歴史評論9−11   名古屋空襲と戦犯裁判
2012.2.29
         
8、B29搭乗員に対する軍律裁判

 11人の米兵捕虜は名古屋城内の師団司令部に押送され、伊藤信男陸軍法務少佐の取り調べを受けた。前記の空襲軍律が制定されていたので、これの適用の可否を決定するのが彼の任務であった。
 昭和17年に兵制改革があり、文官であった法務官は武官となり法務将校となった。法務官・法務将校の仕事は、軍内裁判所であり、憲兵隊は警察である。憲兵隊が捜査して送致してきた事件を検察官役の法務将校が起訴し、法務将校を含む裁判体が裁判するシステムである。法務将校の資格には高等文官司法科試験の合格が必要とされていた。
 11人の米兵は憲兵隊で取り調べを受け、検察官役の伊藤法務少佐に送致され、空襲軍律適用を取り調べ5月14日の空襲が無差別爆撃であり空襲軍律に違反することを認定し軍律裁判に起訴した。
 
 軍律裁判と軍法会議とは異なる。ともに法務将校の所管であるが、軍法会議は敵前逃亡など兵士の犯罪を取り締まるものであり、5.15事件でも2.26事件でも東京で開廷された。
 軍律裁判とは、戦時に占領地の治安維持を目的とし、対象は敵軍及び占領地住民であった。東京A級戦犯裁判・BC級戦犯裁判があった。アメリカが戦後に勝手に作った事後法であるから戦犯裁判自体が無効との非難があるが、国際法の歴史から言うと非難は間違いである。いつの時代でも占領軍は占領地に軍政を行い占領目的妨害行為に対して軍律裁判を以て処罰して治安維持をしてきた。
 日露戦争では北京にいた日本民間人横川省三・沖禎介が日本軍の勧誘に従いシベリア鉄道の鉄橋爆破を企図して一月間馬で旅行したが、ロシア警備兵に発見され爆弾所持を追求され自白し、ハルピンのロシア軍律裁判に起訴された。彼ら二人は軍服を着用しておらず、捕虜の待遇を受けることは出来ず処刑された。ハルピンの裁判ではロシア軍人の法務官が裁判し、ドイツ人新聞記者が傍聴していたので、彼らの最後は後世に伝えられた。
 太平洋戦争で英国軍人は軍服を着用せずマレー半島に上陸し住民を味方にして破壊活動をしていた。日本軍に発見され軍律裁判で処刑されたことがあったが、戦後英国はこの件については日本軍裁判官を戦犯裁判に掛けず、掛けた一件では無罪判決をしている。
 軍服を着用しておれば、名誉ある捕虜、着用していなければ山賊・海賊・スパイ扱いになるのが国際法なのである。