歴史評論9−12   名古屋空襲と戦犯裁判
2012.3.15
         
9、名古屋軍律裁判の進行

 伊藤信男法務少佐は米兵11人に対する取り調べを通訳付きで6月2日から20日まで行い、空襲軍律適用を判断し、6月28日東京の陸軍大臣にお伺いを立てるために上京した。当時出先の暴走を防止するために一々東京のお伺いを尋ねる事になっていた。
 昭和19年2月21日陸軍次官・参謀次長連名の依命通牒(陸亜密第1289号) 「国際問題を惹起し又は大東亜民心結集、対原住民工作その他に政治的影響を及ぼすこと大なる事案の処理に当たりては、予め十分中央に連絡すると共に之に極刑を以て臨まんとする場合は中央の指示を俟たれ度」
 伊藤法務少佐は空襲軍律適用により極刑が相当と信じた訳であるが、爆撃即空襲軍律違反と先入観を抱いていたのではない。伊藤少佐は名古屋市に赴任する前北九州の八幡にいた。中国大陸から飛んできて八幡市を爆撃して捕まったカーマイケル大佐を取り調べしたが、空襲形態が焼夷弾を使用しない精密爆撃であって無差別爆撃ではないと判断し不起訴にしている。サイパンのアメリカ空軍司令官がハンセル准将時代の爆撃に対して日本軍律裁判が開かれたことはなく、全部昭和20年2月のルメイ少将赴任後からである。
 伊藤法務少佐は東京出張により陸軍大臣の起訴許可を受けて11人を起訴し、7月11日朝軍律裁判が開廷した。
 検察官は伊藤法務少佐、審判官は審判長松尾快治少佐、陪席山東広吉法務中尉、陪席片岡利厚中尉であった。法務の名がついていないのは兵科将校であり法務専門ではない。他に通訳と録事の浜口栄一法務准尉がついた。法務部長岡田痴一法務少将の下には北村利弥法務少佐(戦後名古屋市で弁護士)がいたが、この裁判には関与しなかったようで、戦後のBC級戦犯裁判を免れている。
 非公開、弁護人なし、一審制であった。
 
 裁判は、通訳の宣誓から始まり、人定質問、起訴状朗読、罪状認否、証拠調べとしての被災状況についての憲兵調書・被告人供述調書、被告人質問、論告求刑、最終弁論へと進んだ。
 旧刑事訴訟法であるから、起訴状一本主義ではなく、審判官は既に証拠の調書を読んでいる。
 結審し、5分間の判決合議の後、11人に対する死罰が宣告され、昼には閉廷した。この後、伊藤法務少佐は法務部長岡田痴一法務少将に報告すると、死罰の執行命令案の起案を命じられ、出来上がると軍司令官岡田資中将が執行命令書を発布した。
 翌日朝、守山の小幡原射撃場で死刑は執行された。
 ところが、空襲軍律には、銃殺刑と明記してあるのに、岡田資司令官は斬首にしてしまった。処刑兵への肝試しであった。又違法にも軍医の立会も省略してしまった。     
 この間にも無差別爆撃をした米兵捕虜は多数司令部へ押送されてきており、6月28日に11人を、7月15日に16人を斬首にしているが、これは岡田資司令官の命令である。本当は陸軍大臣の許可を得て軍律裁判を開廷すべきであったが、この頃陸軍省から「戦局急につき、今後は陸軍大臣の許可を受けることなく現地で厳重処分をせよ」と訓令が来たというのである。もっとも、これが正式の訓令であったのか、陸軍省幹部の私信であったのかは議論がある。岡田資中将は、無差別爆撃は国際法違反が顕著であり、裁判を開廷する手間を省略し、要するに司令官即決裁判で死刑にしたというのである。もっとも岡田資中将は米兵一人一人を取り調べた訳でもなく、米兵を見たこともない筈であるから、部下に対して今後米兵は憲兵隊・法務部に引き渡すことをせずに即刻斬首にせよと包括的に命令を発したのであろう。だから即決裁判と言うものの、実態は裁判無しの処刑であった。

 このようにして名古屋では、38人が斬首された訳であり、同じ事は大阪でも福岡でもあった。しかし不思議なことに東京では米兵捕虜に対して軍律裁判が開廷されることはなかった。東京では各地の軍に空襲軍律を制定して軍律裁判に掛けよと命令しておきながらお膝元ではしなかったのである。ただし、5月24日の東京大空襲では陸軍刑務所が空爆され米兵捕虜62人が焼死し、戦後刑務所長が避難させなかったことを問われて戦犯裁判に掛けられ死刑判決を受けたが、吉田茂首相の助命嘆願で終身刑に減刑された。実は吉田茂はこの時近衛上奏文事件で刑務所に収監中で彼は避難できたのである。
 又、海軍に捕まっていた米兵捕虜に対しては軍律裁判に掛けられることはなかった。海軍は空襲軍律を制定しなかったからである。海軍は移動をしており、占領地行政という観点がなかったから、空襲軍律を制定せず、結局海軍に捕まった米兵は幸運にも捕虜収容所で終戦を迎える事が出来た。