歴史評論9−9   名古屋空襲と戦犯裁判
2012.1.31
         
6、無警告雷撃の禁止

 欧州に於いて空戦規則が反故にされた経過はこの通りであったが、同じように「潜水艦の無警告雷撃の禁止」がどうなったかを考えよう。 
 1930年ロンドン海軍軍縮条約・1936年潜水艦戦闘行為議定書(日本批准済)では、「潜水艦は商船に対する行動については、水上艦船が従うべき国際法の規則に従うことを要求する。特に商船が正当に停船を要求されたときに、これに根強く拒否するか、または臨検もしくは捜索に対し積極的に抗拒する場合を除くほか、軍艦は水上艦船であるか潜水艦であるかにかかわらず、まず乗客、船員及び船舶書類を安全な場所に置くのでなければ、商船を沈没させまたは航海に堪えないものにすることができない。この規定の適用については、船の短艇は、そのときの海上および天候の状態において、陸地に近接したことまたは乗客および船員を船内に収容できる他の船舶が存在することにより乗客および船員の安全が確保されるのでなければ、安全の場所とみなされない」

 第二次大戦開戦直後の1939年9月3日ドイツ海軍は潜水艦に「通商破壊戦は捕獲規定に従え・客船への攻撃を禁ず」と指令を発している。
 ドイツ潜水艦は独航商船に対しては停船命令→船員離船後の雷撃を守ってきた。しかし英国は商船隊を組み護衛艦に護送させ、また商船も武装させるなどの対抗策を取ったので、ドイツ潜水艦はこれらに対しては無警告雷撃を行ったが、これは違法ではない。
 このようにドイツは開戦当時無警告雷撃を禁止していたが、その1939年9月3日一人の男がこれを台無しにしてしまった。U30の艦長レンプ大尉は英客船アセニア号を無警告雷撃し撃沈させてしまい、アメリカ人乗客に多数の犠牲が出たのである。レンプ大尉はアセニア号が消灯していたので仮装巡洋艦と思った、と弁解をしたが、英独から非難された。この時ヒトラーがレンプ大尉を退役させて軍法会議に掛けておればその後の海員の大量溺死という悲劇は回避できたが、ヒトラーはそうしなかった。レンプ大尉は艦長としては有能な男でありその後手柄を立て続け遂にUボートエースとなり鉄十字勲章を受けた。かくして無警告雷撃の禁止原則より手柄の数が賞賛されることとなってしまった。しかしUボートが独航する英商船に対して警告し退船させてから雷撃し救命ボートに食料を支給した例は多くある。
 アメリカ潜水艦はこのようにしなかったし、遺憾なことに日本潜水艦もしなかった。無警告で雷撃しそのまま潜水して逃げたのである。

 このように、欧州では、無差別爆撃の禁止、無警告雷撃の禁止原則が、誤爆とか錯誤により破られ、頭に血の上ったチャーチルが報復として見極めのない殺戮に走ったのである。チャーチルにもう少し知恵があればヒトラーに空戦規則遵守について呼びかけをすれば良かったのである。しかし、チャーチルもルーズベルト大統領と大戦中ヒトラーと停戦について一切話し合いの提案をせず、最初から終わりまで「無条件降伏」を固守し続けたのである。そうさせた張本人はスターリンである。スターリンは英米の対独単独講和を恐怖し、ことある度に単独講和による戦線離脱を非難し、ベルリン陥落までの戦争完遂を唱え続けた。戦争時に於いては、声の大きい者が勝つ。スターリンの戦争勝利の怒号に対して、英米は同調せざるを得ず、途中での休戦話が一切ないまま破滅の最期へ突き進んでいったのである。この間に何万人余分の人々が戦死したであろうか。チャーチルはベルリンを陥落させたらヒトラーら幹部をその場で銃殺し国際戦犯法廷など要らないと公言していたのである。ヒトラーはフランスに無条件降伏の屈服を要求しなかった。南フランスのビシー政府の存在を認めた。チャーチルがもう少し寛容であれば第二次大戦を早期に停戦させ犠牲者を少なくする事が出来たのだ。それではドイツのヒトラーのナチスが生き延びたではないか、との反論はありうる。しかしドイツ国防軍と国民は賢明であり、いずれかの時期にヒトラーを打倒していた筈である。
 大西洋で無警告雷撃禁止原則が守られたり破られたりしているとき、アメリカが太平洋で大っぴらに破ってしまった。真珠湾を奇襲攻撃されたとき、ルーズベルト大統領は頭に血が上ってしまい、「騙し討ちだ。ジャップに報復を」と叫び、太平洋での無警告雷撃戦とドーリットル隊へ東京無差別空襲を指令したのである。
 太平洋では、日本の商船が無警告雷撃を受け、赤十字船・病院船さらには漁船まで雷砲撃され、救命艇さえ銃撃されたのである。
 かくして日本商船隊は全滅となり、海員の損耗率は海軍軍人を超えた。酷い話は、1943年11月病院船ブエノスアイリス丸が空爆で沈没し救命艇へ銃撃がなされ、1945年4月シンガポールからの航海の安全をアメリカから保証されていた赤十字船阿波丸が雷撃され死者2000人生存1人を出したことである。

 日本海軍の無警告雷撃に対する考え方を検討する。
 1942年3月1日海軍作戦令
「潜水艦は中立船舶と一目瞭然の場合以外は、無警告撃沈とす。但し日本近海・ソ連沿岸・南米沿岸では努めて国籍の確認をせよ。水上艦艇は臨検拿捕し不可能の時は撃沈するが人命救助に努める」
 潜水艦の場合、敵国船を無警告雷撃でき人命救助もしないという命令であり、日本海軍は無警告雷撃を許容していたということであり、警告し退船させてから雷撃するという1936年潜水艦戦闘行為議定書に違反している。日本潜水艦はこの命令の通りに戦い無警告で商船を雷撃し乗組員を救助しなかった。そのお返しは日本商船に20倍返しとなった。日本商船隊は全滅させられのである。
 潜水艦は人命救助せず、水上艦艇はすると言う考え方に疑問を抱かれる向きもあろうから説明するが、潜水艦には商船乗組員を収容するスペースはないからである。だから潜水艦は救助しなくてもよいが、せめて警告して退船させ救命ボートに乗り移ってから雷撃せよと議定書は定めたのである。