歴史評論9−26   名古屋空襲と戦犯裁判
2012.10.30
         
陸奥国壬生五百足(ミブノイオタリ)は浦島太郎ではないか。
 浦島太郎伝説がある。子供向けのお伽話である。
 ストーリーは
 亀を助けたお礼に、乙姫様から竜宮城に招待され
 鯛や平目の舞い踊り、1日が1年
 帰国したいと言うと、乙姫様は残念がって玉手箱を差し出し、開けてはならないと謎掛けする。
 帰国すると、300年たっており、知る人もいない。落胆して玉手箱を開けてしまうと、白煙が立ち上り、老人に変わってしまった。

 お伽話は子供の教育向けなのであるが、浦島太郎の話は奇妙である。亀を助けたのに老人にさせられてしまい、家族にも再会できない。一寸法師や桃太郎の話は、目出度し目出度しと締めくくられ、出世や勧善懲悪の教訓話として理解できるが、浦島太郎の話は理解しにくい。 こうした話はイソップ物語にもグリム童話にもある。
 池の蛙たちが神様に「王様が欲しい」と願い事して鶴の王様がやってきたら、鶴の王様は蛙たちを皆食べてしまった。
 王様と女王様がいましたが、王様の母上が女王様に意地悪をするので王様は母上を火炙りの刑に処し、その後仲良く暮らしましたとな。
 このような話は子供向きの教育話として相応しくない。しかし何故こんな話が言い伝えられてきたのか。
 お伽話、童話、寓話というのは、子供への教育話という面があると同時に歴史的事実の伝承の面がある。
 昔、人民を虐殺した王がいたこと、母上を焼き殺した息子の王がいたこと、暴君伝説を語り継いでいるのである。
 
 亀を助けた・・・百済救援戦争に従軍したこと
 乙姫様・・・百済の王女
 鯛や平目の舞い踊り・・・唐の長安はシルクロードの端、象・孔雀  ・虎・駱駝が到来し、青い眼・金髪のベルシャ人のサーカス団が  来て舞い踊っていたのを陸奥国壬生五百足(ミブノイオタリ)も見たであろう。
 1日1年・・・捕虜生活はかくのごとし。
 玉手箱・・・密封命令
 
 陸奥国壬生五百足(ミブノイオタリ)が帰国し、多分朝廷に召し出されたであろう。褒美が与えられ、所望するものは何かと問われ、故郷の陸奥に帰国したいと言ったであろう。望みはかなえられ、護衛隊の警護のもと陸奥国に旅立つこととなった。その時玉手箱が下賜され「畿内では開けるべからず。東国に至りて開けよ」と命じられる。
 都を去り、関ヶ原を越え、中山道の木曽福島寝覚ノ床に至り、もうここならば良いであろうと玉手箱を開くと、死を賜うと書いてある紙片があった。護衛隊長は壬生五百足(ミブノイオタリ)の背後に回り剣を振るった。寝覚ノ床には浦島伝説が伝わっている。何故こんな山国に海の話が残っているのか。不思議である。陸奥へ帰る途中としか考えられない。
 何故、彼は処刑されたか。秘密を知っていたからであろう。
 その時の大臣が百済で真っ先に敵前逃亡をしたという事実を知っていたとか、或いは彼は百済の王女乙姫と出来ていて、乙姫は日本へ亡命して一子を産んだ。その子は長じて大臣となり、その娘が天皇の后となった。彼を生かせておけば天皇家の血筋に蝦夷が混ざることが曝させる。乙姫と大臣は密封処刑命令の玉手箱を渡したのである。
794年開府の平安京の桓武天皇の生母が百済人であることは続日本紀に書いてある。それ以前に於いても渡来人が朝廷に后として入ったことは大いにあり得る。卑弥呼以来百済人が帰化して文物を伝えたことは良く知られているが、それだけではない。百済は大和朝廷の実家、在所のようなものだった。古来日本には縄文人しかいなかった。途中から朝鮮の弥生人が渡来し混血を深めていった。縄文人はやがて北方に蝦夷、南方に熊襲と追い詰められ、大和朝廷に服属するようになった。朝鮮人の渡来は一時になされたものではない。一時になされたものならば日本語は消滅したはずである。朝鮮人の渡来は断続的になされ、渡来した朝鮮人は日本語を習得し朝鮮語を忘れた。しかし、大和朝廷の人々は実家・在所が朝鮮、取り分け百済にあることを忘れはしなかった。豪州人やカナダ人が英国旗と女王に向かって敬礼するのと同じである。 369年百済と新羅が戦い、日本軍は救援に出動し、400年高句麗が攻め込むと日本軍は救援軍を送ったことは、高句麗の好太王碑に刻されている。
 このように遅くとも369年から日本は実家の百済救援戦争に参戦していた。
 私が浦島太郎が百済救援戦争の兵士で捕虜の帰還者ではないかと想像するに至ったのは、鎌倉時代の歴史書水鏡に
 825年浦島帰す也。持ちたる玉手箱を開けたり。然らば紫の雲西様に昇りて躰は忽に翁となりぬ。雄略天皇の御代に失いて今年は347年と言いしに帰り来れりし也
 と書いてあったからである。
 825年から347年を引くと、478年である。この頃何があったか。
 475年高句麗は百済の首都漢城を陥落させ、百済は半島南部に首都移転し抗戦を続ける。
 478年雄略天皇は宋へ使節を送り、高句麗の無道を非難し朝鮮出兵を通告し宋から位を賜らんことを上奏し、宋は雄略天皇に安東大将軍の位を与えた。
 479年雄略天皇は日本に滞在していた百済の王子に護衛兵500人を付けて帰国させた。雄略天皇は稲荷山古墳出土の鉄剣の銘文「471年銘の若武ワカタケル大王」のことである。宋書は倭王武と言う。
 478年とはこのように日本が百済救援軍を派遣した前後である。
 水鏡の伝える浦島太郎伝説には百済救援軍との関わりが窺われるのである。
 勿論、陸奥国壬生五百足(ミブノイオタリ)の白村江の戦い663年とは約200年異なる。369年から663年まで300年続いた百済救援戦争、それはフランスに領土権を持つ英国が中世の長い期間掛けてフランスと戦い、最後はフランスから撤退していったのと似ている。
浦島太郎は陸奥国壬生五百足(ミブノイオタリ)ではないかも知れない。しかし300年続いた百済救援戦争の中で捕虜になり長年月を経過して帰国した捕虜が昔話を語ったことが浦島太郎伝説として伝承されたことを想像するのである。
 これは嘘です。真に受けないでください。浦島太郎が戦争捕虜だと言うのは私が初めてなのです。
 くだらない、という言葉がある。私は、「もう百済はないのだ」と嘆息する意味と思う。血脈の実家・在所、文化・文物の伝来地、母国と言っても良い。それが新羅の征服に滅ぼされ、もうないのだ、という感慨を示すものであろう。くだらないの語源としては、「川を下る。下らない」というのが定説であるが、この定説は中世の河川交通用語から来ているのだが、ならば下るや上るは何の意味になるか、不明であり、定説には疑問がある。「くだらない」がいつから用語として用いられたのかが検討の対象となるが、言語学の領域であり、もう私には手が届かない。
 明治から昭和、朝鮮への進出熱が蔓延したが、あれは弥生人の先祖帰りのような気がしてならない。