歴史評論9−6   名古屋空襲と戦犯裁判
2011.12.14
         
では、空戦規則の思想は何か。軍事目標主義を採用している。
 22条 普通人民を威嚇し軍事的性質を有せざる私有財産を破壊若しくは毀損し又は非戦闘員を損傷することを目的とする空中爆撃は禁止する
 24条 空爆は軍事的目標即ち其の破壊が明瞭なる軍事的利益を交戦者に与ふるが如き目標に対して行われたる場合に限り適法とする
 陸戦法規とは異なり、明瞭に市民の住宅地への空襲を否定している。

 従って、空戦規則では、軍隊駐屯の有無、即ち防備都市であろうが無防備都市であろうが、住宅地への空襲は禁止なのである。
 何故陸戦法規と空戦規則とで異なる規制をしているのか。それは1907年と1923年との間に於ける航空機の発達と戦略空軍思想の誕生にある。空襲では単に敵国の軍事目標を破壊するすることを目的とし、占領を目的としない。中国大陸奥地の成都に軍需工場があるとする。日本軍は奥地過ぎて占領の意思はないが軍需工場は破壊したいと企図するとき、陸戦法規に従えば成都に軍隊が駐屯していなければ、無防備都市であるから砲撃(空襲)はなしえない。しかし空戦規則に従えば軍隊の駐屯の有無を問わず軍需工場への空襲は可能となる。

 陸戦では軍隊と軍隊とが占領地の争奪を目的として戦闘行為をするものであり軍事目標の破壊は主目的ではなく結果であった。
 軍事目標主義の空戦規則が住宅地への砲撃を許容する陸戦法規より人道的で進歩しているようにも見える。そうでもあるまい。砲撃と空襲の技術的違いによることも多い。砲撃は観測兵の指揮の下に実施され、さほど外れることもない。仮に外れたら観測兵が照準訂正を命令してくる。あっちがパリの方向だということで闇雲に射撃する砲兵はいない。苦労して運搬してきた重たい砲弾を大事に使いたいのである。砲兵とて好きで住宅地を砲撃はしない。占領後の自分たちの寝る場所がなくなるからである。陸戦では占領と占領政策ということがついて回り、自分たちの宿舎とか収容所とか敵国資産の没収とか民生の安定とかを考えておかなければならないのである。特に水道施設と貯水池・発電所に対しては砲撃による破壊を絶対に避けなければならないものであった。

 空戦では陸戦でのこのような考えは不要となる。占領の目的がないから水道施設を投弾破壊しても敵国が困るだけで自分は何も困らない。死者がいくら沢山出ても自分たちは占領しないから屍体の始末・衛生保全に注意する必要がない。第一次大戦では野となれ山となれ式に空襲が行われたのである。これの反省の元に1923年空戦規則が制定されたのである。このように陸戦での防備・無防備都市思想と空戦での軍事目標主義は占領という概念の違いから別個に産まれたのである。
通常、野砲の場合、馬車で運搬してきた50〜150s砲弾を10〜20q離れた目標に向かって観測兵の指示を元に発射するが、砲身が加熱するから連続発射は不可能である。B29の場合、7200s爆弾を一度に投弾する。燃料・武装を節約すれば10d爆弾が可能である。1800sなら4個、226sなら40個である。軍艦に命中させようとすれば高度500メートルまで急降下して肉薄しなければ当たらない。
 空襲では、上空何千米から投弾するから風に流されることが多く広範囲にばらまかれる。防備都市の目標に落としたつもりでも隣の無防備都市に落ちることなどありうることであった。正確性は砲撃より難しいのである。だから空戦規則では軍事目標主義を採用し、軍事目標以外への空襲を禁止し特に住宅地への爆撃を禁止したのである。
 要するに、空襲したいときは軍事目標を正確に見定めて低空に下りてきて一撃せよ。爆弾は風に流されやすいから、住宅地へ誤爆しないよう注意せよ、ということを空戦規則は規定したのである。

 このように、1907年陸戦法規と1923年空戦規則との違いは、中間に第一次大戦が介在したことにある。第一次大戦は軍隊と軍隊との軍事的衝突→敵国の占領というこれまでの戦争形態とは大きく異なった。総力戦である。敵国の軍事的能力を喪失させるため経済力・生産力に対する攻撃が必要とされた。前線での軍隊の活躍ではなく、工場・農場での生産力の大小が勝敗の分かれ道となった。前線ではなく後方の工業地帯への爆撃、海外からの輸送船への攻撃がなされ、更には住宅地への組織的無差別爆撃により市民の戦争意思を衰微させようとし、ドイツは危機に瀕した。1923年空戦規則が生まれたのは、第一次大戦の後方の都市の残骸と流浪する市民の姿を直視してのことである。
 第二次大戦で英米は陸戦法規のみを適用し空戦規則を排除しているが、歴史の進歩に反するものであった。