歴史評論 4
 「戦争の法のもとに 補筆@ ドイツの中国への軍事支援」2009.04.13
2008年私はクリタ舎から「戦争の法のもとに 副題 広島被爆者のなかに米兵もいた」を出版したが、この本は読みやすくするためにページ数を減らしたダイジェスト版なのです。 出版してから説明が不足していたことに気づいたので補筆をしたい。
 本の155ページでは、このように書いた。
「日本の大陸侵略に対し南京の大学生が反日を叫んで軍に志願し愛国民族戦争を戦っていた。蒋介石はドイツとソ連から軍事顧問団を受け入れて中華民国軍の整備を図り、軍備の近代的改革は着々と進んでいた。ドイツからチェコ製の機関銃、ソ連から戦闘機が輸入された。黄禍論に立つヒットラーにとって遠い極東は当面の関心の対象とはならず武器商売の種とした。
 一方、ソ連は中華民国に対して最大の関心を示していた。共産革命の輸出を目指し中国共産党を育成し、国共合作を指導していた。国民党の内部には隠れ共産党員が増加していった。・・・・
 ドイツとソ連の武器で重装備した中華民国軍は上海で激しく戦った。チャンコロと馬鹿にした清国兵とは格段の違いを示し、日本兵の犠牲は多大なものとなった」

 1920年代30年代に中華民国がドイツやソ連から軍事支援を受けていたことをご承知でしょうか。私はソ連は共産革命の輸出、ドイツは武器商売と書いたが、余りにも簡単すぎるので、誤解を招きやすいから、補筆したい。

 1918年第一次大戦が終結し、ベルサイユ条約でドイツは、徴兵制廃止・陸軍10万人・海軍15000人の軍備制限を受けた。皇帝ウィルヘルム二世はオランダに亡命し帝政は崩壊したが、ドイツ軍人官僚団は生き残っていた。何処の国でも軍部は官僚組織の中でも独特なものであり政府とは別個に増殖し祖国さえ食いつぶすことがある。日本の軍部がそうであった。軍部に対する統制が民主主義国家の課題なのである。
 ベルサイユ体制下、ドイツ軍部は軍と軍需産業の生き残りのためソ連と秘密協定(1922 ラパロ条約)を締結し、ドイツはソ連に軍需産業を支援し大砲と戦闘機を輸出した。ドイツ軍事顧問団はソ連軍を訓練し、新開発の武器の実験場とした。昨日までの敵が友人となったのである。ドイツはトルコ軍・ボリビア軍にも同じ事をし、退役軍人の再就職と武器商売の種にしようとしたのである。更にスウェーデンに対してはドイツ民間軍事企業が進出し戦車と飛行機の生産を始めた。ベルサイユ条約によりドイツの軍事生産は制限されたにもかかわらず、第一次大戦終戦直後からドイツの軍事生産を復活し、ヒットラーが政権を掌握してからはこの動きは一層加速した。一方英仏では平和呆けの中で軍備整備の怠りがあり、第二次大戦初戦でのドイツ戦車団の突撃を許してしまったのである。

 ソ連は1917年革命後、世界同時革命を目指し革命の輸出をおこなった。主にドイツ・東欧に対してであるが、中国に対しても行った。ソ連は世界革命の輸出、被抑圧民族の解放をスローガンとしていた。
 1919年ソ連は中華民国の孫文に対し清国と締結していた不平等条約を撤廃し軍事援助を申し出た。孫文は容共主義者であり、ソ連の軍事支援の下での軍閥の解体、中華民国の統一を目指していた。コミンテルン代表マリーンが訪中し、孫文に軍事援助を約束し、国共合作を指導した。1924年第一次国共合作が出来、中国共産党員は国民党に入党し、黄輔軍官学校が設立され、蒋介石が校長、周恩来が政治委員となった。ソ連からブリッヘル将軍が軍事顧問団長として訪中し、ソ連式の軍事訓練を行った。
 蒋介石は反共主義者であり、中国共産党を絶滅しなければならないと確信していた。彼はソ連を訪問し国共合作を熱心に推進する振りをしていたのである。孫文が死んだ翌1926年、蒋介石は広東で反共クーデターを起こし多数の中国共産党員を虐殺し、ソ連軍事顧問団は脱出した。その後、ソ連の代わりにドイツ軍事顧問団が訪中してきたのである。ドイツ式の軍事訓練を受けた中華民国兵は北伐と掃共を戦い、蒋介石は中華民国の統一を進めていった。
 1931年満州事変、1932年第一次上海事変勃発により、蒋介石は北伐と掃共を中止し、上海に軍を集めて日本軍と対決した。この時ドイツ式軍事訓練を受けた中華民国兵は精強であった。それまでの日本軍の体験では傭兵清国兵や軍閥兵は弱く、兵員数10倍でも勝利してきたのである。しかし1932年1月28日から3月2日の上海での戦いでは、日本兵は動員6万人の中の死傷3091人を失うのである。中華民国兵は動員5万人、死傷11770人、日中が対等に戦った最初の会戦であった。満州国建国を至上命題とする日本は停戦を望み、蒋介石も掃共戦続行のために停戦を望んだ。
 蒋介石は、掃共か排日かを検討した末に、安内攘外を決意した。ドイツ軍事顧問団ヴェッツェル中将の指導により中国共産党軍のゲリラ戦に対抗するトーチカ包囲戦を行い1933年の第5次掃共戦では中国共産党軍を瑞金から追い出し長征に向かわせた。中国共産党は崩壊の寸前であった。ここで1936年西安事件が勃発した。父張作霖を日本軍により爆殺された張学良が蒋介石を監禁し掃共戦中止反日戦を要求したのである。命が危うくなった蒋介石はこれを受入れ、解放されたが、南京に帰還する蒋介石の飛行機に張学良は同行し逮捕されてしまうのである。蒋介石は張学良との約束を破っても良かったが、蒋介石はそうはしなかった。天下に排日の叫びが充ち満ちていたし、監禁下の約束とはいえ、男が一旦した言葉に二言はないし、壮士張学良の名声は轟いていた。蒋介石は掃共戦を中止し、第2次国共合作を行ったが、その後張学良は監禁され、戦後は台湾へ運ばれ二度と歴史の表舞台に立つことはなかった。この男、1936年にただ一度登場して歴史を変えたのである。
 1936年ドイツ軍事顧問団は100人に達し、ドイツ式の訓練が充実し中華民国兵は精鋭となっていった。中華民国軍に編入された中国共産党軍の第八路軍新四軍はソ連から軍事援助を受け、これまた最強の軍隊に成長していった。
 1937年廬溝橋事件が勃発する。日中どちらか仕掛けたか、論争のあるところであり、中国共産党が仕掛けたとの説もある。しかし今やそんなことはどうでもよい。軍備を整え自信を抱いた中華民国軍は日本軍の挑発の度に撤退していたこれまでのやり方を改め、挑発に対しては即時交戦の決意を固めていたのである。どちらかの放火であっても燃え上がる状況だったのである。
 1937年8月13日から11月10日迄の第二次上海戦は、日本軍動員20万人、死傷41,942人、中華民国軍動員85万人、死傷333,500人であった。
 ドイツ式トーチカに立て籠もり、チェコ式機関銃で武装して排日を叫ぶ中華民国兵は精強であり、日本兵は次々と倒れた。連隊長クラスの戦死者が続出したのである。この時の日本兵の凄惨な記憶が南京での虐殺に繋がっていく。
 旅順戦は、日本軍動員7万人、死傷59,408人、ロシア軍動員44,000人、死傷30,400人であり、上海戦では旅順戦に次ぐ犠牲者が発生したのである。旅順では戦闘終結後日露の勇士が健闘を讃え合う交歓が繰り返されたが、上海ではそれはなく、戦闘に消耗した日本兵は敵勇士を讃える義侠心を失っていた。
 その前年の1936年日独防共協定が締結されていた。日本はドイツに中華民国への軍事援助停止を要求していたが、ドイツはなかなか応じようとはしなかった。1937年上海戦の後、日本はドイツ式に訓練された中華民国兵の精悍さに恐怖し、ヒットラーに重ねて厳重に停止を要求し、1938年ようやくヒットラーはドイツ軍事顧問団に引き揚げを命令した。
 何故、ドイツが中華民国を支援し続け、1938年になって引き揚げたか、これが論点である。
 第1点 ドイツの貿易上の利益である。ドイツは中華民国に借款を与え軍需工場を建設させる。中華民国からはタングステンを輸入する。この貿易で中華民国の対独輸入は1931年の5%から1936年の16%へ急上昇している。ドイツから中華民国宛の武器の輸出は1936年57%となり第1位であり、第2位は10%のブルガリアであり、断トツであった。このような世界貿易上の利益があるので、ドイツ産業界はやめたくなかったのである。
 第2点 ドイツのブロック経済圏のことである。
 世界史を見ても古代から近世まで全部ブロック経済圏の歴史であり、自由対等な貿易圏は例外的である。ローマ帝国もその帝国の版図内で自給自足が出来たのである。スペインやイギリスは本国と植民地の版図内で自給自足を貫徹させていた。他の経済圏と自由対等な貿易をする必要がなく、高率関税を掛けて保護貿易体制を取った。欲しければ戦争で領土を侵略することにしていた。
 ところが、歴史が進んで、北米と南米が独立し特にアメリカが20世紀に世界最大の経済国になる頃、変化が起きた。世界は既に分割され、イギリス・フランスの植民地とされ、アメリカが参入できる土地はなかった。英仏もこれ以上植民地を獲得できる土地はなく、後進のドイツが植民地争奪戦に後から参加してくることに恐怖感を抱いた。
 第一次大戦でドイツを叩きのめすことに成功した英仏米はこれまでの植民地主義では成り立たないことに気付いていた。
 アメリカが率先して門戸開放・機会均等主義、植民地主義から世界自由貿易体制への転換を呼びかけたのである。治外法権の不平等条約でがんじがらめになっていた中華民国に対して撤廃を宣言し、第一次大戦直後には殆どの国が中華民国への侵略を断念していた。義和団の乱以来、列強は中国から治外法権・租借地の獲得・関税自主権の剥奪を強制してきたが、第一次大戦後はこれを返還する方向に進んでいたのである。
 幕末の条約で徳川幕府は国際法に対する無知から不平等条約を締結させられ、これを撤廃させるために国力の増強と国内法制度の普及を進め、日清日露の戦争勝利による証明に成功してようやく不平等条約の撤廃を実現できた。この間日本は朝鮮・中国に対しては不平等条約を押しつけるということをしていた。自己が望まないものを他者に強制していたのである。日本に国際的信義感覚があるのか疑われるところである。ついには朝鮮を1910年併合してしまった。
 アメリカは米西戦争でスペインから獲得したフィリピンを独立させると宣言したし、イギリスも独立ではないがインドの自治を容認する方向へ進んでいた。本国と植民地の版図内のブロック経済圏を打破して、世界自由貿易体制へと進み始めていた。
 第一次大戦後の世界の潮流に対して無理解であったのは日本であった。各国が中華民国に対して不平等条約を撤廃していくのに、1915年対華21箇条要求を突きつけ、中華民国の植民地化を要求した。阿片戦争でイギリスがした同じ事をしたのである。日本はこの50年間の変化に何も勉強していなかったのである。中国人の怒りは反英から反日へと向かった。日本は阿片戦争を前例として合理化し、林則徐を救国の英雄として崇め、日中共同による反英闘争を持ちかけたが、中国人は誰も乗らなかった。日本の言う反英とは大東亜共栄圏への隷属となることを知っていた。
 日本の夢想は大東亜共栄圏へと進んだ。朝鮮・満州・中国・フィリピン・タイ・インドネシア・ビルマまでを日本の植民地として、ブロック経済圏を建設しようとしたのである。植民地から原材料と労働力を収奪し、完成品を植民地へ売り込み、ブロック内だけの自給自足経済体制を目指したのである。世界史の潮流に反した夢想に実現の見込みはなかった。
 ドイツはどうしたか。東欧・バルカン・ウクライナからロシアを版図とするブロック経済圏を夢想したのである。ヒットラーは英米と反共で共存できると信じ込んでいた。大間違いである。そして日本と三国同盟を締結して世界ブロック分割を約束し、中華民国を日本へ引き渡したのである。ドイツにとって対中貿易はもはや必要なしとなり、軍事顧問団を引き揚げることになったのである。
 ドイツ産業界の希望は無視された。何処の国でも産業人はコスモポリタンである。世界貿易の利を知っている。ナチスは特にユダヤ人の産業人を弾圧し資産を没収し、最後は民族ごと抹殺にかかった。ユダヤ人ほどコスモポリタンの世界自由貿易主義者はいなかったからである。日本では東洋新聞主筆石橋湛山が大東亜共栄圏思想に反対し、満蒙を捨てよの主張は国土を小にするの主張ではなく、かえって世界を大に広ぐる策であると力説したが、軍部と右翼に打倒された。軍部にも右翼にも産業人はおらず、ブロック経済のかえって非なることを気が付かなかった。
 ソ連は旧ロシア帝国版図内で一国社会主義経済ブロックを目指し、旧ロシア帝国版図内のポーランドを奪取することとし、ヒットラーと1939年独ソ不可侵条約を締結し秘密議定書でポーランド分割を約し、9月独ソ軍は東西からポーランドに侵入し、ポーランドを分け合い、これが第二次大戦の勃発となった。
 独ソ不可侵条約は両国による異なるブロック経済圏の相互承認であった。その後ヒットラーはスターリンに「ソ連はイランからインド洋へ進め、東欧・バルカンはドイツが取る」と提案したが、スターリンはイランを版図とするイギリスとの衝突を恐れて断った。ここでヒットラーは本性を顕した。1941年6月独ソ戦開戦となる。
 第二次大戦後、ソ連はコメコンという共産主義ブロック経済をすすめた。これも1989年崩壊した。
 20世紀戦争史を眺めると、ブロック経済と自由貿易体制との相克が原因と理解できる。
 もう一つの原因は過剰生産である。ドイツも日本も軍備増強を目指して重工業を飛躍的に発展させたが、過剰生産に陥った。アメリカはニューディール政策を採用し公共投資の投下を進めたが、これまた過剰生産に陥った。もはや景気回復の為には戦場という消費の場が必要となった。第二次大戦は経済原則の通りに発生せざるを得なかったのである。
 去年から発生したアメリカ発の金融恐慌は未だ世界恐慌のレベルに達していないが、過剰生産は顕著になってきている。不況脱出のために、或いは政治混乱の転換の為に、戦争を企図する者が登場しても不思議ではない状勢である。