裁判官ネットワーク名古屋総会 20060920 
平成18年9月16日名古屋市にて、日本裁判官ネットワークの定例総会が開催された。メンバーの下澤悦夫判事の退官記念講演と東大社研の佐藤岩夫教授の講演がなされた。
 下澤悦夫元判事は、1966年判事任官し、今年62歳定年退官されたが、東大時代無教会キリスト者となり、判事任官後青年法律家協会裁判官部会で活躍するも、司法反動化の中で、1971年宮本判事補再任拒否事件、1973年長沼ナイキ基地訴訟自衛隊違憲判決、等を体験し、裁判官の公正らしさ論との闘い、1984年青年法律家協会裁判官部会の解散、1999年の日本裁判官ネットワークの設立等を体験され、その貴重な体験談を披露された。
 (宮本判事補再任拒否事件 青年法律家協会裁判官部会の代表格の裁判官であり、最高裁は1971年再任を拒否し、青年法律家協会裁判官部会に加入していると、再任拒否となるとの威嚇をした。青年法律家協会は護憲等を標榜する政治団体であり、憲法違反の裁判を担当することは、裁判官としての公正らしさに欠けるから退会せよとの方針を出した。自民党からの批判を受けてのことであった)
 この日本裁判官ネットワークという団体は、私の認識では、青年法律家協会裁判官部会の後継団体なのであるが、メンバーの中には、そうではないといわれる方もおる。
 青年法律家協会とは、戦後護憲を目的にして設立された在野の法律家団体なのであるが、弁護士と学者以外に裁判官・修習生も構成員とし、職業ごとに部会制を採用し、弁護士学者部会、裁判官部会、修習生部会があった。昭和20・30年代は、司法試験に合格し、二年間の司法修習生になると、青年法律家協会への勧誘があり、大体の修習生は加入するのが一般であった。当時は護憲が当たり前であり、国民主権とか、人権擁護、新刑事訴訟手続きとか、新憲法を普及させる気概で青年法律家協会に加入することが、当たり前の雰囲気だったのである。かくして青年法律家協会に入会した修習生は裁判官任官と同時に青年法律家協会裁判官部会に入会していったのである。最高裁事務総局はエリートコースであったが、ここには青年法律家協会裁判官部会の裁判官がごろごろいたのである。
 ところが、1960年代1970年代に、自衛隊違憲判決問題を契機に、自民党から、左翼裁判官追放の政治の火の手が上がり、最高裁は、「裁判官の公正らしさ論」を建前に裁判官が政治的色彩のある青年法律家協会に加入しているのがいけないとして退会を勧誘しはじめ、多くの裁判官が退会するすることとなった。下澤元判事は退会を拒絶して奮闘していた。1984年青年法律家協会裁判官部会は公正らしさ論に敗れて自主解散となったが、1999年裁判官ネットワークが設立させ、再建の道に付いたが、現在会員は20人に止まり、新規加入はなく、定年とともに減少の一途である。若い裁判官から人気がないのである。
 下澤元判事の話では、最高裁の司法反動なるものは、一面的に理解すべきではなく、矢口浩一最高裁判事さえやり過ぎに危惧していたことを紹介していた。。

 私は、下澤元判事には8年遅れるが、青年法律家協会弁護士学者部会に加入し、青年法律家協会名古屋支部長を勤めたことがあり、1970年代以降の司法激動には直接体験している。下澤元判事の講演を聞きながら、合点することも多く、それを述べたい。
 最高裁の司法反動なるものは、1970年代の自民党と社会・共産党ひいては、アメリカとソ連の政治対立が最高裁に波及したものであり、最高裁も政治的に動き、時の権力者である自民党の意向に迎合し、宮本裁判官再任拒否などの生贄を奉げながらも、政治勢力に動じない最高裁を建設することにも注意を払っていた。この舵取りをしていたのが、矢口浩一最高裁判事であった。
 右からは、左翼裁判官追放、左からは、司法反動反対と、最高裁は、左右から突き上げを喰らい、裁判官の独立、司法権の独立が危うくなる状態であった。

 裁判官の独立、司法権の独立とは、時の政治情勢・政治勢力に動かされることはなく、普遍的正義を擁護する司法制度のこと、システムのことである。民主主義であるのか、ないのか、という中身の議論ではない。
 裁判官の独立という概念は、元来三権分立の自由主義を根底とし、民主主義とは矛盾し、背反します。三権分立、二院制、基本的人権という思想は、自由主義を根底とし、自由主義は民主主義に背反します。民主主義も自由主義も同じものだと理解していた方が多いかと思いますが、違います。ここで言う民主主義は、国民の民意の絶対化を意味し、多数決原理で勝った政党が負けた政党を支配できることを意味します。ヒットラーは民主主義者なのです。ドイツ国民議会選挙で第一党になるまでは、おとなしいものでした。第一党になるや、反対党への弾圧を始めました。弾圧が民主主義の多数決原理の民意なのです。この意味でレーニンもスターリンもヒットラーと同じタイプの民主主義者です。
 民主主義と言うのも、定義が難しい。デモクラート・人民の意思の実現と言う意味で言えば、レーニンもスターリンもヒットラーも民主主義者なのですが、私が模範とする民主主義者とは異なります。私は、民主主義者であり、かつ自由主義者であることを模範とします。この対立する概念を調和させれることが必要です。
 自由主義の目的は、革命への妨害・遅延工作です。ここで言う革命とは、左翼革命も右翼革命も意味します。昔は国王が、立法・行政・司法の三権を掌握していました。国王をギロチンで打倒した革命派は、即時三権を掌握できますから、革命は即時国家全権力に及びます。三権を分立しておけば、革命派が立法を掌握しても、他の二権の掌握まで時間が掛かります。さらに地方自治の概念があれば、中央での革命の地方への伝播を時間的に阻止できます。中華人民共和国の文化大革命が瞬時に全土の全権力に波及できたのは、中華人民共和国憲法に自由主義の概念がないからです。最近文化大革命への反省から、人治主義から法治主義への改革が唱えられています。よいことです。文化大革命では、1000万人が犠牲になったとの説もあります。これだけの犠牲を払ってどれだけの教訓を得ることができるか、中華人民共和国国民の叡智が問われています。
 二院制は、衆議院が革命派に乗っ取られても、任期を異にする参議院が存続することにより、革命への妨害・遅延工作をなしえます。
 基本的人権の保障とは、多数決原理によっても奪われない人権の意味であります。しかし、ヒットラーもレーニンもスターリンも、人民の意志の名の元に、人権侵害の限りを尽くしました。
 裁判官の独立は、三権分立と同じ概念であり、司法部内部での裁判官の独立のことです。裁判官の判決が気に入らないからと言う理由で、左右から攻撃されない、裁判官の自由を意味します。議会第一党に反対する判決を書く自由なのです。裁判所に違憲立法審査権が認められている根拠もここにあります。
 では、無能で極端な考えの裁判官でも在任が許されるのか、という疑問が出てきます。勿論、それは許されるべきではありません。この調節として任期制が取られています。裁判官には10年間の任期制があり、10年間は罷免されず、10年毎に再任の可否が審議されます。10年目の再任拒否となれば、結局同じことではないか、との質問も出てきますが、裁判官の独立の概念も永久ではなく、10年と言う歴史的評価で見直されるものなのです。今は極端な判決と非難されても、10年間という歴史の経過の中で、評価が見直されることもあります。その間、その裁判官を食わせていこう、今罷免するよりも、食わせていく法制度の方がよいという判断なのです。10年たって、裁判官も、社会情勢も変わっていなければ、再任拒否となります。これは仕方のないことです。
 だから、民主主義者特に急進的民主主義者は、自由主義が嫌いです。猫は嫌いですが、犬は大好きなのです。この意味分かりますか。猫は自分勝手な生き物で、餌をやってもなつきません。恩はすぐ忘れます。猫を愛せる方は寛容な性格です。他人の存在を許せます。自由主義です。極端な民主主義者は自分の政敵の存在を許すことができず、失脚させること、はたまた殺したいとさえ思っているのです。
 
 自民党は、裁判所の中に巣食う青年法律家協会裁判官部会なるものを左翼の赤色結社と見做し、断固弾圧を主張し、最高裁も脱退勧告を強め、殆どの裁判官会員は脱退し、最後には青年法律家協会裁判官部会が自主解散することにより、最高裁は目的を達成したのであるが、目的達成と同時に、自民党勢力に迎合したことが、司法の独立の根底を覆すことに気づき始めていたのである。
 裁判所の外では、左翼が、司法の民主化、司法反動反対と叫んでいるのである。自民党の言うことを聞いて、宮本判事補再任拒否、坂口修習生罷免と血まみれ刀を振り回したものの、多様な思想と人材を吸収しない限り、司法の独立は期しがたいと察したようである。ここが帝国陸軍と違うところである。
 (阪口修習生罷免事件 1971年青年法律家協会修習生部会代表の阪口修習生が研修所卒業式で宮本判事補再任拒否事件について演説したところ、最高裁は卒業式妨害の嫌疑で即日罷免した事件 何年かして阪口氏は弁護士登録が可能となっている)

 最高裁が、気づいて始めたことは、弁護士任官と裁判員制度である。
 役人の原則は、権力を他に譲渡せず、役人を自己増殖させることにある。ピラミット体制を樹立し、後輩を選別し、先輩と似た後輩しか採用を許さない。先輩の再就職先・天下りの利権を確保し、これを擁護できる後輩しか出世させないのである。即ち、金太郎飴の制度なのである。

 弁護士任官と裁判員制度とは何者か。
 最高裁というところは此れまで、司法研修所を卒業した修習生を判事に定年まで採用してピラミット人事構成を構築し、金太郎飴に教育し、裁判官官僚の利権擁護の強大なるシステムを目指してきた。
 しかし、弁護士任官制度は、このシステムにあらざる弁護士を判事として途中採用するわけであり、システムが崩壊する。最高裁は弁護士任官者を篭絡できるとの説もあるが、出来ません。居直る者、ケツを割る者、造反する者、一度在野で弁護士を経験した者はこの世になにも恐れるものはありません。裁判官を首になっても、食っていくくらいのことわけもありません。
 弁護士任官者を採用しようという最高裁の決断は、多様な思想を取り込もうとする決意であり、太っ腹と言えます。問題は、最高裁が消化不良を起こすほど、弁護士会が多様な人材を提供できるか、ということです。玉は既に官から在野に投げられているのです。

 裁判員制度というものは、裁判官の裁判をするという権力の一部を国民から選ばれた裁判員に譲渡することです。役人は決して権力を他に譲渡することはなく、反対に自己権力の増殖を謀ってやまない性質があります。裁判官官僚だけで裁判するという権力の本質的部分を国民へ譲渡する訳ですから、これは司法権にとって、最大の変革であり、よく譲渡する気になったね、と感心します。
 戦後冤罪裁判が続出し、再審無罪判決が連続して下され、裁判所への信頼が著しく低下する時代がありました。真実を発見できる能力があれば、誤審はありませんが、人間たる裁判官が間違いを避けることは不可能です。確率的に発生する誤審から、裁判所の信用を守る方策は何か。裁判所の中に国民を入れて合議で裁判をしたからといって、誤審が確率的に低下する保証はありませんが、裁判官に対する不信の発生は阻止できます。国民から選ばれた裁判員と裁判官が合議して裁判した結果ならば、将来誤審と判明しても、その責任を裁判官のみが負担する理由がないからです。しかも裁判官の数を国民代表の裁判員の数より少なくすることにしていますから、ますます裁判官の責任は軽減されています。
 冤罪続出による裁判官不信の恐怖から解放されるのです。

 この裁判員制度は、最近のことではありません。昭和3年から、当時の裁判所がアメリカ並みの陪審員制度を導入していたのです。ですから、私はいまだに裁判員制度という用語に違和感があり、何故陪審員制度の用語を用いなかったかと思います。昭和の初期、いくつかの重大刑事裁判で一般の国民から選ばれた陪審員が裁判官と並んで裁判をしたのです。今でも古い裁判所には、陪審員法廷が残っており、十何人が並べる長い法卓があります。昭和3年の東京地裁の最初の陪審裁判は女性の放火事件でしたが、陪審員は無罪答申をして、判決は無罪となっています。あのファッショの時代に、国民大衆を国家権力の一翼である裁判に参加させること、検察官の起訴を無罪にさせたという意味は驚くべきことなのです。
 この頃、軍部は、日中戦争、太平洋戦争の準備、国民総動員体制、言論の自由弾圧とファッショへの道へと狂奔していましたが、同じ頃に裁判所は陪審員制度を導入していたのです。同じ陛下の役人でありながら、この違いは大きいのです。何故裁判所が倫理性を保ちえたか、ですが、判決書の用紙の中央には「天皇ノ名ニ於イテ」と印刷されています。用紙を書き損じても、丸めて捨てることは憚られました。行政の役人と比較しても、汚職は極めて少なかった。裁判官は、天皇の名に於いて裁判するという倫理性のもと、公平・清廉に職務に精励していたと言える。

 戦後も裁判所はこの伝統に従ってきたのであるが、昭和20・30年代の政治の左右対立の中で翻弄され、司法権の独立、裁判官の独立を自己否定する、宮本判事補・阪口修習生事件をおこしたものの、軌道修正をしてきており、弁護士任官と裁判員制度は、その例である。

 私も、最高裁が司法反動の姿勢を強めているころ、その反対運動に参加していたが、昭和50年代に名古屋地裁労働部に労働者側を常に負かせる裁判長がおり、しかもその負かせ方が公平ではなく、地元労働組合の中では、憤激の声が上がっていた。それまで裁判官栄転運動なるものがあったが、この時は、憤激が余りにも強かったので、地元労働団体が音頭とりとなり、自由法曹団、東海労働弁護団も参加して、反動裁判官追放の裁判所包囲デモ行進とビラ宣伝闘争をしたことがあった。これに効果があったのとも思われないが、裁判所は終始黙殺の態度を取り、数年後裁判長は他に栄転して運動は終息した。
 その後忘れていたら、愛知自由法曹団と東海労働弁護団の各団長の弁護士が懲戒請求された。当然棄却になるものと楽観していたら、名古屋弁護士会綱紀委員会は、懲戒相当の議決をしてしまい、要するに起訴になったわけである。
 訴えたのは、裁判所でも右翼でもない。反動裁判官追放運動内部の人間で、言わば仲間割れで、団長弁護士が根拠のないことを言って運動を組織したことを批判する論旨で、(実は、私は未だにこの人の真意を理解できない。申立書を読んでも、意味不明の文章が並ぶばかりであった)、裁判官の独立侵害の論点など書いてないのであるが、綱紀委員会は、それを理由に起訴したのである。綱紀委員会は申し立ての趣旨に制約されないとの前提があった。
 その後何年もこの懲戒事件弁護の件につき合わされ、結論としては、懲戒しないとのことで落着して一安心したが、感慨は深い。
 反動裁判官追放運動として裁判所包囲デモをしたわけで、やっているときは、民主主義を実践している積もりであったが、綱紀委員会から見ると、裁判官の独立侵害という訳である。民主主義と自由主義の対立が論点になっていた訳である。
 左翼裁判官追放運動も右翼反動裁判官追放運動も、同じことであり、これをやっていいか、悪いかは、勝てればよいという民主主義の力学とは別議論の世界である。右翼の街宣カーが裁判所の周りで叫んでいるが、あれと同じ、品のないことをしたのかと、自省し、民主主義と自由主義の調和の観点に立たなくてはならないと思う。

 
 佐藤岩夫東大教授の講演で、1994年の南ドイツ新聞の論説を引用していた。
 ドイツ極右政党党首に対する判決で、極端な仰天判決が出た件について、「不当な判決も、裁判官の独立のゆえに支払わなければならない代償なのである。これは高い代償である。しかし裁判官の独立の意義を考えれば高過ぎる代償ではない」 

 私、思うに、気に入らない裁判官でも何匹かは飼っておくのが国家の器量。   冗談です。

 裁判員制度とは、官僚である裁判官の職域に国民を参加させて、裁判官の権力を制限することにあります。司法の民主化であり、自由主義たる裁判官の独立の対立概念です。
 左翼弁護士は、反動司法の民主化を叫ぶのが常です。最近では裁判員制度に反対と言う左翼弁護士も出てきました。裁判所が裁判員を取り込んでしまうとの理由です。
 私、思うに、取り込めないでしょう。国民は馬鹿ではなく、日々に進歩しています。裁判員は10年で1万人も誕生するでしょう。今まで国民が体験したことのない法廷に本人として立会い貴重な経験をするのです。嫌がる国民もいますが、好奇心旺盛な我が国民は喜んで参加するようになります。今まで投票所へ行くほかは、憲法上の公務を出来なかった国民にとって、裁判員制度は、自己啓発と社会奉仕の実現に有益なのであり、喜んで行くようになります。最近NPO法人が増加し、国民がかってないほどに公益社会奉仕事業に参加するようになりました。災害時に救援に駆けつける国民が一杯いるのです。我が国民は、識字率が高く、好奇心を抱き、社会のお役に立ちたいと考えている、善意の人々です。
 裁判員を体験した国民が千人を越えたころ、この体験を一度限りにするのは惜しい、司法の改革の為にお役に立ちたいと志す人々が、公益法人裁判員協会を設立するでしょう。裁判所に対する最大の圧力団体となります。なにしろ、裁判所の中身を知っているからです。裁判や裁判官の行為で不当なことを見つければ、抗議したり、裁判官弾劾裁判所へ提訴したりするでしょう。
 弁護士会に対する圧力団体にもなります。法廷で弁護士を見ているからです。非違を働いた弁護士に対して懲戒請求をするでしょう。
 国民が本当の意味で主権者に成長していくのです。
 長らく、国会では、司法制度についての法律案を審議するときは、業界団体である、裁判所、法務省、日弁連の三者の意見を聞いて進めるシステムでした。国会が、民意を取り上げる為には、必要な手続きでした。しかし、国民を放置しておいて、業界だけの意見を聞くのはおかしいのではないか、との批判が出てきました。公益法人裁判員協会が設立されれば、国会へ呼ばれることになるでしょう。
 裁判員が、裁判所の応援団になるか、弁護士の応援団になるか、様々でしょう。しかし、国民側を標榜する弁護士が裁判員から批判されるような醜態は避けなければなりません。弁護士が心して裁判員に向かわないと国民の信頼を失うことになります。
 裁判所も弁護士も裁判員を取り込むことは出来ません。国民は馬鹿ではないからです。

 このようになっていくことを承知の上で、裁判員制度を推進する裁判所は、自己の権力基盤を自ら掘り崩すものであり、司法の民主化に役立っています。