歴史評論 8
 「戦争の法のもとに 補筆D 名古屋空襲とふたつの裁判」2009.11.18
講 演 報 告 
10月22日名古屋経営研究会で講演を行いました。その要旨を掲載します。

名古屋空襲とふたつの裁判

 名古屋空襲は死者8000人を記録した。昭和20年5月14日の空襲では、480機のB29が無差別爆撃を行い、市民に338人の死者がでた。名古屋市内で2機が撃墜され、搭乗員は落下傘で降下して11人が捕虜となった。11人の米兵捕虜に対して日本陸軍の軍律法廷が開かれ全員死罰が宣告され、岡田資司令官は斬首にしてしまった。処刑兵への肝試しであった。この間にも無差別爆撃をした米兵捕虜は多数司令部へ押送されてきており、軍律法廷なしで27人を斬首にした。
 戦後、進駐軍が捜査に入り、法務部長岡田痴一法務少将は自決し、岡田資中将、審判官全員、憲兵隊員らがBC級裁判に掛けられた。
 伊藤信男法務少佐  死刑→終身刑に減刑
 松尾快治少佐     禁固20年
 山東広吉法務中尉  禁固20年
 片岡利厚中尉     禁固15年
 岡田資中将       死刑
 その他19人       終身刑から10年 
 どうも、アメリカ人は、ロー(法)とかコート(法廷)という言葉を聞くと、起立敬礼をしたくなるようである。建国以来陪審裁判が普及しており、アメリカ人にとっては教会と法廷は尊敬すべき対象のようだ。
 アメリカは看守の米兵虐待事件では死刑を乱発するのに、何故、無差別爆撃の捕虜処刑事件では死刑を回避したのか。アメリカ人には法廷への敬意があったからであろう。
 名古屋空襲の戦犯裁判では、アメリカ側と日本側で争点のずれがあった。アメリカ側は「名古屋市は防備都市であり住宅地への空襲は認められる」と陸戦法規を根拠とする主張を行い、日本側は「無差別爆撃は空戦規則違反である」と主張した。
 日本弁護人からアメリカへ「アメリカは空戦規則を遵守する意思はあるのか。昭和17年アメリカは日本へ1929年ジュネーブ条約批准の意思があるかと質問し、日本は批准していないが準用する、回答したことがあった。これと同じように質問する」と言えばよかったのに、そうしたことをしていない。この論点が曖昧のまま裁判が進行してしまい、防備都市名古屋市への空襲は有効で日本人は有罪との判決が下りてしまったことは残念である。
 名古屋市には方面軍司令部があり、防備都市であることは間違いがない。防備都市であっても軍事目標以外には空襲できないと規定するのが空戦規則なのである。
 この戦犯裁判では、謎かけのようなやり取りがあった。アメリカ裁判長が岡田資中将に「無差別爆撃に対する報復として米兵を処刑したのか。アメリカ陸軍陸戦法規に報復の規定はある」と尋ね、岡田中将は「断じて報復ではない。裁判である」と答えている。
 報復であると答えていたら、判決はどうなっていたであろうか。
 岡田中将が、「報復か」と問われ、「然り。違法な無差別爆撃に対して報復である懲罰を即刻戦場で処したのである」と回答すれば、私は死刑を回避できたような気がする。
 昭和17年4月18日米空母ホーネットから飛び立ったB25の16機は東京・名古屋・神戸を空爆した中国大陸へ去ったが、大陸で2機が不時着し、8人が捕虜となった。軍律法廷の結果、8人に死刑判決を下したが、2人の機長と機銃手1人を死刑とし、その他は減刑して1人は獄死し4人は生還した。
 戦後上海でBC級裁判が始まり、日本人の司令官中将に懲役5年、審判官大尉に懲役9年、審判官少尉に懲役5年、監獄長大尉に懲役5年の各判決があった。私は、ドーリットル隊への裁判の時、上海軍律裁判ではなく、東京地裁の陪審裁判に起訴すれば良かったと思う。
 ルドルフ・ヘスはナチス副総統で1941年5月独ソ戦直前に単身英国へ戦闘機で飛行し英独講和を試みた。捕虜となり1987年彼は寂しく首つり自殺したが、93歳であった。46年間の捕虜生活だった訳である。
 日本最古の捕虜は誰か 702年遣唐使長官粟田朝臣真人(アワタノアソンノマヒト)が唐の首都長安に行き、陸奥国壬生五百足(ミブノイオタリ)が663年の白村江の戦い以来44年を経過して帰国できた。658年阿倍比羅夫は秋田・北海道へ蝦夷退治の遠征をし、陸奥国壬生五百足(ミブノイオタリ)が阿部比羅夫に降伏した蝦夷人であれば、降伏してから徴兵され百済派遣軍に編入された可能性がある。そうならば、658年から707年まで捕虜生活したということとなり、実に49年間となり、46年間のルドルフ・ヘスを超える。
陸奥国壬生五百足(ミブノイオタリ)は浦島太郎ではないか。
 浦島太郎伝説がある。子供向けのお伽話である。
 陸奥国壬生五百足(ミブノイオタリ)が帰国し、多分朝廷に召し出されたであろう。褒美が与えられ、所望するものは何かと問われ、故郷の陸奥に帰国したいと言ったであろう。望みはかなえられ、護衛隊の警護のもと陸奥国に旅立つこととなった。その時玉手箱が下賜され「畿内では開けるべからず。東国に至りて開けよ」と命じられる。
 都を去り、関ヶ原を越え、中山道の木曽福島寝覚ノ床に至り、もうここならば良いであろうと玉手箱を開くと、死を賜うと書いてある紙片があった。護衛隊長は壬生五百足(ミブノイオタリ)の背後に回り剣を振るった。寝覚ノ床には浦島伝説が伝わっている。何故こんな山国に海の話が残っているのか。不思議である。陸奥へ帰る途中としか考えられない。
 何故、彼は処刑されたか。秘密を知っていたからであろう。
 その時の大臣が百済で真っ先に敵前逃亡をしたという事実を知っていたとか、或いは彼は百済の王女乙姫と出来ていて、乙姫は日本へ亡命して一子を産んだ。その子は長じて大臣となり、その娘が天皇の后となった。彼を生かせておけば天皇家の血筋に蝦夷が混ざることが曝させる。乙姫と大臣は密封処刑命令の玉手箱を渡したのである。