戦場に法はないのか第一章 日本空爆 


一九四五年六月二十四日未明の暗い中 テニアン基地を飛び立ったB二九 九十八機の爆撃隊は、硫黄島基地からきたムスタング陸軍戦闘機百五機の護衛を受けながら北九州八幡を目指した。途中 エンジンの故障で引き返す機が続いたため、編隊は再編成され、機長ドナルド・サンダース大尉の機が最後尾となった。
 最後尾の機は、いわゆるカモ機と呼ばれ敵の戦闘機の攻撃に晒されやすい。戦闘機は虎が野牛の群れを襲うように編隊末尾の爆撃機の後方から獲物を狙って襲撃を仕掛けるのである。その方が反撃がすくないからである。護衛の戦闘機群はこの対策として編隊末尾のカモ機の後方上空に待機して襲撃してくる敵戦闘機を待ち受けている。
 機長は厭な予感を抱きながら
「高度一万メートル、零下五〇度」
 と呼び上げて眼下の九州と四国の海峡を確認すると、機内マイクで十人の部下たちに「日本本土侵入、戦闘配備に付け」と命じた。
 ウィリアム・ホーキング少尉は航空機関士で二十三歳、アメリカ本土からテニアン基地へ配属となり四度目の出撃であった。五回出撃すれば一月間の休暇が与えられ、帰国もできる。ホーキングはそれを楽しみに四度目と指折り数えた。
 B二九は世界最初の空気与圧室を備えた爆撃機であるが、さらに防寒電熱航空服と酸素マスクを着用して快適であった。これまでにも手強かった日本機の体当たり攻撃を目撃してきただけに、自分の機が免れた幸運が今日も続くことを祈っていた。
 攻撃目標は八幡製鉄所だった。これまでは通常爆弾による精密爆撃を試みていたが、成果が出ず、ハイウッド・ハンセル准将は更迭され、代わったカーチス・ルメイ少将が焼夷弾爆撃の新作戦を採り入れ、東京、大阪、名古屋の都市部を焼け野原にしてしまったのである。従来、軍事目標限定主義であったのに、新作戦は、高度二千四百メートルで拡散する親子型焼夷弾十四発を搭載し、都市の上空でばらまくだけでよく、製鉄所の溶鉱炉を目標とする精密爆撃の必要もなかった。
 ルメイ少将は訓示の中で、「溶鉱炉を破壊するのではなく、労働者の住宅を焼夷弾で焼失させ、労働者を製鉄所へ働きに行けなくすれば溶鉱炉爆破と同じ効果が得られる。しかも精密爆撃は低高度で爆撃しなければならないが、焼夷弾爆撃は高高度からのバラマキ爆撃でよく、打ち落とされる危険も少ない。高射砲で防衛されている製鉄所を精密爆撃するより、木と紙でできた日本の住宅を焼け野原にする方が何倍も容易である」と述べた。
 先任幕僚から無差別攻撃は国際法に違反するとの意見も出たが、ルメイ少将は
「現代戦は騎士と騎士との戦闘ではない。国家戦争、経済力の総力戦であって勤労市民も潜在的戦力である。軍服を着用しているか否かで攻撃対象を区別する理由はなくなった」
「無差別爆撃すれば、捕虜となった搭乗員に対する報復が懸念される。捕虜になったドーリットル隊員で死刑に処せられた者が既にいるとの外電情報もあるではないか」との反論も出ていたが、ルメイ少将は
「もちろん懸念されることだ。捕虜を処刑するというのは日本が野蛮国である証拠だ。だからこそアメリカは徹底的に日本を打ちのめし、廃墟にして二度と戦争ができないようにしなければならない。戦争に勝つ為には、何が必要なのかが重要なのだ。わが捕虜を虐待した日本官吏には厳重な刑罰を加える旨、既に日本政府には警告がしてある」
と反対意見を退けた。
 昭和十八年七月二十四日ハンブルグ爆撃ではドイツ市民四万弐千人が殺された。同年八月十六日にはベルリン爆撃が敢行され、独米英では戦時国際法の規定する無差別爆撃禁止を踏みにじった。どちらが先に戦時国際法を破ったかは目くそ鼻くその議論である。昭和十九年六月からドイツ軍はV1、V2号ロケット弾をロンドンめがけて発射したが正確な誘導装置は備えておらず、とにかくロンドンあたりに落下して市民の恐慌とかを誘発できればよいというものであった。V1の死者は六千人、V2の死者は三千人であった。ヒトラーの思惑に対する英国チャーチルの返答はすぐに来た。昭和二十年二月十三日ドイツの古都ドレスデン空襲ではドイツ市民十三万人が死亡した。
 欧州の都市を焼け野原にした虐殺者ルメイは太平洋に栄転して日本空襲を指揮し戦後はGHQ指導部として日本航空自衛隊の建設指導をし離日するときは天皇から勲章を授与された。あの人殺しのルメイにだ。
 女子供たちも混じっているであろう非戦闘員に対する無差別爆撃とは、厭な気もするが、ドイツのロンドン爆撃や連合軍のドレスデン爆撃では今や当たり前の戦法だった。ドレスデン爆撃はロンドン爆撃の報復として実行されたもので、爆撃機による通常爆弾と焼夷弾の爆撃、最後は戦闘機による消防隊と避難民に対する機銃掃射という三段構えで市民を殺戮していた。それは白人のインディアン部落への襲撃ではなく、白人同士の虐殺戦だった。「命令だ、仕方がない」とホーキング少尉は今日の任務が、昨日と同じように事なく通り過ぎていってくれることを願った。 
八幡が近づき高度を徐々に低くして六千メートルになったとき、編隊は次々と弾倉を開いて八幡全域に焼夷弾の投下を始めた。市内のあちこちから猛烈な火災が発生した。地上の高射砲が編隊目がけて発砲し、編隊の周りも爆裂に包まれていた。と、そのとき高度九千メートルで待機していた日本機がB二九編隊に対して急降下攻撃を開始してきたのである。
「トニー 真上、急降下」
 上部回転砲塔のアールド・ハス曹長が叫んだ。米兵は日本陸軍単座戦闘機「飛燕」をトニーと呼んでいた。独空軍のメッサーシュミットに似た「飛燕」は二十ミリ機関砲を射撃しながら突っ込み、垂直尾翼に体当たりすると、あっと言う間に視界から消えていった。その瞬間、尾部砲塔の射撃手ケン・ベッカム曹長からの悲鳴がマイクから流れた。
 ホーキング少尉は激しく振動する狭い機体胴部を伝い歩き、尾部砲塔に辿り着くと、ベッカム曹長は血だらけ、酸素マスクも吹っ飛び、すでに瀕死状態だった。マスクを咥えさせようとしたとき、尾部回転砲塔のアクリル窓越しに「飛燕」が追尾して来るのが見えた。
 ホーキング少尉は動かぬベッカム曹長を引き出して自分が砲塔に入ると、一二・七ミリ機関砲で「飛燕」に対して発砲を始め、「飛燕」との撃ち合いになった。アクリル窓が粉微塵となってホーキング少尉に降り注いでくる。「飛燕」のパイロットの必死の形相が見えた。「飛燕」は尾部砲塔に激突し、砲塔は破壊されて傾き、「飛燕」は視界から消えていった。
 サンダース機長は、機内マイクで絶叫した。
「操縦桿が効かない。トニーが垂直尾翼の方向舵を破壊した。操縦不能 総員脱出降下」
 無線士は暗号文書を、航法士は航路命令図を破り捨て、爆撃士は最高機密の爆撃照準機を拳銃で射撃して破壊し、総員脱出にかかった。
 ホーキング少尉は砲塔から機体へ戻ろうとしたが、出入り口が変形し機体の骨枠が通路を閉塞していることに気づいて戦慄した。
 搭乗員は次々と落下傘降下を始め、白い傘が空中に舞っていく。尾部砲塔の中で悪戦苦闘しているホーキング少尉に気づいた機長は、近寄り鉄斧を振り下ろし塞いでいる骨枠を破壊しようとするが、その間にも機体はどんどん高度を下げていった。
 鉄斧を振るって汗だくの機長に対して、ホーキング少尉は、いま彼に対して何を言うべきか、もう寒くはない高度まで降りて来ている。
「機長、はやく脱出して下さい。これが私の運命です。こうなることはアメリカから来たときから分かっていたことです。せめて機長だけは生きて、アメリカに帰って私の最期を親に伝えてください。私からの最後のお願いです」
 機長は、鉄斧をなお振っていたが、海面が近づいた間際、立ち上がり敬礼をすると
「グッド ラック 私は君を忘れない」
 と言い残し、飛び出していった。
 独りぼっちになった尾部砲塔のホーキング少尉は、骨枠から手を伸ばして倒れているベッカム曹長の顔を撫で、その最期の時を待つことにした。人生の最期とはこうして来るものなのか。轟音と振動のなかで体を丸めた。
「ママ パパ」
 ジョージア州アトランタの長閑な牧場と大きく赤い屋根の家が思い出されてきた。

 最初に機外へ飛び出した無線士マドクード・ジョンソン軍曹は、悲惨な最期を遂げた。
 別府市近郊の農村に降下したのであるが、おおぜいの村人に包囲され、棍棒で撃ち殺されてしまったのである。実はこの少し前、この村の国民学校では、校長が朝礼で国旗を掲揚しかけていると、突然P五十一米陸軍ムスタング戦闘機が機銃掃射してきた。「敵機襲来 防空壕へ逃げよ」の悲鳴のなか、校庭を逃げまわる女教師と学童二名が死亡し、校長は片腕を失ったのである。戦闘機の二十ミリ機関砲弾を受けると、肉体は原形を留めない。村総出で悲惨な葬式を終えて間もない村人は、敵愾心の矛先をこの米兵に向けた。憲兵隊が到着したとき、既にジョンソン軍曹は道端に横たわっていた。
 次に飛び出した副操縦士ジョン・ディビス中尉たち六人は瀬戸内海へ降下していった。下は海である。救命胴衣を着用しているものの、長時間保つものではない。鮫はいないだろうが、溺死の覚悟をせざるをえなかった。
 日本海軍のゼロ戦が近づいてきた。機銃掃射を受けると観念していたとき、ゼロ戦の風防が開きパイロットが敬礼をしてきたのである。ディビス中尉は慌てて返礼をし、命を救われたことに気づくと大きく両手を振り回し、両足さえもバタバタさせた。
「なんていい奴だ」
「目線が合ったぜ」
 ディビス中尉達の周りを二周したゼロ戦は飛び去っていったが、松山海軍航空隊基地へ落下傘の降下先を打電していた。
 その夜、瀬戸内海を漂っていたディビス中尉達六人は、日本海軍警備艇に救助されると呉の軍港に送り届けられ、大船の、内地では日本海軍唯一の海軍捕虜収容所送りとなった。結局十一人の搭乗員のうち、命を永らえたのはこの六人だけであった。機長は一旦飛び出したが、開傘する時間もなく海面に激突し死体さえも発見できなかった。
 この六人が日本海軍の捕虜になったことは幸運であった。陸軍と比較して海軍は戦時国際法を遵守する伝統があり、敵兵であっても溺者は救助するという船乗りの掟があった。陸軍と海軍の違いは戦場が陸海のいずれかにあることによる。軍艦が沈没すれば海兵は任務終了となり、救助されるまで海を漂うしかない。救助されるまで戦闘義務は停止される。しかし陸軍では城が占領されても命を奪われるまで戦わなくてはならない。最期の弾一発がなくなれば軍刀で戦わなくてはならないである。捕虜になりかけたら自決をしなければならなかった。陸海の違いは戦闘形態と死生観と捕虜になる是非に影響を及ぼしていた。
 六人は虐待されることもなく呉から大船の海軍捕虜収容所へおくられ無事に終戦を迎えることができた。終戦の日、B二十九は大船の捕虜収容所に支援物資を落下傘投下した。ドラム缶を開けてみると、食料と酒とタバコ、医薬品が満載であり,捕虜たちは歓声をあげ宴会が始まった。ドラム缶の1個は捕虜収容所近辺の民家の屋根を突き破り主婦を死なせてしまった。捕虜隊長はドラム缶と捕虜たちからかき集めた弔慰金を持って弔問に出かけた。
 海軍に比べて陸軍は国際法を無視していた。捕虜は臆病者でなぜ自決しなかったかと軽蔑し、看守兵は事あるごとに捕虜を虐待した。戦後開かれた、BC級戦犯裁判では捕虜虐待の罪で多くの看守兵や憲兵が処刑されている。
 昔から日本陸軍が野蛮であったのではない。日露戦争や第一次世界大戦では陸軍も戦時国際法の優等生であった。日本が西欧の国際社会へ参加するためには戦時国際法の遵守が重要だと認識されていたからである。明治の不平等条約改正問題も背景にあった。捕虜になったロシア兵もドイツ兵も厚遇され、妻子との面会も許可された。捕虜収容所外への外出も許され、中には日本婦人に子を産ませた捕虜もいた。日露戦争では日露両国ともに戦時国際法を遵守し捕虜を厚遇したが、これはロシアのニコライ二世が開明君主であったことによる。しかし、彼はロシア革命で家族とともに処刑された。レーニンは残酷な革命家であったのだ。太平洋戦争ではレーニンの弟子のスターリンは日本捕虜を虐待した。日本捕虜の二割が凍死病死餓死させられた。
 ただ、一つ美談がある。シベリア鉄道で日本捕虜を護送中ある平原に停車したとき、日露戦争のときに捕虜となったロシアの老人が「松山の捕虜収容所では厚遇されたのだが」と言って、たばこの束を日本捕虜の無蓋貨車に投げ入れたことがあったが、美談はこれ限りであった。ソ連兵の日本捕虜に対する処遇は過酷であったが、ソ連崩壊後よく考えてみれば、それはスターリンの自国民に対する処遇と共通するものであった。日本捕虜は栄養不良の中で過酷な重労働を強いられたが、ソ連の監視兵の待遇もたいして良くもなかった。ソ連兵は常にスターリン体制下の監視にあった。不平不満を漏らし或いは改革を唱えれば、日本捕虜より過酷なシベリア流刑送りを覚悟しなければなかった。シベリアの収容所の近辺にはロシア民衆の家があったが、たいていはシベリア流刑の獄囚とその家族であり、日本捕虜と同じような待遇を受けていた。スターリンは日本捕虜にも自国民にも過酷な待遇をしたのである。

 日本軍の敵味方の捕虜に対する見方が変わったのは、ノモウハン事変とシナ事変以降である。三流国民と見なしていた中国兵相手に苦戦をしいられ逆上して戦時国際法を忘れてしまった。勝ち方負け方を冷静に論ずる軍法を忘れて逆上し勝ち負けに拘り、捕虜になるくらいならば自決せよと強制するようになった。日露戦争のとき捕虜となった日本将校でその後将官になった者もいるが、ノモウハン事変以降はない。
 捕虜になった味方に自決を強いる位であるから、敵兵に対してはさらにむごい仕打ちをした。南京陥落の時、揚子江の川岸に投降した中国兵捕虜を並べて機関銃でなぎ倒したのである。
 ノモウハン事変の時は、日本陸軍は負け戦の混乱の中で戦時国際法を忘れてしまった。日本陸軍は勝っているときは理性を保つが、負け始めると逆上して理性を失うようである。敗走した大隊長には拳銃を渡して自決を強要した。ソ連軍の捕虜になり停戦後帰還した日本兵捕虜は最前線に追放され隔離された。