歴史評論9−23  名古屋空襲と戦犯裁判
2012.9.25
         
次に良いのは昭和18年9月のイタリア降伏時である。
 昭和18年9月3日イタリアのバドリオ政権は無条件降伏し、日本は東京駐在の伊大使館員を抑留する。その後幽閉されていたムッソリーニは独軍に救出され9月23日北イタリアにファシスト共和国を樹立して戦争継続を宣言する。日本政府は抑留していたイタリア大使館員50人にどちらの政府に忠誠を誓うかと質問すると、2人だけムッソリーニへの忠誠を誓い、二人を解放したが、48人は忠誠を断り抑留の続行となった。48対2というのが国際世論なのである。これを直視しておれば、ドイツの命運は読めたはずでありこの時停戦を決意すべきであった。 しかし陸軍はまだ負けてはおらんと反対するであろう。この頃シンガポールやラングーンでは日本から芸者を呼んで陸海軍将官が宴会を重ねて気炎を上げ、東条英機首相は陸相・参謀総長を兼任し独裁権力を行使し憲兵隊を治安維持に用いていたのであるから、この時期の停戦は到底無理である。
 良いのは、昭和19年7月のインパール・サイパン陥落の時である。陸軍も海軍も完敗し制海権を失い、ラバウル・トラックからビルマまで全軍が遊軍化し、米軍は思うところに兵力を集中できた。日本軍が1万人駐屯しておれば10万人で侵攻すればよいのである。本土決戦をすると言っても最強部隊は中国とフィリピンにおり呼び戻すこともできない。東条英機首相が政権を投げ出したこの時期に和平派が単独停戦作戦を発動すべきであった。

 一方的停戦と言っても、相手が乗らなければなんともならない。
 日本は声明を発表する。
「日本軍は0月0日を以て停戦し、全占領地から撤兵する。この期間は半年を超えることはない。日本軍は新たに攻撃作戦を行うことはないが、攻撃された場合のみ防御を行う。連合国の捕虜及び抑留者は本日以降天皇のゲストとして待遇され占領地から東京へ送られ、天皇の謁見の後、母国に送還される。講和の条件について協議する為、外交使節を中立国へ派遣する。本日以降戦死する者は無駄死にとなる。」
 捕虜を人質にして撤兵を行うのだ。
 チキンと言われたくない者は追撃戦を声高に叫ぶであろう。しかしその追撃戦の都度、東京ローズが溺死した捕虜の氏名を読み上げ続けることである。昭和19年7月なら、まだレイテ沖海戦で沈むこととなる空母瑞鶴ら4隻が健在である。南方や中国からの引き揚げ作戦は相当の犠牲者を伴うが、多数の兵員と武器を日本へ持ち帰る事が出来るであろう。
 講和条件を協議するときでも日本本土をハリネズミにしておれば米英から譲歩を引き出すことも可能である。
 国共内戦に備えるのに忙しい蒋介石は停戦に大いに乗り気になるであろう。重慶政府と南京政府を反共統一の名の下に合流させ日本軍義勇兵と重砲を残してやれば蒋介石は喜ぶであろう。特に蒋介石に対しては天皇が特使を派遣し「全中国からの撤兵と蒋介石仲介による世界講和」を提案すれば、「暴には恩を以てす」と言った蒋介石は大人の気構えを示すであろう。
 ビルマ・インドネシアでは小火器を独立軍の為に贈与し義勇軍も残してやればアジア解放の役に立つ。植民地復活を謀る英と蘭はこれには困るであろう。早く植民地へ英・蘭軍を派遣しないと独立軍が成長してしまうが、直ぐに軍を用意できない。特にオランダは独軍占領下で動きが取れない。日本軍の半年以内の撤兵反対というのが真意となる。
 スターリンは思惑が外れて怒り狂うであろう。国際共産党の世界戦略は日本軍と蒋介石軍を共に戦わせて疲弊させ中国共産党の勝利を確保することにある。スターリンは追撃戦を主張するであろうが、しかし彼はまだ対日戦の当事者ではないから迫力に欠く。東京ローズが読み上げる溺死捕虜の氏名を聞いて泣くアメリカの肉親たちの声をルーズベルト大統領は無視できなくなるであろう。