歴史評論9−22   名古屋空襲と戦犯裁判
2012.8.7
         
@ 何故停戦協定が出来なかったのか

 日清戦争、日露戦争、第一次大戦では停戦協定が出来たし、満州事変でも日支事変でも現地停戦協定はいくつも出来た。何故太平洋戦争ではできなかったのか。
 日支事変では停戦協定が出来かけたのに、近衛首相が1938年1月「国民政府を相手にせず」と声明を出すものだから、停戦協定の相手をなくしてしまった。その後北京と南京に傀儡政府を作って停戦協定を締結したものの、傀儡政府だから実効支配力がない。何の役にも立たなかった。
 中華民国相手の戦争に成算もないのに、英米相手に開戦し太平洋全域で戦争を拡大させたが、この戦争に勝てる、或いは最低負けないと予想した軍人達の脳みその程度が知れる。
 間違いは改めれば済むのに、停戦のきっかけを失い、一勝してから停戦と決めて戦うが、ミッドウェイ以来一つの勝ち星もなく全土を焼かれることになった。どうしたら停戦協定が出来たかを考えたい。
 開戦前に模擬戦闘演習が何度も為されたが、全部日本の敗戦の結論が出ている。それなのに開戦したということは勝機を信じた、死中に活を求める式だったのであり、科学的でなかった。戦争とは軍事力・経済力の科学的検討により予測が可能である。日本軍にはその態度がなかった。
 戦前の経済統計によると、日米のGDP比率は12.7倍である。

生産力  艦艇4.5倍 飛行機6倍 自動車450倍 アルミ6倍 鉄鋼10倍
保有量  鉄鋼20倍  石油100倍 石炭10倍  電力6倍

 勝てるはずがないのである。

 日本が開戦した後、直ぐにドイツが対米宣戦をしている。日独伊三国同盟の当然の結果と思われがちであるが、そうではない。
 三国同盟は一の国が他国から攻撃されたとき相互援助するという内容であり、日本がアメリカから攻撃された場合であって、日本がアメリカを攻撃した場合については規定していないのである。だからヒトラーは真珠湾攻撃があっても対米宣戦をする義務はない。しかし、側近達の恐怖をよそにヒトラーは対米開戦を決意した。アメリカは中立法を改正してイギリスへの武器援助を本格化させており、アメリカの参戦は第一次大戦と同じく不可避であると予想できた。だから米軍を太平洋に拘束することに利があると信じたのである。
 昭和16年12月11日三国は単独不講和協定を締結する。これは単独で戦線から離脱しないことを約束するのであり、昭和18年9月イタリアのバドリオ政権が降伏したとき、日独は裏切り者とさんざん罵ったのである。
 では、英米ソはどうしていたか。もっと恐ろしい協定を結んでいた。「無条件降伏以外の講和はしない」というものである。条件付きの停戦協定をすると、チキンだと罵りを受けるのである。これはヤルタでもカイロでも確認されている。特にスターリンのこだわりが強かった。戦後の領土・権益の奪取のためには日独の無条件降伏が絶対必要であったのである。大戦中の1942年11月米軍はフランス軍ダルカン大将と北アフリカで休戦協定を結んだが、スターリンの無断休戦との非難に窮したルーズベルト大統領は1943年1月カサブランカ会談で「無条件降伏以外に選択肢はありえない」と発言し、その場にいたチャーチルを呆然とさせた。ルーズベルト大統領は強い大統領を演出したかったのである。チャーチルが懸念したとおり、この発言はドイツの反発心を強化させるだけであった。ヒトラーは国民に勝利か死かと演説したのである。これから、法なし、交渉なし、何でもありのデスマッチ勝負になっていった。
 スターリンは英米独の単独休戦と独軍のソ連への一斉攻撃を悪夢のように恐れており、ノルマンディ上陸作戦を何度も何度も催促していたのである。英米はドイツとの単独停戦をやれば良かったのである。第二次大戦の失敗はソ連を強国にさせ過ぎたことにある。
 戦争に於いて軍人政治家は一番チキンと呼ばれることを嫌う。この心理状態が戦争を長期化させ犠牲者を続出させるのである。
 英米ソは無条件降伏しか受けないと言っているのだから、日本が停戦交渉しても無駄だと結論するのは早い。一方的停戦という手もある。
 ならば、いつすべきであったか。保阪正康氏によると、ミッドウェイ敗北時と言われる。しかし昭和17年6月は太平洋全域を占領した時期で空母4隻喪失しただけでは停戦できないであろう。