歴史評論2
   太平洋戦争の時代に生きていたら、やっぱり特攻隊に行って桜花のように散りますか?
    20060815→20070213
1、太平洋戦争時代、私が生きていたら、どうしたであろうかと、考えます。鹿児島の知覧特攻隊基地、呉の戦艦大和ミュージアムも見学しました。出陣の前の遺書が沢山展示されていますが、若い人が皇国の防衛のために命を賭けて特攻していく姿は哀れで涙が止むことがありません。アメリカと戦う以外選択肢がなかった、という情勢の中で、特攻を決意するのです。そして、これらの遺品の展示をみながら、考えると、言論の自由がないことに気が付きます。
 遺言書の内容は、父母に対して先絶つ不幸を詫び、鬼畜米英と差し違え、護国の鬼にならん、とするものが多く、太平洋戦争に対する批判的内容のものがひとつもないのである。特攻隊は、大学生が多く、インテリである。「特攻に行くが、東条英機首相の三国同盟は間違いであり、国賊である。日露戦争は小村寿太郎の活躍で和睦に持ちこることができたが、今このような男が待望される。故郷の両親、友人に、自分のこの思いを覚えておいてもらいたい」と書いた遺言書はひとつもない。書けば、上官の検閲で引っかかり、全文書き直しを命じられる。どうせ特攻で死ぬのですから、思いの丈書かせてください、と頼んでも、多分鉄拳制裁か、特攻機繰上げ出撃となる。
 今の人は、信じられないだろうが、兵営と戦場では、東条が悪いとかの政治の話は禁止であり、厭戦とか反戦を口走ると、憲兵が
捕まえに来て、営倉に叩き込むのである。
 戦前のあの時代、何が悪かったかと言っても、全部悪かったと言えるが、言論の自由が弾圧されていたことが最悪である。言論の自由さえ擁護できていたら、あれほど悲惨な最期にはならなかった。昭和18年19年と東京の大学生の中で、小村寿太郎研究会を組織したり、終戦和睦策を研究することは、特高による拷問・虐殺を意味していた。横浜事件が例となる。言論の自由がなく、特高か特攻かの選択しかないとき、皆特攻を選択し、黙って、言論の自由を行使し得ず、桜花のごとく散ったのである。

 アメリカと戦う以外選択肢がなかった、ということは、明治憲法に違反します。明治憲法では、宣戦布告と講和の戦争大権は天皇の専権でありますが、天皇権限を制約しうるものとして帝国議会が設置され、国民と代議士の言論の自由が保障されていました。明治憲法でも平和と人権の保障規定が存在していたのですが、軍部の明治憲法違反に対して、国民は明治憲法を擁護しえなかったのです。
 治安維持法という法律があり、私有財産制度を否認する言論を抑圧しうる悪法がありましたが、これとて私有財産制度否認=共産主義を取り締まるものに過ぎず、国家の外交方針として、ドイツ・イタリアと枢軸同盟を締結するか、英米と協商すべきか、国民と代議士は自由に言論ができたのです。太平洋戦争の原因は、支那事変から始まり、三国同盟締結で運命決定となりますが、この間、国民も代議士も反対の言論を殆どしていない。むしろ反対に新聞の論調は、国策に協力的であり、国民も南京陥落提灯行列をしたように好戦的であった。しかし、中国と戦争し、ドイツ・イタリアと三国同盟を締結することの危険性について反対の議論は少数ながら存在していたのであるが、5.15 2.26事件の右翼テロリズムの恐怖下で、萎縮していくのである。日本共産党は既に早くも昭和3年3.15一斉検挙で壊滅しており、その他平和・民主主義者は治安維持法の暴圧下で萎縮し続け、終戦にいたるまで、言論の自由を行使し得ない状態が続いたのである。
 しかし、それにしても、明治憲法で許された言論の自由を行使する気概の人がいないことに驚かされる。百万人とても我行かん、と言う志士がいなくなったのである。
 坂本竜馬がいたらどうしたであろうか。彼は1867年殺害されたのであが、彼は土佐藩を脱藩し、徳川幕府を崩壊させた男である。江戸封建時代にあって、藩を抜けること、幕府を倒すことが、どんなに恐ろしいことか、武士としての自分の存立の根底を覆すことを承知で行ったのである。徳川封建制度から言えば、坂本竜馬は、非国民ならず非武士のアカと呼ばれてもよかった。昭和では、アカは共産主義の革命派のことであったが、徳川時代末期に幕府打倒を叫ぶことは、極左のアカの過激派とみなされても良かった。
 昭和の国民は非国民と呼ばれないようにと、萎縮し、召集令状が届けば、気負ったふりして出征し、護国の鬼になって白の木箱に入って帰国した。しかし坂本竜馬ならば、非国民と呼ばれても、三国同盟の正否を正しく論じたであろうと思う。
 昭和初期から20年まで、本当に考え、生きた人はいなかった。本当に人材に乏しい20年間であったと思う。東条英機程度の凡才が日本を支配し、誰も抵抗し得なかったのは、日本史最大の悲劇である。これが復活しないようにするには、どうしたらよいのか。あらゆる学問の分野で検討されるべきであるが、私は憲法学の分野で検討をしたい。二度と昭和前期の恐怖の時代が復活しないためには、憲法に何を規定すべきか。大事な論点である。
 そして、明治憲法さえ擁護できなかった国民が、日本国憲法を擁護できるか、検討されるべきです。
 教育学の分野では、何故一億特攻ができたのか、洗脳と教育について研究されるべきである。
 敗戦後、一番腹が立ち、驚かされる説に、一億総懺悔、がある。
 一億国民が戦争協力して反対者はいなかったから、一億総懺悔すべきだ、という意味は分かる。しかし、指導者と一般国民とは責任が違うし、仏教的に総懺悔すれば、何も残らないのである。総懺悔してすべてを洗い流すのではなく、何を教訓として残すか、憲法学からは、何を憲法に規定するか、を論じられなければならないが、一億総懺悔論には、それがない。
 
余 談 
 しかし、戦後この一億総懺悔論が国民にとっては一番分かりやすい。将軍も兵士も皆同じ立場で慰霊しましょう。過去の罪は流しましょう。靖国へ行けば、東条英機も特攻隊の兵士も皆等しく英霊となってしまっている。いっそのこと、同盟国のヒットラーもムッソリーニも独伊兵士も祭ったらどうか。さらに英米ソ連の兵士も、アジア各国の戦争被災者も、等しく祭ってやり、敵味方・諸霊の慰霊碑にすればよい。古来日本の習俗は、霊に罪なし、敵味方を問わず、ひたすら慰霊、すなわち霊の鎮まりを祈念するのである。
 8月15日小泉総理大臣は又靖国神社を参拝して物議を醸している。私は、親から靖国神社の氏子であるとか、参拝せよ、とか言われたことはないから、一度も行ったことはない。元々靖国神社は戊辰戦役の官軍戦死者を祭ったものであり、賊軍兵士の会津藩、五稜郭の蝦夷共和国、更には西南戦争西郷軍、の各兵士を祭っていないし、意図的に排除している。日本古来の神道、仏教は、本来こんな偏狭な思想ではない。一宗教法人である靖国神社がどのような祭り方をしようが、靖国神社の自由であり、私は、靖国神社の言論・宗教の自由を認める立場であるから、批判はしない。しかし、参拝に行く気はない。

2、 戦争の反省として、日本国憲法には何と書いてあるか。
 憲法前文に「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」とある。
 政府の行為により戦争をした、これだけの表現で足りるか。
 明治憲法は、国民の言論の自由及び議会主義を保障し、よって政府の権力濫用を防止するシステムを構築していた。伊藤博文は、確かに、そう考えて、明治憲法を立案したのである。伊藤博文は、畏れ多き事ながら、憲法とは君権を制限することであると述べている。伊藤はドイツに憲法留学してドイツ的憲法を輸入し、美濃部達吉の天皇機関説もこの延長戦に位置する。美濃部の天皇機関説は昭和初期に弾圧されたが、伊藤と同じことを言ったに過ぎぬ。
 大正の頃までは、このシステムが機能しており、大正デモクラシーと言われる一時期があった。しかし昭和になると、軍部ファシズムが、5.15事件、2・26事件を通じて、テロリズムを振るい、民間人の言論の自由はおろか、代議士の議院内の言論の自由さえ失われ、代議士は暗殺の危険を恐れて軍部批判の演説を回避したのである。
 問題は、このような社会情勢の中、国民が言論の自由抑圧に対して反対する動きを一切みせず、共産党への弾圧を当然のことと見なし、南京陥落には提灯行列で祝い、戦時賠償を期待し、満蒙を支配して豊かな新時代が到来すると酔ったのである。
 政府の行為により、戦争したのではない。国民自身が望んだ結果なのである。昭和初期、世界的不況の影響下にあり、逼塞した状況から脱出できることを国民が期待し、満蒙に夢を託したのである。日清日露の戦争賠償での一儲けの記憶が国民を麻痺させ、平和よりも戦争を熱望したのである。
 それは、ヒットラーの手口と一致する。ヒットラーは議会主義に従って第一党となり、直ちに議会主義を破壊した。第一次大戦で失ったドイツ領土の回復という愛国主義で国民を惹きつけ、国民は歓呼をもってヒットラーを支持した。

 民主主義的憲法は国民を頼りとする。その国民に裏切られたら、憲法は崩壊する。立憲主義の明治憲法は政府と国民によって破壊されたことを憲法改正に当たり、記憶すべきである。
 アメリカ憲法では、抵抗権の思想がある。
 アメリカ憲法修正第2条
 「規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を所有し又は携帯する権利は、これを侵してはならない」
 これがピストル携帯を巡って憲法上の論争を引き起こしている原因の条文である。

 日本国憲法に於いては、歴史が違う、武器所有を担保権とする抵抗権思想を直接輸入するわけにはいかないが、時の政府がどうなろうとも、国民一人はわが身を守る自由がある、百万人がどうであろうとも、われ一人一丁の銃を抱いてわが道を守る、という思想は、魅力的である。
 召集令状一枚で戦地へ死にに行かねばならぬ→政府による国民個人への死の強制処分から脱出できる最後の権利を憲法に保障すべきである。
 日本国憲法では、第21条に「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と規定している。しかも第12条により、人権は公共の福祉の制限付と規定されている。表現の自由は認めるが、公共の福祉の範囲内である。自衛隊の兵舎の中で兵士が政治議論をすることを禁止しても良い、という戦前同様の議論が生まれるし、実際、昭和44年の反戦自衛官事件、小西誠三等空曹が兵舎内でベトナム反戦ビラを貼り、自衛隊法違反で逮捕された事件があった。昭和20年3月鹿児島知覧基地の食堂で、私が生きていて、「日露戦争も和睦で終わった。小村寿太郎のような人材が必要である。内閣へ和睦解決の請願書を提出しよう」と演説したら、重営倉入りは確実であるが、昭和44年になっても、小西空曹は同じ身の上になっているのである。日本国憲法は本当に過去を反省しているのであろうか。
 言論の自由の第21条を、第12条と平板に羅列するだけであるから、言論の自由も公共の福祉の制約下にあると解釈されるのである。
 言論の自由は、憲法の人権の中でも、最高不可侵であることを強調しておくべきである。

 例えば
@、「言論の自由は、最高の人権であり、あらゆる場面において、私生活の面においても、公共の場においても、兵舎・戦場においても、神聖不可侵である。
 何人も自分を批判する他人の言論の自由を擁護しなければならない。言論の自由を侵害するテロリストは厳重に処罰されなければならない

 と憲法に規定する。
  昭和初期の言論弾圧、官民ともに総力を挙げて、共産主義者にはアカと、自由主義者には鬼畜米英の同調者と、弾圧した。戦争に反対でも、兵舎や戦場でそう言えばびんた制裁と重営倉入りが待っていた。
 言論の自由が不可侵の最高人権であることを憲法で宣言しておくべきである。
 更に、テロリストに対する処罰を厳重にすることを規定すべきである。
 戦前右翼テロリストに対する処罰は、軽いものが多く、抑止の機能を欠いていた。関東大震災時に無産主義者大杉栄・伊藤野枝と七歳の甥を殺害した甘粕正彦憲兵大尉は軍法会議で懲役10年になったものの、3年で仮釈放となり、洋行遊学のあと、満州映画界の帝王として君臨するようになる。彼を見習い、右翼テロで一旗挙げる風潮が生まれていたのである。
 明治憲法でも日本国憲法でも、よく読むと、分かりますが、刑事被告人の権利とか裁判手続きについての規定はありますが、何を犯罪とするかの規定に欠けています。それは刑法に譲ったと理解できますが、単に殺人・窃盗の犯罪ならば刑法で初めて規定すればよいのですが、憲法破壊の犯罪については、刑法ではなく、憲法に明記すべきであります。よって憲法を破壊する行為を犯罪と見做し、特に犯罪の中でも最高悪質な憲法犯罪と評価して、厳罰とする、規定が必要である。
 歴史的に多かった、右翼左翼のテロリズム、そして、オウム真理教のような新興宗教のテロリズム、世界的に蔓延しているイスラム原理主義のテロリズム、皆憲法の真髄たる言論の自由と議会主義を破壊する憲法違反の犯罪なのである。この犯罪を撲滅しない限り、憲法は永続化できないし、弱い憲法は死に至るしかない。
 憲法に、テロリズムとの戦いを宣言すべきである。

A、戦争の開始には、国民投票の四分の三以上の硬性決議を必要とすること

B、徴兵制を禁止すること

 将来、日本に、右翼ファシズムでも、左翼共産主義でも、或いはイスラム原理主義でも、オウム真理教でも、良いが、独裁者が登場しても、独裁が仕切れない憲法システムを用意しておかないと、太平洋戦争300万人の戦死者の霊を慰めることにはならない。

3、吉田満さんの「戦艦大和ノ最後」という本があります。美しい文体で一気に書かれ、絶対に泣けてきます。彼は戦艦大和に乗艦し、生き残り、戦後は日本銀行で役人を勤め上げた人です。
 戦況悪化し、生還望みがたく、生きることを否定し、「負ケテ目覚メルコトガ最上ノ道」と達観する。読んでください。当時の若いインテリが何を苦悩して戦地に行ったか、分かります。

4、私も当時生きていたら、吉田さんのように生きたでしょうか。違います。

 戦艦大和には伊藤整一海軍中将が司令長官として乗艦し、艦長は有賀幸作大佐であり、3332人乗り込み、生存者は269人でした。アメリカ艦載機の墜落数を調べましたが、同行の巡洋艦矢矧や駆逐艦の対空砲火もあり、はっきりしませんが、アメリカ軍記録では、撃墜5機、戦死行方不明14人、負傷4人です。アメリカ軍機は、複座の艦上爆撃機と雷撃機ですから、定員二人です。
 結局、アメリカ犠牲者14人、比較すると、3000対14の損失比率となります。
 軍には、経済と同じく、投下兵力と損益計算論があります。儲かる商売ならすればよいし、勝つ戦争ならすればよい、反対ならやめとけばよい、ということです。
 陸軍では、師団構成員半数戦死傷で師団戦闘力崩壊と勘定します。
 例えば、一万人と一万人とが戦えば、敵味方千人ずつ減っていくと思われますが、実際の戦場では、そんなことは起こりえません。敵を知り己を知らば百戦危うからずとは、孫子の兵法ですが、たいていは敵の数も知らず敵味方の位置も分からず、遭遇戦に突入するわけですが、少数で多数を破った例はいくつもあります。一万と三万が衝突しても、一万が三万の内の千人の司令部に突入しておれば、容易に千人の司令部を打倒しえ、司令部を失って戦線逃亡を図る二万九千人の後ろから一万が追撃すれば、兎狩りのような楽勝の掃討戦が可能となる。織田信長の桶狭間の合戦はこのようなものであった。
 本当に四つ相撲をしたのは関が原である。戦闘に参加する気のない長曽我部らを除いて、本当にやる気の兵力は拮抗しており、戦闘前半は、千人倒せば千人倒れるという数勘定で進展したが、裏切り発生により西軍総崩れとなり、以後兎狩となり、千人殺すのに百人の損失で足りる勘定となった。戦場には、勝ち馬心理があり、勝っているときは褒賞期待で進軍するが、戦線崩壊となれば死への恐怖心からただ脱走する一手となり、戦友を蹴倒してでも逃走することとなり、追手は背後から楽に狙撃でき、損失が圧倒的に少ないのである。
 軍事にとって、重要なことは、負けすぎないことである。戦線が崩壊すれば、兵員損耗比が千人対千人から、千人対百人に一転してしまう。千人対千人の戦いを命令することは正しいが、千人対百人の戦いを命令することは誤りである。一個師団は兵員の半数が死傷したときは、師団戦闘力崩壊とし、後方へ退却させることになっている。兵員半数を失った師団は戦闘力が師団半数ではなく、八割減になっており、師団構成を無と評価せざるを得ないのである。帝国陸軍では、日清日露戦争からこの原則を守ってきたが、太平洋戦争では、特攻思想でこの原則を破ってしまうのである。つまり、兎狩をやられてこいと命令するのである。
 負ける戦争はしない、勝てない戦争もしない、損得の割に合わない戦争はしない、これは軍事学の原則であり、帝国陸軍参謀本部が日露戦争での教訓で体得したことである。しかし、太平洋戦争ではあっさりとこれを放棄し、兵員の損失率などお構いなしの、死んで来い式の特攻作戦が通例になってしまうのである。生還を目的としない特攻作戦は作戦ではない。立案者は兵家の恥である。
 フィリピン海戦で僚艦戦艦武蔵の最後を見送りながら戦線を離脱した伊藤整一中将は、戦艦大和が沖縄へ行けばどうなるか、3000人対14人の兎狩が起きることは当たり前であった。伊藤中将も連合艦隊司令部も予想とおりに3000人対14人の殺戮戦をやらせて、負けて見せたのである。
 しかし、3000人の兵が46センチの巨砲9門、多数の最新鋭機銃とともに呉のドックに戦艦大和を引き入れて立て籠もれば、アメリカ軍が呉を制圧するのにどれだけの損失を余儀なくされたであろうか。呉攻防戦が、本土決戦の中で最高の山場になったかもしれない。戦闘力学から言えば、大和の沖縄特攻は、割に合わない愚策の骨頂と言えるし、命令を出した指導者、連合艦隊参謀神重徳大佐、草加参謀長、及川軍令部総長の責任は重大である。
 神大佐は終戦後間もなく飛行機事故で海に落ちるが、救出の手を振り切るようにして、自死同然に死んでいった。

 伊藤整一中将と有賀幸作大佐が連合艦隊司令部からの沖縄特攻命令を受け、憤然として死地に赴いたことは承知している。しかし、3000人の部下をそのまま引きずって行ってしまったのである。士官候補生42人は退艦させたが、厨房・理髪その他戦闘員でない兵士に対して退艦命令を出していない。
 戦艦大和は、呉を出撃後、豊後水道を通過し、鹿児島種子島沖に進む。接触するアメリカ潜水艦の電探の当たりを何度も確認するが、潜水艦は雷撃してこない。アメリカ軍は潜水艦に雷撃を禁止し、東支那海深い位置でアメリカ艦載機による兎狩を予定していたのである。大和は逃げ場のない兎狩の殺戮の予定戦場へ乗り入れていくのである。
 戦艦大和は、種子島を通過してから、一旦北へ進路を変え、佐世保へ向かう進路を取る。目的が沖縄ではなく、佐世保回航であるとアメリカに思わせる擬態作戦である。このため戦艦大和は、琉球列島の島伝いの線から離れ、東シナ海深く入っていってしまった。
 琉球列島の島が一つも見えなくなってから、アメリカ艦載機は兎狩を始め、たった二時間で撃沈となるが、3000人対14人の損失比を残した。伊藤中将も有賀大佐も特攻命令を出した連合艦隊の神大佐に対して憤然と死んでやったとの恨みを残したと思われる。
 しかし、3000人の兵士の命はどうしてくれるのか。投下資本対比効果があってこそ、戦争の論理も成り立つが、負けて来い、死んで来いでは、兵士の恨みは晴れることはない。3000人ということは陸軍の1個師団相当であり、46センチ砲9門の不沈砲台の呉のドックに立て籠もれば、一人が一人のアメリカ兵とのいい勝負ができたのに、艦載機相手の3000人対14人の損耗戦では浮かばれない。軍人とって、抗命罪は死刑であるが、特攻で死ぬのならば、どうせ同じ、理不尽な命令には服従する義務はない、或いは兵士の命を救う為には、この世に便法ありとは考えなかったのか。

 私が、伊藤中将ならば、琉球列島の島伝いに進路を取り、魚雷の5・6発を受けたら、奄美大島の湾の海岸に乗り上げる。そして連合艦隊司令部に、沖縄の護持には遠かったが、奄美大島の護持に転進すると電信を送ってやればよい。
 そして、20年3月から奄美大島で兵と休んでおれば、8月には終戦である。3000人の兵士が故郷へ生きて帰れるのである。3000人が故郷で田畑を耕し、工場で鍋や衣服を製造し、家族を養えば、3000人分の家庭の悲劇を回避できたのである。
 故郷の駅を降りて、役場前の坂道を歩いて、長い柘植の植垣の途切れる角を回ると、家にたどり着く。庭では、父母、兄嫁、弟、妹、甥姪が農作業をしながら、帰ってきた次男を郵便配達人かと間違えて眺めるが、次男だと気がついて、歓声をあげて抱き締めに駆け寄る。
 しかし、長男も次男も三男も、皆帰ってこなかった。3000人の家庭で帰らぬ人を気遣いながら、女どもがどれだけ泣いたであろうか。

 日清日露の戦争では、日本軍は開戦翌年の終戦を予定していた。日清戦争は、明治27・28年、日露戦争は明治37・38年である。日露戦争では開戦と同時にアメリカに終戦交渉の仲介を依頼していたのである。しかるに、太平洋戦争では、まったく終戦の予定がなかった。終わりの予定なき、開戦は必敗である。
 伊藤中将は戦艦大和と運命をともにしたが、私なら、3000人の兵士とともに生をともにした。
 
 さて、本題に入るのが、遅くなってしまいました。私が太平洋戦争の時代に生きていたらどうしたかを書きます。相当長くなります。何月もかかるでしょう。


「太平洋戦争の時代、私が生きていたら・・・・」

1、私が昭和16年に20歳の大学生であり、日米開戦を知ったとしたら、直ちに大学を中退し、海軍航空隊に入隊します。
 昭和16年12月8日の真珠湾攻撃は、奇襲となり、大戦果を挙げています。ワシントンの日本大使館が業務怠慢で宣戦布告暗号電報の翻訳に手間取り、通告したときは、すでに真珠湾の爆撃が始まっていたという醜態でした。アメリカがだまし討ちと非難するのも当たり前です。日本政府は当時からこの事実を知っていましたが、通告が遅延したことを遺憾とする、との声明さえ発表していません。太平洋戦争の目的に正当性があるか否かは議論があるところであり、擁護論者は、日本の生命線を犯したABCD包囲網に対する正当防衛権と言う。しかし、何事も正否の議論は実体と手続きの二面から成り立つと考えれば、通告が遅延した開戦は弁護できない。又、実体での正義が必要な戦争に暗い影を及ぼし、戦争の行く手に凶相が漂うのである。日本政府は宣戦布告通告が遅れたことを遺憾とし、通告前のアメリカ軍戦死者に対する補償の用意があると宣言すれば、まだ開戦の倫理性を維持しえたし、アメリカ国民の憤激を減少しえたのであるが、頬被りし続けた。
 開戦当時、太平洋では、日米の海軍力は若干日本が大きく、この機に乗じてアメリカを打倒してしまえ、という作戦なのでしたが、それは将来の建造力の違いを無視した議論だったのです。
 昭和17年5月珊瑚海開戦があり、日米ともに一隻空母を失い、互角の勝負であったが、6月ミッドウェイー開戦では、アメリカ軍損失はヨークタウン一隻に比べ、赤城、加賀、蒼龍、飛龍の四空母を失い、日米の太平洋での空母比率は一挙に同数になってしまった。
 その後、ガダルカナル島の攻防戦をはさんで、数次に亘り、ソロモン海戦が戦われ、日本は消耗戦を強いられていく。私は戦闘機零戦の搭乗員として空母瑞鶴乗り組みとなり、初陣を飾ることとなる。零戦は艦爆を護衛して飛んでいくのであるが、空戦の最中、私はそっと抜け出して燃料の尽きるまで飛び続けて空戦の終わりを待ち、アメリカ空母を探して、後方から接近し、主脚を下ろす。
 アメリカ空母の偵察員は、私の零戦を発見して、「敵機、6時の方向」と叫ぶが、私が主脚を下ろすのを見て、味方機かと迷い、「味方機、着艦」と叫ぶ。
 私がアメリカ空母の甲板に着艦させるとき、アメリカ偵察員は、零戦胴体の日の丸をみて腰を抜かすほど驚くであろう。 私は、操縦席の風防を開けて立ち上がり、四周に向かって、敬礼をする。アメリカ海兵は、驚いて、反射神経だけで、応礼する。
 不思議な空気の中で、私は零戦から降りて、取り囲むアメリカ海兵に言う。
「余は、日本国天皇の使者であり、日本臨時自由政府の総理大臣兼海軍大将である。ルーズベルト大統領へ面会を求めたい。すぐさまワシントンへ打電されたし」
 艦長はじめ幕僚が「気違いではないか」と色々質問するが、私の発言は、繰り返して、ルーズベルト大統領への打電を要請し、艦長は、気違かとの意見を添えて、ルーズベルト大統領へ打電した。
 アメリカ海兵が私を三等兵員室へ案内したとき、私は抗議する。
 「余は海軍大将であり、日本国天皇の使者たる外交使節である。貴賓室を用意せよ」
 海兵が、捕虜だから三等兵員室は当たり前だと、言うが、私は、一歩も引かない。
 「汝の姓名、官職を述べよ。余はテイクノートする。余はかくなる無礼を受けたことがない」
 艦長は、海兵からの報告を聞き、このこともルーズベルト大統領へ打電しておけと命令した。

 ルーズベルト大統領から、正体を詳しく調査せよとの訓令とともに、アメリカ陸軍日本語部隊が到着し、中にはライシャワーがいた。オーストラリアのシドニー軍港内で査問が開始された。
 私は一貫として言う。
 「余は、東京の大学生でありしが、日米開戦の頃、本郷の下宿の近くで、正体は良く分からぬが、身分卑しからぬ紳士が、私を自動車に招きいれ、目隠しをされたうえで、何処かの邸宅に連れ込まれた。簾の向こうには、神主のような衣装をした高貴な人がおり、私に話しかけた。
 「汝は、源三位頼政の40世の子孫である。かって平家が天皇をないがしろにして驕り昂ったとき、以仁王は平家追討の令旨を発した。源三位頼政は直ちに挙兵し、勤皇の模範を示した。今や、東条英機は平家なるぞ。政府を乗っ取り、朕に向かって、日米開戦を強談判し、拒絶すれば、東条は、君もし君ならずんば、と軍刀に手を掛けて、宣戦の詔勅を発布せしめたのである。朕は、詔勅の中に、僅かに、豈朕の志ならんや、の一文をいれるのが精一杯であった。
 朕は日米開戦を望まず。明治天皇は、イギリスと同盟し、アメリカを頼りにして、ロシアと日露戦争を戦ったのである。第一次大戦では、先帝はドイツと戦ったのである。明治以来、英米と戦う遺訓はない。
 汝は、源三位頼政の末裔なれば、故事の習いに従い、東国へ赴き、兵を集め、決起し、都へ攻め上り、東条平家を打倒して、朕を安心せしめよ。汝を征夷大将軍、海軍陸軍大将に任ずる 」
 これだけの話を聞かされ、また目隠しをされて連れ出され、解放されたときは、明治神宮の裏手であった。夢を見る心地であり、朕とは一体誰のことか、私に何をさせたいのか、茫然の心持であるが、月日を重ねるに従い、天命と信じ、零戦に乗って、東国へ目指したのである。
 余は、北米、南米の日本人植民者に呼びかけ、日本臨時自由政府を設立し、東条東京政府及びドイツ・イタリア政府に対して宣戦を布告し、英米と同盟し、東京に攻め上り、天皇陛下をお救いする、ことにする 」

 「源三位頼政の子孫とは、どういうことか」
 「知らぬ。そう言われたのだ。余の知らない話だ」

 「本当の話か。嘘か夢か。敵前逃亡の罪を逃れるためのことか」
 「余は、承知していることしか、話さない。我が眼を見て、論ぜよ」

 ルーズベルト大統領へは、事実のみを報告するしかないことになった。ルーズベルト大統領も半信半疑、幕僚に問うも声なし、対日政治工作を担当する部門からは、大山郁夫、鹿地亘、野坂参三ならば相応しいが、どこの馬の骨かも知れぬ者を相手に出来るかとの意見も出るが、対日政治工作に決め手を欠いていたアメリカとしては、少しやらせてみるかとの意見も出て、私はアメリカ内の日本人収容所、南米の日本人村を回ることとなる。

 私は日本人に呼びかける。
 日本がアメリカに勝てると思うか。アメリカに住み、アメリカの経済力、軍事力を知っている諸君ならば、東条英機の愚かさを分かっている筈である。今度の大戦は第一次大戦の規模を格段に上回り、民族と文明が滅亡するほどの人的物的被害をもたらし、日本軍民は何百万人も死亡し、東京はじめ都市は焼け野原となるであろう。日本はアメリカに占領され、日本という国家と民族が滅亡してしまう。諸君らの故郷、友人、家族を失うこととなる。天皇陛下はこの戦争を承認していない。アメリカとの友好は明治天皇以来の国是である。東条英機一人が天皇陛下を恐喝して開戦の詔勅を発布させたのである。偽勅なのであり、日本人は従う義務がないし、東条英機の軍部政府を打倒して天皇陛下をお救いすることが臣民の道である。
 この大戦は兵器の進歩により未曾有の戦死者が出る。ヨーロッパではドイツとイギリスが都市への無差別爆撃を敢行しており、非戦闘員の市民の犠牲が続出している。アメリカが日本の都市に無差別爆撃をおこなえば、諸君らの家族が犠牲になる。
 日本臨時自由政府を樹立し、海外の日本人が志願して自由政府軍を作り、アメリカと協同して日本へ攻め上り、東条英機の軍部政府を打倒し、天皇陛下を救出し、新たに東京に新政府を作ることが必要である。日本とアメリカとの戦争を、東条英機軍部政府と日本臨時自由政府との戦争に転化させる。そうすれば日本の敗北はなくなる。自由政府軍がアメリカ軍と協同するなかで、大事なことは、戦場の混乱の中で右往左往する日本人難民を救出すること、投降兵を保護し自由政府軍に加入させること、アメリカ軍が国際法違反の人道無視をしたら抗議し、絶対に非戦闘員と捕虜に対する虐殺をさせないこと、非軍事地域への無差別爆撃を阻止すること、一人でも多くの日本人の命を救出することである。
 自由政府軍は二手に分けて半分はドイツ戦線に向かう。ベルリンを落としたら、同盟軍たるソ連軍とともに満州へ向かい、ソ連軍の在満日本人への強盗強姦殺人を阻止する。日本兵の捕虜の帰国を急がせて強制労働に使役させないようにする。
 半分は、サイパン、フィリピン、沖縄から本土に上陸する。この間日本軍民への宣伝工作を行い、投降させて命を救出する。東条英機軍から日本臨時政府軍への寝返りを誘う。捕虜、民間人を保護する。アメリカ兵が日本人を虐待しておれば阻止する。本土への無差別爆撃に反対し、国際法の遵守をアメリカに要求する。
 戦時にあって戦後を考えなくてはいけない。そもそも第二次大戦はヨーロッパでのナチスドイツと英仏ソ連の戦争である。日本はドイツの勝利に賭けて空き巣泥棒のようにアジアの植民地侵略に走ったが、ドイツも日本も敗戦必至である。敗戦後の世界はどうなるか、英米とソ連との対立世界が生まれる。その時日本が滅亡していれば、ただ英米の占領地の属国になるだけである。
 負けるのは、東条英機の軍部政府だけでよい。日本臨時自由政府がアメリカと協同して東条英機政府を打倒すれば、負けたのは東条英機政府であって、日本ではない。平家と源氏が戦い、どちらが盛衰しようとも、天皇が滅んだことはない。織田も豊臣も徳川も盛衰しても天皇は不滅である。これが日本史の伝統である。しかし東条英機の馬鹿が天皇陛下を脅迫し、偽勅をかすめ取り英米に宣戦布告し、日本と天皇陛下を滅亡させようとしている。日本人東条英機の過ちは日本人自身で正さなければならない。そうしないと日本人は国際社会での当事者適格を喪失することとなる。
 フランスのドゴールを見よ。ドイツの攻撃にフランス政府は簡単に降伏して南仏のビシーへ移転し、国土を占領され、今やドイツに占領税を支払い、ドイツとともに英米に参戦している。ドゴールは海外に脱出し、フランス臨時自由政府を樹立し、英米と同盟し、フランス解放を目指している。ドゴールが勝てばフランスは負けなかったことになるし、第二次大戦での戦勝国になるのだ。
 第二次大戦後の世界で日本が独立を維持し戦勝国になるためには日本臨時自由政府を樹立し東京に攻め上り、天皇陛下を擁護し、来るべき英米とソ連との戦争に対し当事者的独立を確保しなければならない。
 戦後の世界を予感せよ。戦勝国で国際連合が組織され、戦勝国主導で世界が動くこととなる。英米ソ連中国の列にドゴールのフランスは絶対に参加する。日本臨時自由政府も参加して戦後の国際的地位を確保しなければならない。


 第二次大戦時のアメリカでは日本人はどうしていたか。
 砂漠の収容所で4年間無為に拘禁されていたと思われがちであるが、そうではない。日本国籍を持つ一世は収容所に入れられたが、アメリカ国籍を持つ二世は志願によりヨーロッパ戦線へ向かって大和魂を発揮し、最高の戦死率を記録している。日本人独特の奉公精神が祖国アメリカに対して発揮されたのである。砂漠に収容された親のためにも必死で突撃をしていたのである。
 日米交換船が二回実施されている。日米双方から船を出し、アフリカのポルトカル領で双方の外交官と民間人を交換したのである。アメリカでは日本人に交換船に乗るか否か質問し、帰国すると意思表明した日本人を交換船に乗せている。拒否した日本人はそのままアメリカに留まっている。帰国した日本人は日本へ忠誠を誓った者であるが、東条英機政府はそう見ずに、スパイ扱いをして特高の監視下に置いた。第二次大戦末の横浜事件は共産党再建事件として特高がでっちあげたものであるが、交換船帰国者が犠牲になっている。日英交換船も一回実施されている。これにもヨーロッパに滞在していた外交官と民間人が乗り込んだ。
 開戦時にたまたま日本に帰国していたアメリカ国籍を持つ二世女性が対外宣伝放送に徴用され、アメリカ兵士から東京ローズと呼ばれていたが、戦後アメリカに帰国したら反逆罪で処罰された。交換船に乗れば良かったのである。
 1942年6月18日スウェーデン国籍の大型客船グリップスホルム号に南米北米の外交官・留学生・民間人・日系移民約1000人が乗り込みニューヨークを出航し、途中ブラジルのリオデジャネイロで約400人乗り込み、アフリカのポルトガル領モザンビークのロレンツマルケスに入港し、横浜から英米人を乗せた浅間丸とイタリア船籍のコンテマルケス号と1942年7月下旬に落合い、双方約1500人の交換を実施し、出港地へ戻った。横浜に帰着したのは1942年8月20日のことであった。
 日英交換船は、1942年7月から10月にかけて実施され、第2次日米交換船は1943年9月から11月にかけて実施されている。
 日英交換船では、欧州滞在の外交官・民間人の他に、インド・セイロン・アフリカ・豪州滞在者も乗り合わせている。1942年5月31日日本海軍は豪州シドニー軍港に潜航艇攻撃を行ったが、オーストラリア政府はこの時の戦死者4人の遺骨を交換船に乗せて送り届けている。偉いものである。

 戦時中アメリカにいて交換船に乗らなかった日本人の中で大山郁夫がいる。この男こそ日本臨時自由政府の首相になるに相応しい男であるが、そうしなかった。アメリカでなにもせず、日本の滅亡を眺めていただけであった。戦後帰国して参議院議員になり、左翼の政治家として終えるのであるが、なぜこの男がアメリカで何もしなかったのか、明治人の思想例として考察したい。
 大山郁夫は1880年明治13年兵庫県生まれであり、早稲田大学政経に学んだ。卒業後早稲田大学講師となり、1910年からアメリカ・ドイツに留学、英独仏語に堪能で、政治学を専攻する。1914年世界大戦勃発の激動を体験し、帰国。ロシア革命に思想的洗礼を受ける。
 帰国後早稲田大学の教壇に戻るが、早稲田学内騒動で辞職し大阪朝日新聞論説記者となる。1920年再度早稲田に戻り、デモクラシーの著述を多く出版するが、学内に留まることより社会への進出を自分の義務と考えるようになり、政治傾向を強め、1926年労働農民党委員長となり、1928年第1回普通選挙に香川県から立候補して落選、この時当選した同党山本宣治代議士は1929年白色テロで刺殺されている。大山郁夫は1930年第2回普通選挙で当選する。この間2回白色テロに遭遇し負傷している。
 大山郁夫は第1回普通選挙を語っている。
「渾身の力をこめてあらんかぎりの声を振り絞り私の面前から緊張しきった注視の眼を私に投げかけていた満場の聴衆に向かって血を吐く思いで叫びかけた。
 私は、わが労働農民党が今度の総選挙に臨んでかかげた中心スローガンである、労働者に食と仕事を与えよ、働く農民に土地を保証せよ、すべての人民に自由を与えよ、田中反動内閣を倒せ、を基調として私の論歩を進め、わが党がいかなる政策をひっさげて、労働者・農民・無産市民の生活と自由のために、いまいかに血みどろの闘争を戦いつつあるか、またいかに鋼鉄のごとき決心を以て、その闘争を最後の勝利にまで戦い抜こうとしているかを、つぎつぎとたたみかけて絶叫した 」
 大学教授だった男がレーニンのような大演説家・労農階級の闘士になったのである。
ファッショ進行により国内に留まる危険性を察知し、1932年アメリカへ妻とともに渡り、ノースウェスタン大学政治学部嘱託となり、戦時中はアメリカ政府の依頼で明治憲法の翻訳などをしていた。1947年10月帰国し早稲田大学に戻る。1950年参議院議員に当選するが、無党派を貫き、平和活動に専念し1955年11月死亡、享年75歳
 大山郁夫は、古典的自由主義者から始まり、ロシア革命の影響もあり、左派色を強め、無産政党である労働農民党の委員長になる。思想的にはマルクス主義の入り口までは行ったが、コミュニストにはならなかった。当時のスターリンが指導する国際共産党の日本支部である日本共産党員にはならなかったという意味である。大山郁夫の著作を読むと、無産階級の解放の観点が見られるが、当時の国際共産主義運動では、社民ファシズム論、社民主要打撃論(無産政党・社会民主主義は人民に幻想を与える革命の妨害者だから資本家よりも先に打倒すべきだ)が通用しており、大山郁夫は当時の日本共産党から手厳しい小ブル批判を受けていた。一方山本宣治はコミュニストであった。大山郁夫は吉野作造のような民本主義からはじめ、左翼への傾斜を強めはしたが、山本宣治や京大の河上肇のようにコミュニストまでは行き着かなかった。
 大山郁夫はアメリカに亡命したのであり、ソ連へ亡命したのではない。コミュニストではないということである。
 大山郁夫は交換船への打診があつたとき、殺されに帰るようなものだと断っている。その後アメリカ政府の外交官ジョン・エマソンから、延安の野坂参三、重慶の鹿地亘らと連携して日本革命政府の首班になるよう要請されるが断っている。石垣綾子への手紙にこう書いている。(石垣綾子 在米中の体験 大山郁夫評伝・回想)
「敗戦の日本に、アメリカの勝ち誇る占領軍とともに乗り込むことはきっぱりお断りする。勝利者の権威をかさにきて、どうし民主革命を日本にもたらすことができるであろうか。私はあくまで個人として日本の土を踏み、新しい祖国建設のために尽くすつもりである。現在アメリカの意図は、日本の民主革命にある。しかしやがてアメリカの世界制覇の姿勢がもたげ出した時、その帝国主義的アメリカの政策に反対したなら、民主政府はたちまち倒されてしまうだろう」

 私、思うに、大山郁夫は文士であって武人ではなく、労農党委員長を勤めたはずなのに政治家ではなかった。日本を脱出するとき、これらを捨ててきてしまった。白色テロと日本共産党からの小ブル批判が大山郁夫を階級政党の立場から逃避させてしまった。しかし昭和初期のよくある転向者でもない。戦後大山郁夫は不偏不党を唱え、活動を平和運動に限定していく。
 チャーチルの回想によく出てくるが、ドゴールは難民亡命者のくせしてフランスの代表と大法螺を吹き、軍資金を出させてパリ解放一番乗りの名誉を独占しようとしている。いつもフランス、栄光フランスを叫んで戦敗国を戦勝国に変えようとし、図々しさに辟易する。
 大山郁夫が勝利者アメリカとともに帰国することを拒絶したが、日本を戦災から救出する観点がない。東条英機の軍部政府を打倒することと日本を打倒することの違いに気がつかない。大山郁夫が動いていたら、何万人の日本人の生命を救出できたはずであり、惜しいことをした。アメリカ政府と同盟し、臨時自由政府軍を組織し、アメリカ大統領と幕営をともにしておれば、無差別爆撃も原爆投下にも反対し得たはずである。大山郁夫がアメリカで無為徒食したことを恨みに思う。
 大山郁夫にとって、太平洋戦争は日本とアメリカとの戦争との認識であり、日本軍国主義とアメリカデモクラシィーとの戦争であることを見逃している。大山郁夫は、祖国は日本、敵国はアメリカとの認識から逃れなかった。
 大山郁夫は明治人であり、天皇崇拝からも自由でなかった。天皇の祖国日本に敵することは出来なかったのである。大山郁夫の著作には民主主義に関して山ほど書いてあるが、天皇については一言も触れられていない。書くと危ないと避けたかもしれないが、私は大山郁夫が精神の奥底で天皇崇拝だったと思う。天皇の詔勅による対米宣戦布告に反抗できなかったのである。これは明治人共通の特徴であり、戦時下の日本人が最後まで捕らわれた思想であり、玉砕も特攻もここから起きている。 

 戦後昭和22年10月16年ぶりに帰国し、国民から大歓迎を受ける。早稲田大学に復職し、昭和25年参議院議員に当選するが、帰国演説では「私はいっさいの政党党派を超越し、不偏不党の態度において全民衆の利益を擁護伸長する立場から観察し批判し言論し行動しようとしている。すでに一切の政党党派を超越するという以上は、全然政権欲をはなれ、至公至平の立場から言論したり行動したりすることを目標としているという意味がそれに含められているのであります。・・・・・現下の日本の政界の実情から見れば、不偏不党の地位から、言い換えれば、眼前刻々に転々変動する党利党略というものにまどわされない地位からものを見るというような人々が若干あっても少しも差し支えない。否、政権亡者がそこいらにウヨウヨと動いている現状の下においては、そういう人々が幾人かでもあるということは単に一服の清涼剤であるばかりではなく、絶対に必要なことである。」と言っている。
 かくして大山郁夫は戦後現実的政治からは身を引き、平和活動に専念するが、昭和26年スターリン平和賞を貰って喜び、スターリンに感謝したり、ソ連・東欧・中華人民共和国・朝鮮民主主義人民共和国を歴訪して東側のサイドで活動をする。朝鮮戦争を目の前で見ているのに、スターリンを称揚するとは呆けたものである。
 大山郁夫は金日成に会っており、こう語っている。
 「まだ41.2歳だ。あの三年間の英雄的闘争ですっかり国民に推服され指導者の貫禄を十分に備えている。日本の足柄山の金太郎があのまま大きくなったのとそっくり同じ感じだ。饗宴を管理する女の人にシャンパンだシャンパンだと言って盛んに請求する。待ちきれなくなってたびたび請求したあげくに最後にシャンパンを出して貰ってにこにこしている。マルクス主義レーニン主義の理論と実践が彼の力となっているのであるが、単にそれだけでは解釈できないと思わせるくらいの大衆に対する魅力を持っている」

 右翼からの白色テロ、共産党からの小ブル批判の中で消耗しすぎた大山郁夫はアメリカへ亡命した時点で政治には嫌気がさしていた。だから戦後平和運動に身を置くのである。

 鹿地亘と野坂参三については後で書きます。
続く