歴史評論9   名古屋空襲と戦犯裁判
9-1「名古屋空襲」2011.10.4
私の父親は戦争中名古屋市の鶴舞公園で高射砲部隊に配属されており、「B29と戦ったが、弾がB29まで届かず、1機も撃墜できなかった」という話を聞かされた。父の視野の範囲内では撃墜はなかったが、実際には対空砲火や戦闘機の迎撃で何機か撃墜している。
 3月19日の空襲では昭和区で高射砲によりB29の1機が撃墜された。御器所亀口に落ちたB29は大破し搭乗員11人が全員死亡していた。住民はその屍体を竹槍で突き刺したり陵辱を加えて数日間晒し者にしてから近所に埋葬した。現場に防空義援箱の四斗樽が据えられ、司令官内山栄太郎中将も視察激励演説をした。戦後戦犯裁判の追求が始まり、屍体を晒し者にしたことを咎められると恐怖した住民は屍体を掘り起こし地元の淨元寺の墓地に埋葬し十字架を立てた。春に咲く水仙花が夏に狂い咲きしたのを幸いに墓地に供えて撮影し、3月に弔ったことに偽装した。この工作には戦後南山大学学長を勤めたドイツ人アロイジオ・パッヘが加わり、進駐軍との折衝に当たった。これは屍体に陵辱を加えただけの話であったが、住民が刺殺したこともあった。
 矢田川の河原に降下した米兵を町内会の婦人達が竹槍で始末したというおぞましい話もあった。ピストルを捨てて「ヘルプ・ミー」と言う米兵に「罪もない女子供を無差別に殺しておいて今更命乞いはないだろう」と取り囲んで刺殺したのである。老婆は「これは内緒話だよ」と声をひそめた。露見すれば進駐軍の軍事裁判に掛けられる恐ろしいことなのであった。
 戦後進駐軍は搭乗員虐待事件の捜査を始め、名古屋市民はパニック状態に陥ったが、法務少将が自決したこともあり、民間人を訴追しないという方針が出てパニックはようやく収まった。今でも名古屋市民が名古屋空襲を語ることに口が重いのは、こうした記憶があるからです。 
 名古屋空襲は昭和19年12月13日から昭和20年8月15日の終戦直前まで繰り返され、死者8000人を記録した。
 特に大規模だったのは3月19日、5月14日17日、6月9日26日であり、名古屋北部大曽根の三菱と南部工業地帯全域が被害に遭っている。5月14日は名古屋城が炎上し、金の鯱が溶解してしまった。実は空襲を恐れて移転作業が行われていた最中であったが、間に合わなかったのである。 
 昭和20年5月14日の空襲では、480機のB29が無差別爆撃を行い、市民に338人の死者がでた。名古屋市内で2機が撃墜され、搭乗員は落下傘で降下して11人が捕虜となった。B29の未帰還機は11機であった。