歴史評論9−25   名古屋空襲と戦犯裁判
2012.10.9
         
日本最古の捕虜

 ルパング島の小野田寛郎少尉は昭和49年に帰国したから、29年振りであった。勿論彼は最後まで戦っていたから捕虜生活29年ということではない。シベリア抑留者の中で関東軍将官は反ソ罪状で懲役30年の判決を受けていたが、日ソ国交回復後昭和35年には帰国しているから、捕虜生活15年ということであった。
 第二次大戦で最長の捕虜はナチスドイツの副総統ルドルフ・ヘスである。彼は1941年5月独ソ戦直前に単身英国へ戦闘機で飛行し英独講和を試みた。しかしヒットラーもチャーチルも狂人扱いにして相手にしなかった。戦後ニュールンベルグ裁判で終身刑を受けた彼はベルリンの刑務所に収容された。何度か恩赦の話が持ち上がったが、ソ連がいつも反対して流れた。他の囚人が続々と釈放されてゆき、彼一人が残り、ベルリンの捕虜収容所は彼一人の専用となった。アメリカは西ベルリンにある捕虜収容所を対ソ対策のために閉鎖することができず、彼は世界で一番経費のかかる囚人と呼ばれた。1987年彼は寂しく首つり自殺したが、93歳であった。46年間の捕虜生活だった訳である。

 さて、日本最古の捕虜は誰か、ということを研究してみた。
 後漢書東夷伝には、「107年倭国王帥升ら後漢王朝に朝貢し生口160人を献ずる」とある。生口とは奴隷のことであるが、戦争捕虜とは限定できない。捕虜とは戦闘員のことであり、非戦闘員は被抑留者という。太平洋戦争でアメリカ西海岸の日本人は強制収容所へ送られたが、これらは被抑留者であって捕虜ではない。
 生口160人とは大きな数である。大使ら使節要員、乗組員と護衛兵を足せば300人を超える筈である。船10艘の船団を組んだと思われる。この時代を思うと想像以上の規模である。ソ連は関東軍兵士を無蓋貨車に100人詰め込み機関銃を構えた5人の警備兵でシベリアまで護送したが、剣・鉾・弓矢しかない時代である。160人の反乱を抑圧しうる為には50人〜100人の護衛兵を必要とする筈である。 
 朝貢する品として、倭国の特産物を選べばよいのに、何故生口160人としたか。倭国は征服王朝としての存在感を誇示したかったのである。生口160人に変わった服装をさせ奇妙な入れ墨をさせるなどして見るからに異民族という格好をさせて倭国が征服王朝・強力な武力国家であるとの印象を後漢王朝に与えようとしたのである。
 最近の戦争で獲得した生口ならば、それは捕虜か被抑留者である。しかし何代の前の戦争での捕虜・被抑留者の子孫ならば、それは階級としての奴隷である。日本にも奴隷制が存在したということなのであるが、ローマの奴隷制とは大分異なる。倭国では部族戦争が主であり、異民族戦争と言えるものは、多分対蝦夷・熊襲であった。征服する他民族が少ないから奴隷階級の供給源が限定され、日本では奴隷制が一般化することはなかった。
 後漢王朝へ朝貢された生口160人が捕虜、被抑留者、奴隷なのか判然とせず、この生口160人を戦争捕虜と断言できる確証はない。

 その後、魏志倭人伝によると、239年卑弥呼が大夫難升米を魏国へ遣わし、親魏倭王の称号を下賜され、240年魏国の使節が来日し銅鏡100枚を下賜している。243年倭国から生口・倭錦を献上している。
 247年卑弥呼が魏王に対して狗奴国の男王卑弥弓呼との交戦を告げ支援を求め、魏王は張政を倭国へ派遣した。魏国は支援軍を派兵したのではなく、張政一人を派遣して倭国兵士に檄文をもって告喩し督戦せしめたのである。
 248年卑弥呼死す。男王を立てるが国中服さず、誅殺しあい千人余殺され、卑弥呼の宗女台与が女王となり国中安定する。台与は魏使張政を送還し魏王に男女生口30人を献上した。
 生口160人以後に2回生口が献上されていることが中国史に記録されているが、生口の意味は同じであり、いずれも捕虜とは確証がない。

 その後266年倭王が西晋武帝に貢献したこと、
 369年倭・百済連合軍が新羅を破ったこと、
 400年高句麗の好太王が新羅へ5万の大軍を送り倭国軍を破ったこと、 421年から478年倭王が宋に遣使していること、
 515年倭国が朝鮮へ出兵したが敗退していること、
 527年筑紫磐井の反乱が鎮圧され、以降朝鮮への出兵が繰り返されていること、
 630年唐に対する遣唐使の開始
 645年大化の改新
 663年白村江の大敗、と記録されている。

 白村江の戦争は、百済・倭国の連合軍対唐・新羅の連合軍の戦いであり、朝鮮南部まで追い詰められた百済・倭国連合軍が大敗し大量の亡命者が来日することとなった。
 その構造は朝鮮戦争に、断末魔は英仏軍のダンケルクの脱出に似ている。日本へ脱出できなかった倭軍兵士はどうなったのか。殺戮されたり捕虜になったりしたのである。後退する日本兵、百済王家や民衆を日本へ亡命させる為の楯になり帰国できなかった殿軍の倭国兵士達がいたであろう。ダンケルク殿の仏軍と同じであり、ダンケルク脱出の楯となって全員独軍の捕虜となった。

 日本書紀によると、筑紫国大伴部博麻(オオトモベノハカマ)は筑紫国薩野馬に従い軍丁として出征したが唐軍の捕虜となった。664年唐の計略を日本へ知らそうとしたが衣類がない。大伴部は主人である薩野馬らの帰国資金にするため、我が身を奴に売ってくれと頼み、薩野馬は涙を流して受け入れた。それから30年奴として異人に使役されて帰国した。 671年対馬に大船が到来し、唐人使者を伴う倭人数人が官家へ出頭した。通訳僧侶道久・筑紫国薩野馬・韓嶋勝娑婆(カラシマノスグリサバ)・布師首磐(ヌノシノオビトイワ)がいた。道久の話では、船団は47隻、唐使郭務綜(カクムソウ)の率いる600人、送使沙宅孫登(サタクソントウ)の率いる1400人、合計2000人で、百済からの避難民もいる。大船団が通報なく筑紫にあらわれば戦争になるので唐使は予め道久をして通報した。
 要するに、これは唐が仕立てた捕虜・被抑留者・その他亡命者の送還船なのであった。
 684年遣唐留学生白猪史宝然(シライノフヒトホネ)同土師宿禰甥(ハジノスクネオイ)は新羅経由で唐より帰国したとき、同行者として猪使連子首(イツカイノムラジコビト)筑紫三宅連得許(ツクシノミヤケノムラジ)という捕虜がいた。
 702年遣唐使長官粟田朝臣真人(アワタノアソンノマヒト)が唐の首都長安に行き、唐に従い律令を完成させたことを披露し、則天武后の宴に出ると、奴の中に数人の面差しの異なる者がいた。調べると、讃岐国錦部刀良(ニシゴリベノトラ)陸奥国壬生五百足(ミブノイオタリ)筑紫国許勢部形見(コセベノカタミ)であった。唐の捕虜となり身を没して官戸となり40年間酷使されていた。粟田は釈放を請願して許され同行して707年帰国した。
 日唐関係は630年から遣唐使派遣で始まり、白村江の戦いで戦争状態となっていたが、講和条約締結国交回復後捕虜の釈放が五月雨式になされ、最後の捕虜の帰国が707年になったのである。663年の白村江の戦い以来44年が経過していた。世界史的にも最長記録である。
 注目することは、陸奥国壬生五百足(ミブノイオタリ)である。蝦夷ではないか。五百足とはむかでのように毛むくじゃらの男との意味であり、アイヌの風貌を想像させる。
 658年阿倍比羅夫は秋田・北海道へ蝦夷退治の遠征をし、この時蝦夷の族長は降伏して朝貢している。659年遣唐使は蝦夷男女二人を連れて唐の高宗に謁見している。唐の記録では、髭が長く弓矢に上手、五穀はなく獣の肉を食う、毎年倭国に朝貢する、蝦夷の身体や顔かたちが異形なので高宗が興味を抱いた、とある。倭国は唐に朝貢しているが、倭国にも朝貢する被支配国家があるとの政治的アピールの為に遣唐使が蝦夷人を連れて行ったのである。
 陸奥国壬生五百足(ミブノイオタリ)が阿部比羅夫に降伏した蝦夷人であれば、降伏してから徴兵され百済派遣軍に編入された可能性がある。そうならば、658年から707年まで捕虜生活したということとなり、実に49年間となり、46年間のルドルフ・ヘスを超える。陸奥の故郷まで無事帰り得たであろうか。万感いかほどであったであろうか。
 日本霊異記によると、伊予国越智郡の大領の話 祖父越智直(オチノアタイ)は白村江の戦いで捕虜になった8人の一人、観音様を拝み松の木を刻み船を造って筑紫まで帰国した。天皇のお召しがあり越智郡を賜った。観音様を伽藍に安置して拝んでいる。孫の記憶なのであるが、日本霊異記は平安初期の作だから9世紀である。白村江の663年から200年間日本人はこのように戦争と捕虜の記憶を引き継いできたのである。
 太平洋戦争と捕虜の記憶は、シベリア捕虜、米兵処刑、戦犯裁判として長らく日本人の記憶に留まるであろう。