歴史評論9−5   名古屋空襲と戦犯裁判
2011.11.30
         
1907年陸戦法規と1923年空戦規則との違いは何か。

 戦争の目的は昔から敵国軍隊の弱体化である。そして敵国の占領は結果である。敵国兵士や人民を殺傷することではなかった。古く1868年、そう明治維新の年に出来たサンクトペテルブルグ宣言では
「文明の進歩は、戦争の惨禍を出来る限り軽減する効果をもたらさなければならない。戦時に於いて諸国が達成しようと努める唯一の正当な目的は敵国軍隊の弱体化である。すでに戦闘能力を奪われた者の苦痛を無益に増大させ、又はその死を避けがたいものにする兵器の使用はこの目的の範囲を超える。それゆえ、このような兵器の使用は人道の法に反する。以上を考慮して、重量400グラム未満の爆発性または燃焼性の発射物を相互に放棄する」とされている。この戦争の目的がその後第一次大戦の総力戦から変貌を始めたのである。
 弾丸の中に火薬とか燃焼物を詰め込んで人体に命中すると炸裂し、普通の弾丸ならば怪我で済むものを死に至らしめてしまう弾丸を禁止したのである。戦争の目的は敵軍隊の弱体化であって決して敵兵士及び非戦闘員の殺害ではない、という思想が明治維新の年の1968年に宣言された事実を記憶すべきである。それなのに歴史は進歩していない、むしろ退化しているのである。

 陸戦法規は防備都市と無防備都市の観念、空戦規則は軍事目標主義を採用していることである。
 防備都市とは軍隊により防備されている都市を言う。軍隊が駐在していなければ無防備都市となり、無防備都市に対しては砲撃が禁止される。
 パリでもマドリードでもイスタンブールでも、都市は城壁で囲まれた旧市街と周辺の新市街によって成り立ち、併せて行政単位の市を構成する。パリ旧市街に軍隊が駐屯しておれば、攻撃軍はパリ市全体に砲撃が可能である。パリが無防備都市宣言をして砲撃を免れたいと決意したときはどうすべきか。
 大統領は当然最高軍司令官を兼ねているから、軍隊を引き連れてパリ市を脱出しなければならない。パリ文民市長が無防備都市宣言を攻撃軍に通知して開城をする。パリ文民市長に許されることは文民警察官にピストルの武装をさせること位であり、軍隊の残留は固く禁止される。
 実際では、1940年パリはドイツに攻撃され、ペタン将軍はパリの無防備都市宣言をし、アメリカとスイスが保証国となり、ヒトラーも受諾し、パリは戦禍から免れた。
 陸戦法規では、防備都市への砲撃が許される。だからパリ市の一部地域に軍隊の駐屯があれば、パリ市全体を砲撃できる。市民の住宅地域に対する砲撃は禁止されていない。
ただ、陸戦法規27条「攻囲及び砲撃を為すに当たりては、宗教・技芸・学術及び慈善の用に供せらる建物・歴史上の記念建造物・病院・傷病者の収容所は同時に軍事上の目的に使用せられざる限り成るべく損害を免れれしむる為必要なる一切の手段をとる」
 と規定されているから、記念建造物・病院・傷病者収容所への砲撃が禁止されているが、市民の住宅への砲撃は禁止されていない。
 何故、陸戦法規がこのような規定の仕方をしているかと言うことであるが、陸戦の砲撃の目的は敵軍隊の駐屯地を占領して敵軍を駆逐することにあるからである。
 かくして陸戦法規の思想は、軍隊の駐屯する防備都市ならば市民の住宅地へ砲撃が許されるということだ。