歴史評論9−7   名古屋空襲と戦犯裁判
2011.12.27
         
4、1907年ハーグ陸戦法規が成立した後の第一次大戦はどうであったか。

 30キロも飛ぶ長距離砲が登場し、パリ砲撃とかドーバー海峡を越えるロンドン砲撃がなされたが、これだけ遠く飛ぶと風に流され目標を外れること多く非戦闘員の犠牲が続出した。戦艦大和の46センチ主砲は射程42キロであり、レーダーのない時代には観測機を飛ばさないと実効射撃が出来ない。長距離砲の場合、無差別砲撃になってしまい勝ちである。新兵器のドイツのツッエペリン飛行船がロンドン空襲をしたが、でかすぎて対空機関銃で容易に撃ち落とされ、ドイツは飛行船爆撃作戦を直ぐに中止してしまい、双方は航空機による爆撃作戦に変更した。当時の航空機は今で言う軽爆撃機程度で爆弾搭載量も少なく都市壊滅をさせることは出来なかった。しかし航空機の発達は予見され、その為に1923年ハーグ空戦規則が採択され、来るべき第二次大戦での無差別爆撃を予防しようと図ったのである。

5、第二次大戦ではどうであったか。

 ハーグ空戦規則が反故にされ、都市は壊滅状態に陥ったが、その責任はヒトラーよりチャーチルとルーズベルト大統領にある。
 1939年9月ドイツのポーランド侵略を契機にして第二次大戦が勃発した。ヒトラーはポーランドに侵攻しても英仏は傍観するものと予測していた。1938年ミュンヘン会談で英仏はヒトラーへチェコスロバキアのズデーデン地方の割譲を認めたが、同じ事になると思っていた。ヒトラーはポーランドを侵略し、ポーランドをソ連と分け合った後、東欧からソ連へ攻め込む積もりであった。ヒトラーにとって英仏との戦争は予定外なのである。ましてアメリカとの戦争は第一次大戦の教訓から絶対回避しなければならないと信じていた。英仏からの宣戦布告を聞いてヒトラーは考え込んだと思われる。東へ行きたいのに西から戦争を起こされたと。

 半年間どちらも動かないという奇妙な戦争のあと、ヒトラーは1940年4月デンマーク次いでフランスを攻撃し、西部戦線が本格化した。ヒトラーは5月14日ロッテルダムを空爆して900人を殺し、パリは6月14日早くも陥落した。フランスの降伏後ヒトラーはチャーチルとの停戦を期待していたが、チャーチルの抗戦意思は硬くアメリカの軍事支援を得て徹底的に戦うこととし、ヒトラーの期待は実現しなかった。ヒトラーの真の目標は東欧へのドイツ勢力圏の拡大とソ連共産主義の絶滅であった。西へは領土的野心はなく、英仏とは共存するつもりであったのだ。チャーチルはヒトラーを真の敵と、敵の敵は味方と考え、スターリンと手を結んだ。ヒトラーは英仏と共同してスターリンを打倒したかったのに、両者の思惑はすれ違いのままに終わった。戦後チャーチルはこの誤りに気付き「鉄のカーテン」演説をしたが、東欧と中国は共産主義の支配に服した。チャーチルの思い違いが正されるのは1989年のベルリンの壁の崩壊を待たなければならなかった。この間どれだけ多くの人が共産主義の犠牲になったであろうか。
 ヒトラーは1940年8月8日から英国本土空襲を開始したが、ロンドンへの空爆は慎重に控えていた。しかし8月24日ドイツ機がロンドンを誤爆すると、チャーチルは敵愾心を爆発させベルリン空爆を命令した。かくして頭に血の上った二人が報復の応酬を繰り返し、空戦法規の存在さえ忘れて何でもありの戦争に突入したのである。
 報復に激高したヒトラーは英国本土上陸を企図して航空機を大量に投入して英国を攻撃し、チャーチルも航空機を総動員してバトルオブブリテンを戦うが、ドイツ空軍の方が負けてしまい、9月7日ヒトラーは英国本土上陸を断念し、ここで目が醒めた。ドイツ第三帝国の目的は英仏への領土的野心ではなく、東欧をドイツ圏に奪い込む領土的野心そして共産主義を打倒しウクライナからモスクワまでに親独ナチス政府を樹立することであった。
 ヒトラーは西には興味がなかった。だから打倒したフランスに対して寛大であった。北半分を占領しただけで、ビシーのペタン政府を容認した。ヒトラーは後は英国と停戦協定を締結し安心して共産主義征服をしたかったのである。
 ロンドン空爆とベルリン空爆の応酬が続くなか、ドイツの敗勢は進み、1942年5月ケルン空襲死者400人、1943年7月ハンブルグ空襲死者3万人、1945年2月ドレスデン空襲死者135,000人とドイツの一方的負け試合となっていった。
 1943年8月イタリアのバドリオ政権は停戦を申し入れ、ローマの無防備都市宣言をしたが、英米は空爆を続行した。英米軍は「無条件降伏以外認めない。それまで攻撃を続行する」と言う態度であり、停戦交渉自体の受入を拒絶したのである。陸戦法規によれば、無防備都市宣言があれば攻撃は禁止されるのに、英米軍は明らかに陸戦法規違反をしたのだ。ハドリオ政権は堪りかねて無条件降伏したが、この間に戦死した兵士や民間人は気の毒であった。無条件降伏の強制は無用の犠牲者を生むのである。
 ヒトラーは1944年6月から最後の報復としてV−1、V−2号ロケットを発射し9000人を殺したが、焼け石の水であった。
 このようにロンドン誤爆から始まった報復の応酬であったが、英米の方がドイツより過酷に空戦規則を犯している。この欧州での無差別爆撃の応酬を戦い抜いてきたアメリカのルメイが太平洋戦線に派遣されてきたのが昭和20年2月19日のことである。通常爆弾による精密爆撃・軍事目標主義者ハンセル准将から、焼夷弾による無差別爆撃信奉者、ハンブルグ空襲3万人虐殺の下手人のルメイ少将へ交代したのである。
 ルメイは太平洋戦域では無差別爆撃が実行されず、空戦規則が欧州とアジアとで異なって適用されてきた現実を見ようとせず、爆撃成果第一主義で、日本家屋は木と紙で出来ているから欧州より焼夷弾の効果が上がるとしか考えず、空戦規則への配慮を全く欠いていた。
日本は欧州戦線が無差別爆撃となっておりいずれ日本にも無差別爆撃が必至となると予想すべきであったが、何故かこれを怠った。ここに悔恨の源がある。
 チヤーチルはヒトラーの誤爆を切っ掛けに報復としての無差別爆撃に踏み切り、その動機は頭に血の上った報復であったが、実は報復を口実にした計算された無差別爆撃でもあった。