歴史評論9−17   名古屋空襲と戦犯裁判
2012.5.30
         

 私は、ドーリットル隊への裁判の時、上海軍律裁判ではなく、東京地裁の陪審裁判に起訴すれば良かったと思う。
 陪審裁判は英国で始まり、1215年大憲章マグナカルタにその最初の記述が登場する。当初は、ある村で犯罪が発生したとき、国王が警官隊を引き連れてその村を包囲し、主だった人を何十人と逮捕して教会に監禁して「犯人を差し出せ」と命じたことに始まるようである。国王の警察権は弱く独自の捜査能力に乏しく、地元のことは地元の人々に聞くしかない、との理由である。やがて国王の権力は巨大化し、国王の財政財源は徴税と犯人からの罰金・財産没収に頼るようになった。当時は連座制があり、犯人を死刑にしても一族の財産を没収する事が出来、国王はこの財源を濫用した。これに堪りかねた人民は反乱・革命を起こし、国王を追い詰めて、1628年権利の請願・1688年名誉革命権利章典を通じて、
 国王に対して、
 今後徴税するときは議会の同意を取ります。
 法律を制定するときも議会の同意を取ります。
 裁判には人民の代表を陪審員として参加させます。
 と約束させたのである。だから、憲法とは国王の人民に対する詫び証文なのです。英国人民は書かないと反抗した国王を3人処刑したほどです。
 この頃は日本で言うと、徳川家康の時代です。もしも、誰かが家康に征夷大将軍は人民の入札で決めましょうとか、奉行所のお白州には人民の代表を呼びましょうとか、提案した者がおれば、家康は殺していたでしょう。
 明治維新の時の五箇条のご誓文には、万機公論に決すべしとあり、200年遅れてこの思想が伝来しました。明治期に自由民権運動が高まり、憲法が発布され、議会が作られ、裁判所制度も作られましたが、陪審制は見送られました。しかし明治大正の時代、おいこら警察の人権蹂躙の捜査は続き、多くの冤罪事件が生まれ、疑獄事件では政界官界の有力者が多数逮捕され無罪判決を受けることがありました。明治大正の政友会総理原敬は冤罪事件防止の特効薬として陪審制の導入を提案し大正12年成立し、昭和3年から施行されました。
 この時、裁判官や検察官は陪審制の導入に反対せず、むしろ積極的でした。これは驚くべき事です。官僚は権力や権限の縮小にいつも反対します。これは官僚の定理であり組織防衛本能です。裁判所に陪審員を入れて裁判をさせるなど、裁判官や検察官から見れば自分たちの権力を制限するものであり本来絶対反対したいところでしょう。まして当時お上の権威が強く、人民の権利など無視されがちでした。ところが官民あげて陪審制の導入に賛成したことは特筆すべき事です。
 明治の自由民権運動は、人民の代表を議会へ
 大正デモクラシーは、人民の代表を法廷へ
 このように、明治大正の民主主義は発展していったのでありますが、昭和のファシズムがこれを破壊してしまいました。言論弾圧とテロが政党を解散させて大政翼賛会とし、ファシズムが日本を支配し太平洋戦争へと突き進みました。昭和3年に開始された陪審制は戦局が悪化するなか昭和18年に停止となりました。
 昭和のファシズムが明治と大正の民主主義を破壊したのです。戦後新憲法が制定され、女性を含む普通選挙が実施されましたが、陪審制についてはなかなか復活しませんでした。しかし戦後いくら裁判官や検察官が苦労しても跡を絶たない冤罪事件の解決策として陪審制が裁判員制という名で平成21年に復活しました。この復活についても裁判官や検察官は熱心でした。