者を反共の民族主義者として弾圧したのである。 蒋介石を台湾へ追放した毛沢東は中華人民共和国を建国し、中華民国の国境線を何の躊躇いもなく引き継いだ。やはり彼も民族自決主義者ではなく大中華主義者であった。 現在、回・蒙・藏では独立運動が始まっている。民族自決主義から当然のことである。内モンゴルは外モンゴルに、回は昔東トルキスタン国と呼ばれた位であり西トルキスタン国に接近し、チベットは独自に独立を図るであろう。中華人民共和国人民解放軍の武力以外にこの流れを止めるものはいない。シナも元々一つでない。魏・呉・蜀の三国であった。三国に分かれれば、中華人民共和国は分裂し、呉は中華民国と合体するであろう。東アジアに中華人民共和国のような強力な独裁国家が存在することは日本にとって危険なことである。中華人民共和国は内紛を外に転嫁するために尖閣列島問題で紛議を興すことを躊躇わないであろう。既に海軍の強化が著しい。 中華人民共和国は大中華主義を振り回し、小民族を圧迫している。回・藏・蒙・満へ漢族を大量移住させ民族同化を図っている。台湾には国家としての資格を有する中華民国があるが、決して国家として認めようとはしない。領土と国民とそれを合法的に支配する政府があれば国家として認められるべきが国際法であり、台湾の中華民国はそれにふさわしい。中華人民共和国と中華民国は国連に同時加盟が許されるべきである。東西ドイツや南北朝鮮がそうである。 中華人民共和国は民族対策でもソ連邦のやり方を忠実に守って建国してきた。共産主義の支配下での民族自治である。民族自決主義者は共産主義に反対する民族主義者として弾圧された。崩壊するときは同じ道筋を辿るであろう。ソ連邦の中にいた中央アジアの各国は独立した。 ソ連邦の解体から17年、中華人民共和国の解体はいつか。中華人民共和国はソ連邦から32年遅れて1949年に建国されている。単純計算なら15年後だが、歴史のスピードはそれより早いか。 |
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