歴史評論9−13   名古屋空襲と戦犯裁判
2012.3.22
         
10、戦後BC級戦犯裁判の進展

 戦後、進駐軍が捜査に入り、法務部長岡田痴一法務少将は自決し、岡田資中将、審判官全員、憲兵隊員らがBC級裁判に掛けられた。
 進駐軍はポッタム宣言「我らの俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加えられるべし」を実行すべく横浜にBC級戦犯裁判を開廷し名古屋関係の軍人を起訴し、伊藤裁判と岡田資裁判とに分離して審理された。
 日本側は、国際法違反の無差別爆撃をした米兵は捕虜の特権を得られず国内法で処罰することは合法であると反論し、岡田資中将は法華経の信者であり戦犯裁判に対して法戦を宣言し、無差別爆撃の違法性を主張し更に自分の命令に従った部下に責任はないと部下を弁護した。
 部下を弁護した岡田中将に対して尊敬できる。しかし軍人の法戦は専門違いで無理であった。法家が法戦をしなければならなかったのだ。
 岡田資中将は即決裁判と言いながら、取り調べをしたり弁明の機会を与えた訳でもなく、裁判の実態がなかった。伊藤信男少佐は軍律裁判を開き適正手続きを遵守しようとしたが、ジュネーブ条約遵守から言うと手落ちがあった。
 ジュネーブ条約は1929年調印されたが、捕虜への保護を規定しており、生きて虜囚の辱めを受けずとの戦陣訓の日本は批准を躊躇っていた。その理由は、「帝国軍人の観念よりすれば俘虜たることは予期せざるに反し、外国軍人の観念に於いては必ずしも然らず。従って本条約は形式的には相互的なるも実質上は我が方のみ義務を負う片務的のものなり」というものであった。
 太平洋戦争開戦後アメリカ政府は東京へジュネーブ条約を批准するか否か質問電報を打ち、1942年1月東条英機首相は「帝国政府は1929年条約を批准せず。従って何等同条約の拘束を受けざる次第なるも、日本の権内にあるアメリカ人捕虜に対しては同条約の規定を準用すべし」と回答した。東条英機首相も結構国際法への理解があったいうことだ。
 1929年ジュネーブ条約
60条 俘虜に対する刑事訴訟開始の際、捕獲国は成るべく速やかに且つ常に弁論の開始期日前に保護国
の代表者に之を通告すべし。
右の通告は左の事項を含むべし。
(イ)俘虜の戸籍及び階級
(ロ)滞在又は留置の場所
(ハ)適用法規を記載する訴追事項の明細書

右の通告に於いて事件の審理に当たるべき裁判所、弁論開始期日及び弁論の行はるべき場所の指示を与ふること能わざる場合に於いては後日成るべく速やかに且つ何れの場合に於いても弁論開始の前少なくとも3週間前に該指示を保護国の代表者に与ふべし。
61条 俘虜は弁護の機会を与えられずして処罰せらるることなかるべし。
62条 俘虜は其の選択する有資格の弁護人を帯同し且つ必要に応じ適用なる通訳を用いる権利を有すべし。俘虜は捕獲国の依り弁論の開始前適当なる時機に其の権利に付き通告を受くべし。
俘虜が選択せざる場合に於いては保護国へ該俘虜に弁護人を付することを得べし。捕獲国は保護国 の請求に基づき弁護を為す資格ある者の名簿を保護国に送付すべし。
保護国の代表者は訴訟弁論に立ち会う権利を有すべし。
右の原則に対する唯一の例外は国家の治安の為訴訟弁論の秘密を要する場合なりとす。此の場合に は捕獲国は保護国に之を予め予告すべし。
63条 俘虜に対する判決は捕獲国軍に属する者に関すると同一の裁判に於いて且つ同一の手続きに依りてのみ言い渡されることを得べし。
64条 一切の俘虜は自己に下されたる一切の判決に対し捕獲国軍に属する者と同様な方法に依り上訴する権利を有すべし。
65条 俘虜に対し言い渡されたる判決は直ちに保護国に通知せらるべし。
66条 俘虜に対し死刑の言渡さるるときは犯行の性質及び情状を詳細に記述する通知は俘虜の服役したる軍の所属国に移送せらるる為成るべく速やかに保護国の代表者に送付せらるべし。
該判決は右通知より少なくとも三月の期間満了前に執行せられざるべし。
 
 このように、弁護人あり、上訴有り、死刑執行3月前保護国への通知の規定がある。
 伊藤信男少佐はこの規定を知らなかったと陳述しているが、知らなかったことはないであろう。知っていたとも言えるはずがなかった。銃殺刑を斬首に変更したこと、軍医の立会を省略したこと等の国内法の違反と共に、これらジュネーブ条約違反があり、伊藤信男少佐も命が危うかったのである。
 東条英機首相は1929年ジュネーブ条約準用をアメリカへ回答し、空戦規則を母法にして空襲軍律を制定したが、この時1929年ジュネーブ条約を母法にすることを忘れたかのようである。東条英機首相は1942年8月捕虜収容所長を集めて1929年ジュネーブ条約の遵守を訓示しているが、大凡言うこととやっていることが間違いである。

 この横浜裁判は公開され、アメリカ人と日本人の弁護人が付いた。裁判は昭和23年に2月間掛けて行われ、被災者の証人尋問も行われ、空襲で焼け出された孤児院の院長、列車銃撃を体験した車掌、空襲全体の被災状況を調査した東海軍軍需監理局第一部長の各証言がなされ、審理は丁寧であった。

 その結論を要約する。
(伊藤裁判)
 伊藤信男法務少佐  死刑→終身刑に減刑
 松尾快治少佐     禁固20年
 山東広吉法務中尉、 禁固20年
 片岡利厚中尉     禁固15年

(岡田資裁判)
 岡田資中将      死刑
 その他19人      終身刑から10年 
 
 岡田中将の死刑は執行されたが、有期囚は昭和26年の講和条約後に次々と釈放され、最後の一人は昭和33年の釈放となった。伊藤信男法務少佐は日大卒の高等文官司法科試験合格者であり戦後弁護士として活躍した。