令和の謎 2019/05/15更新


 平成から令和へ元号が代わったが、この意味を考えた。
1.発案者は国文学者で、これまでは漢籍から選んでいたが、初めて国書である、万葉集から選んだとのことである。しかし、政府は20年間発案者が誰か秘密とするということであり、報道で名指しされた国文学者も沈黙しているが、万葉集が原典であることはまず間違いはない。

          万葉集  梅花の歌

           初春の令月にして
           気淑(よ)く風和ぎ
           梅は鏡前の粉(こ)を披(ひら)き
           蘭は珮後(はいご)の香を薫(かをら)す

 この歌に「令」と「和」が登場するが、これが令和出典の元である。
 令月とは陰暦の2月、今の3月、梅花咲く頃である。冬が去り穏やかな初春の到来を喜んだ歌である。
 令和の「和」の文字は、これまで元号に19回使用されており、和平、協調、安らぎを意味し、特に注釈する必要がない。

2.「令」について、国文学ではなく漢文学から論ずる。
 象形文字としては、跪いて神意を聞く人の形である。
@ 美称・敬称の意味の「令」
令人 「善行の人」
令弟 「弟」
令徳 「立派な徳」
令夫人 「他人の妻、令室」
令台 「他人の妻」
令嬢 「他人の娘、令女」
令声 「よい評判、令名、令聞、令望」
令婿 「よい婿」
令息 「他人の男の子、令子、令郎」
A 「令」とは命令の意味がある。
令書 「命令書、令状」
令史 「命令書を司る下級役人」
B 令和とは和平せよとの命令を意味する。「和ヲ令ス」と読み下す。
しかも、令とは天皇の命令ではなく、天皇(国王)以外の王族の命令をいう。
天皇の命令は勅旨という。
令旨(れいし)とは天皇(国王)以外の王族が発する命令書である。
上皇の命令は院宣という。
なぜ、勅和ではなく令和なのか。天皇を無視しているのではないか。

C 令旨の前例
平安時代末期、平清盛の平家が隆盛であったとき、皇族以仁王(もちひとおう)は平家追討の令旨を下し、源三位頼政とともに、1180年挙兵するが、すぐ敗死してしまいます。以仁王は後白河上皇の子であるが、天皇にはなれなかった。
 1180年高倉天皇の子 安徳天皇が即位したが。平清盛の孫である。つまり安徳天皇は平家一門、以仁王は反平家の皇族であり、安徳天皇が平家追討の勅旨を出す筈はないから、以仁王は令旨を出したのである。
 この令旨はやがて源行家の手により関東の源頼朝、木曽の源義仲に伝わった。
源義仲は決起して倶利伽羅峠で火牛の策で大勝し、上京一番乗りを果たしたが、その後源頼朝に亡ぼされた 。

3.古来、宣戦布告と和平は天皇の大権であり、誰も侵すことができなかった。
 大日本帝国憲法(明治憲法)でも明記してあり、昭和天皇は太平洋戦争終結に際してこの天皇大権を発動して、ポツダム宣言を受諾し、国民に対して降伏を勅旨し、ラジオ放送で宣じたのである。もしも、昭和天皇が和平に反対し、高松宮がクーデターを起こして、和平終戦工作をしておれば高松宮は和平の令旨を発することとなった筈である。
 昭和天皇が戦争継続を決意し、聖戦完遂の勅旨を発すれば、源平の闘いと同じく、高松宮の令旨を奉ずる和平軍と、天皇の勅旨を奉ずる戦争続行軍との内乱に発展した筈である。令旨軍は米軍と同盟し、勅旨軍を追い詰め、最期は壇之浦の安徳天皇御入水の通りになったであろう。
 新憲法ではこの天皇の大権は否定された。「勅」と「令」とはかように発布主体が違うものである。
4.十八史略であったか、何であったか記憶にないが、こんな話をぼんやりと憶えている。
 ある国では、長男の王子と二男の王子がいた。兄には長女が一人、弟には長男と二人の娘がいた。王が死ねば、兄が即位することになるが、兄には男子がいない。王は兄に継がせ、次いで弟の長男に継がせようとしたが、弟は不満であり、兄に10年間王となり、その後10年間は弟が王となるよう要求して王を困らせていた。王は崩じて、兄が即位した。弟の嫁は、兄の嫁が男子を産めなかったことを咎め、兄弟夫婦の争いは熾烈を極め、兄の妻は気が乱れ、兄に退位するよう働きかけ、嫌気となった兄は退位し、弟に譲位した。弟は王位に就くや王としての権力の魅力に取り憑かれ贅沢な宮殿や自分の墓所を建設し、そのため民草は重税に苦しんだ。
民の中から兄王復位の声があがるにつれて、弟王は不安にかられ、兄王夫婦を捕らえて殺してしまった。この内紛を見ていた隣国は、一気に攻め入り、この国はついに滅びてしまった。