歴史評論9−8   名古屋空襲と戦犯裁判
2012.1.18
         
ここで、独軍と英米軍の空戦思想の違いを述べる。
 1919年ベルサイユ条約でドイツは空軍を禁止された。その後1922年ソ連とラパロ条約を締結し、航空機・戦車の共同開発、ユンカース飛行機工場をモスクワ近郊に建設し、闇で空軍建設に着手した。1935年ドイツは再軍備宣言をして大っぴらに飛行機生産を始めたが、1939年第二次大戦勃発まで準備が整わなかった。独空軍の主体はメッサーシュミットを代表とする戦闘機、ユンカースを代表とする軽爆撃機であった。軽爆とは双発で1000s以下の爆弾を搭載し急降下爆撃出来ることを目的とした。6000mから急降下して900mから爆弾を投下するという精密爆撃なのである。急降下して投弾してから機首を引き起こして離脱するということから当然宙返りも出来る頑丈な機体が必要とされた。独空軍は急降下爆撃の成果を信奉し、重爆の開発に取り組まなかった。
 一方英米空軍は、英国のホイットレー・ショートスターリング、米国のB17・B24に代表されるように航続距離が長く、搭載爆弾も4000〜6000sという四発重爆の開発に積極的であった。B29は欧州戦線に間に合わなかったが、7200sの爆弾を搭載できた。急降下爆撃をしない水平爆撃専門であるから頑丈な機体は必要なく、航続距離と搭載爆弾量だけが追求された。
 英機は武装が7.7o機銃×8で米機の12.7o×12と比較して弱かったので、英機は夜間爆撃、米機は昼間爆撃と分野を分けていた。
 英米空軍はこのように大戦前から精密爆撃ではなく、広範囲に敵工場地帯への絨毯爆撃を計画しており、これは戦略空軍と呼ばれた。一方独空軍は戦術空軍に留まっていた。このように英米空軍は大戦前から戦略空軍思想により重爆を整備しており、絨毯爆撃即ち無差別爆撃を目的としていたのである。
 ドイツはこの点に於いて遅れていたのである。ソ連が独軽爆の航続距離外のウラル山脈に工場を移転したのでようやく重爆の開発に着手したが結局間に合わなかった。日本もこの点に於いては全く同様であり大戦末期に4発重爆連山・富嶽を計画するも間に合わなかった。
 ドイツはV−1・V−2ロケットを1944年6月から翌3月まで9000発投弾量9000トンを打ち込むが、大戦末期のB29の500機編隊は一回の爆撃で3600トン投下しており、B29の方がいかに効果的であったかが分かる。
 このように国際法に違反する無差別爆撃は、英米空軍に於いては大戦前から計画されていたのであり、後はこれを発動する大義名分だけが待たれていたのである。チャーチルにとってヒットラーの誤爆は何よりのプレゼントであったのであり、仮に誤爆がなくてもチャーチルは無差別爆撃に踏み切っていた筈である。イギリス人はインド、南アフリカ、中国で見せたように他民族全般に対する猟師のような野蛮性を持っている。
 ヒトラーはユダヤ・スラブ民族に対して凶暴な敵意を抱いていたが、英米のアングロサクソンに対しては温和性を抱いており、それは捕虜に対する待遇に明らかである。西部戦線での捕虜は東部戦線と比較して好待遇なのであった。
 このように、欧州戦線での英米空軍は無差別爆撃を目的とする戦略空軍思想に徹していたのであり、太平洋戦線で日本都市の特性に着目した焼夷弾絨毯爆撃を採用したのは当然の成り行きであり、日本軍が欧州戦線での無差別爆撃の実態を知りながら防空に何の準備もしてこなかった責任は大きい。1945年ドイツは12,269の高射砲を配置していたが、日本はたった820であった。中国やフィリピンの外地へ輸送してしまい国内には残っていなかったのだ。