戦場に法はないのか第十章 八月六日 


敵機接近の報を受けて空襲警報が午前七時九分発令されたが、単機なので偵察機とみられるとの判断から午前七時三十一分警報は解除された。
 この朝、中国軍管区司令部前は混雑を極めていた。新設の第二二四師団の召集日である。いまは老兵までに広がった応召兵一五〇〇人とその家族何千人が武運長久の幟を掲げて集まり、軍歌を歌い、惜別の辞を述べ、万歳三唱を繰り返していたのである。
 この朝は月曜日だった。市街地には、建物疎開に動員された市外からの義勇隊、学徒隊が二万人ほど入市していた。山陽本線と広島市内の電車は超満員で運行され、広島は朝から騒がしかった。
八月六日朝七時半早瀬少佐は、小林法務部長の部屋に入り、直立不動で敬礼した。
「本日八時三〇分よりホーキング少尉の銃殺刑の執行をいたします」
「ご苦労である」
「今回の軍律裁判を機会に、空襲軍律の改正案を考えました。是非とも陸軍大臣に提出して戴きたく願いに上がりました」
 早瀬少佐は建議書と書かれた書類を差し出した。
「何が書いてあるか、説明してみよ」
 早瀬は直立して説明を始めた。
「軍律には法廷は非公開、弁護人なしと規定されています。これまでドーリットル隊にも名古屋空襲隊にも今回の広島裁判でも軍律裁判を適用し死刑としてきましたが、無差別爆撃はやまることがありません。それは米軍が軍律裁判を知らず、米兵が無差別爆撃をした場合、日本軍の軍律裁判で死刑となることを知らされていないからであります。
 今のやり方では、抑止力がないのであります。米軍と兵士に無差別爆撃をした場合、その者は死刑となるということを教えてやり、威嚇しなければなりません。
 法廷を公開し、米国の弁護士が弁護人に付くことを認め、被告人の家族と報道陣の来日も許すべきです
 例えば八丈島辺りを安全保証地域に指定し、米軍機の着陸を認め、そこから本土へ移送させます。
 法廷では米国弁護士を立ち会わせ、アメリカ報道陣にも傍聴させます。このなかで米軍がいかに人道を無視した無差別爆撃をしたかを、徹底的に立証します。破壊された市街地を報道陣、米国弁護士、被告人の家族に見せてやります。
 死刑判決をしたあと、軍司令官は死刑の執行は次の無差別爆撃の後に行なうと宣言するのです
 帰国した米国報道陣と家族は、無差別爆撃について世論に影響を与えるでしょう。
 又アメリカ搭乗員達は、無差別爆撃を躊躇することとなります。
 法の正義を実現させる為には、法を知らしめることが必要であります。
 軍機に係わることは非公開でありますが、軍律法廷の非公開は、無差別爆撃に対する抑止力にとって逆効果であります。
 是非とも軍律を改正されるよう、この建議書を起草した次第であります。
 ドーリットル隊のとき、上海軍律法廷ではなく、東京地方裁判所の公開陪審法廷で裁けば良かったと思います。陪審法は戦争を理由に停止とされていますが、廃止ではありません。今復活させるべきです。魚屋・商店主・農民などの市井人十二人の陪審員が「被告人の米兵は生徒銃撃事件につき殺人罪で有罪との答申をなす」と法廷で陳述する姿を米報道陣に映画撮影させれば、これはもうアメリカの陪審法廷と同じですから米人の理解も容易であり、アメリカの世論への影響は大と信じます。死刑判決のあと、政府は「アメリカ大統領が二度と無差別爆撃をしないと誓約するのならば天皇の恩赦があり得る」と声明を発すれば良いのです。
 法による外交交渉が戦時下でも重要なのです。戦場で、ただ戦うだけでは能がない。このようにしておれば今年の東京空襲はあのような形にはならなかったと思い、残念です。兵家は武器で戦い、法家は法で戦うべきであります」

 小林法務部長は
「分かった。抑止力とはその通りだ。今まで軍律裁判の効率性だけを考えてきたが、抑止力が再犯防止に大事だ。いい意見を聞いた。本日死刑の執行を終えたら、執行始末書を書け。それと一緒に、これを軍司令官を経て陸軍大臣に提出するよう手配してやる」
 小林少将は受け取った建議書を未済箱に入れ、頷いた。

 早瀬少佐は立ち去りかねて
「更に申し上げますと、日米で戦闘地域の区割りの協定ができないのかと考えます。外電によるとローマは無防備都市宣言をしたと聞いております。市民が無差別攻撃から保護されるためには国際法を利用して、戦闘地域の区割り交渉をすべきであります。開戦当初マニラは無防備都市宣言をして、アメリカ軍はコレヒドール島へ撤退しマニラは戦場になりませんでした。今年のアメリカ軍のマニラ攻撃では、日本軍はマニラに無防備都市宣言をせずに戦場にしてしまいました。結局マニラ市街は廃墟となり多くの市民に犠牲者が出ました。日本軍はマニラから撤退し山岳地帯で決戦を挑むべきでした。
 昭和十七年米軍はマニラに無防備都市宣言をして撤退しコレヒドール島に立てこもり市民の巻き添え犠牲を回避したのであります。何故日本軍もこれに習わなかったのか残念です。 
 捕虜の処遇も再考すべきです。アメリカ軍の進軍により捕虜収容所が敵の手に落ちそうであります。このとき安易に捕虜の処分をすれば戦後責任問題が発生します。アメリカ軍の接近が迫れば捕虜収容所長の権限で捕虜を解放することも検討すべきであります。フィリピンや沖縄では日本軍は住民と行動を共にしており住民の被害が続出し補給の困難により住民に配る食料にも事欠きました。戦争の展開に応じて臨機応変で軍と住民を切り離し、住民を無防備都市地帯に誘導することが必要であります。マニラでは捕虜収容所に日本住民を収容し捕虜と混在させれば攻撃を免れたはずです。日本住民を軍と切り離し安全保護を企画する計画がなかったのです。軍は住民を保護できる確信のないまま、住民の安全を放置したのです。軍が戦うのは必定、しかし住民安全を看過できません。」
と進言した
 小林少将は
「そこまでの議論になると、難しいものがある。出先ではできん。陸軍省で十分検討しなければならないが、本土決戦の大号令が出て、今や一億火の玉、一億総特攻だ。婦人会でも竹槍訓練をしている。言葉に注意しないと血気盛んな連中から鉄拳を受けるだろう。注意したまえ」
「思いますに、沖縄では住民を巻き込んで戦闘が行われ、多数の犠牲者が出たと聞いています。軍は那覇市を無防備都市と宣言して住民を那覇市内に集結させて保護し、文民市長が赤十字の旗を掲げ、軍は那覇市から脱出し、山間部で米軍に決戦を挑むことを何故しなかったのか。今後本土決戦になると、住民の犠牲が増え、ついには日本民族皆殺しの終末を予期しないとは限りません」
「儂も貴様と同じ法科将校の法家だから、国際法を知っている。無防備都市の意味も分かる。しかし兵科の連中は兵家で分かっていないし、最近の短期促成の甲種幹部候補生は国際法など講義の科目にもないからまるっきり知らないだろう。一億火の玉で玉砕する決意までしている。無防備都市などと言えば、臆病者め、と制裁を受ける。気をつけたまえ。これは陸軍省でしか決められないことだ」
 早瀬少佐は更に言い続けた。
「このままだと本土決戦となり、住民の犠牲は膨大な数になるでしよう。民族の存亡が危うい。安全地域設定の交渉が必要であります。」
「ハーグ条約国際会議は十九世紀末の花でありました。今日本は戦争中ではありますが、ハーグ会議の再開を提言すべきであります。議題は、無差別爆撃の禁止と非戦闘員と捕虜の保護であります。そして会議の中で講和の交渉をするのです。米英ソはヤルタ会談で無条件降伏を取り決めています。しかし、ハーグ会議の中で、日本に有利な形での講和交渉をすべきであります。米英ソも長期の戦争により疲弊しています。日本が苦しいときは米英ソも苦しいはずです。米英ソは無条件降伏を要求していますが、窮鼠猫を噛むのたとえの通り、アメリカが日本完全占領を実行すれば米兵に百万人の戦死者、日本に一千万人の戦死者が出るくらい分かっているはずです。
戦いながら交渉することが大事であります、東条英機大将は戦うだけで外交交渉を失念していました。大坂冬の陣で徳川家康は戦うだけではなく和睦の計略を仕掛け大坂城の堀埋め立てとの引き替えの和睦を提案しました。淀君は騙され自害することとなりました。今日本は家康の策謀を見習うべきであります。
 小林少将は、沈思黙考した後、こう言った。
「確かにシンガポールやマニラで英米軍と現地交渉をしたが、それは敵の無条件降伏を受け入れるものであった。戦闘地域と安全地域を画する交渉を現地軍がしたことはないし、越権になる。陸軍省が決断するしかないが、一億総特攻を叫ぶ陸軍省はできないだろう。外交と統帥は天皇大権である。天皇陛下しか無理である。家康の話は興味深い。議題を無差別爆撃禁止と捕虜の保護に限定するハーグ会議の開催をして停戦交渉に議題を進める。英米ソは単独講和禁止を約束し合っているからこれを打破するには名案だ。面白い。うーん。今夜ゆっくり話の続きを聞いてやる」

 天皇陛下と聞くや、早瀬少佐は直立不動の姿勢を取り、敬礼して法務部長室を辞去した。憲兵隊本部を通り、付属の拘禁所へ向かった。石造りの重厚な拘禁所の前で憲兵隊永井中尉が敬礼をして出迎えた。
「ホーキング少尉はどうしているか」
「はい。朝食を食べさせ、髭を剃らせました。観念しているのか何も言いません」
「八時半になったら練兵場へ連行せよ」と命じて、練兵場に向かった。練兵場北端には土嚢が積み上げられ、真ん中に太い丸太柱が直立している。その前に六人の銃殺兵と立会いの軍医ら十数人が待機している。早瀬少佐が向かってくる姿を見ると、銃殺兵らは整列し直立不動で捧げ銃の敬礼をする姿勢に入った。答礼をしなければならぬ。左手で軍刀を押さえ歩調を整えて進んだ。
 練兵場を見ると、眩しいほど明るい。周囲に茂る樹木から夏蝉がうるさいくらい鳴いている。発砲音さえ掻き消す勢いであった。ホーキング少尉最後の夏か、いずれ自分に到来する最後の戦場はどこであろうか。思いながら歩いていると、こみ上げてくるものがあり突然咳込み、痰を吐くと血が滲んでいた。ついに来たかと肺病で死んだ長兄と二人の姉の顔を思い浮かべた。

 早瀬少佐が拘禁所の石積塀を右手にして庇の下を進み、離れる直前だった。八時十五分、真上で巨大な炸裂、視界が白銀となったのは憶えているが、それから失神していたかも知れぬ。時間の観念を失ったが、早瀬少佐が見たのは、銃殺兵達が蒸発したように溶けはじめ、またたく間に黒い炭の丸太になって転がる姿であった。広島城の天守閣が、この瞬間崩壊し炎上し始めていた。熱波が何もかも吹き飛ばしていた。降ってくる拘禁所の屋根と庇に埋もれていた早瀬少佐は、皆目見当も付かなかった。
 一トン爆弾の直撃か、しかし巨大すぎる。
 駆けつけてくれた永井中尉が早瀬少佐を覆っていた柱梁を取り除き助け出してくれた。永井中尉も閃光を浴びて真っ黒に火傷しており、その上から血が吹き出て鬼面の様相である。周りにいた兵士たち、露天の者は、殺人放射線を浴びて皮膚が剥離してチリチリとなり倒れていた。日陰にいた者のみが辛うじて息をしているものの、全員瀕死であった。
 拘禁所の瓦礫の中からホーキング少尉が這い出てきた。長い勾留生活で夏の日に当たっていないから彼のみが真っ白の顔色であるが、額からドクドクと出血し、「アトミック ボンブ」と口走る。
 そうか、兄の話に聞いていたが、マッチ箱位で何万トン爆弾に匹敵する核分裂を利用した爆弾か。日本でも研究はしていると聞いていたが、アメリカの方が先に開発してしまったか。兄の言うとおりだ、アメリカは勝つ。
 練兵場隣接の官舎も炎上していた。そのなかには妻子がいるはずだ。どうする。
 永井中尉が言った。
「やってしまいましょう」
 早瀬少佐は分かりかねて永井中尉の顔を怪訝に眺めた。
「銃殺刑ですよ。生かしてはおけない」
「それはできない。銃殺兵もなく立会の軍医もいない。検死の書記もいない」
「それを殺してしまったのはアメリカですよ。生かしておけば面倒だし、大体何処へ収容するのですか」
「ここで殺せば銃殺刑の執行ではなくなる。たんなるリンチの殺人罪である。法の名のもとに死刑を宣告した以上、法に則り死刑を執行しなければならない。私心を入れることは禁物だ」
「そんな馬鹿な・・ 兵士や住民がホーキング少尉を見れば飛びかかって殴り殺しますよ」と永井中尉は引き下がらなかった。
「江戸の伝馬町牢の昔から、火事地震の時は囚人を一旦解き放つことになっている。兎に角、広島駅まで連行して汽車に乗せ、宇品の憲兵分隊まで行く。死刑の執行はその後だ」
 ようやく、永井中尉も頷いた。
 早瀬少佐はホーキング少尉に
「手錠を外す。付いてこい」と命じた。
 ホーキング少尉のいた瓦礫の下から、二名の米兵も這い出てきた。
 捕虜になっていたのはホーキング少尉だけではなかった。

 七月二八日呉軍港に潜伏する戦艦伊勢、扶桑、日向、重巡利根を目標とする空襲があり、沖縄から発進したB二九が二機、艦載機が二機撃墜され、十二人が捕虜となった。捕虜になった一人は、落下傘降下してから猟銃棍棒竹槍を持った住民に包囲され恐怖の中で拳銃を発射し、猟銃を持っていた老農夫一人を射殺した。この老農夫は息子を神風特攻隊で失っており、仇討ちと意気込んで使い慣れた猟銃を持って米兵逮捕に突進したのであるが、逆に撃たれてしまったのである。 発砲に驚いた住民は退却して遠巻きにしているうちに憲兵隊が到着し、この米兵は拳銃を捨てて捕虜となったが、激高した住民は投石したり殴りかかったりして、これを憲兵が収めるのに苦労したのであった。B二十九の機長は尋問のために東京へ護送されたが、残りの捕虜を収容する場所がない。四人は拘禁所に収容できたが、残りの七人は拘禁所の隣に仮設収容所を急造して収容していた。
 八月三日にはB二十四の五機編隊が広島市街地を爆撃し一機が高射砲で撃ち落とされ九人が捕虜となった。米兵の一人は住民から暴行を受けて死亡している。将校の二人は東京へ護送したが、残りの六人は収容する場所もなく各連隊の営倉に分散して収容した。
 早瀬少佐は七月二十八日の捕虜のうち、住民を射殺した一人については軍律裁判に掛ける必要があると判断したが、その他については軍艦を爆撃目標としており軍律違反を問えないと考えた。八月三日の捕虜は広島市街地を焼夷弾で爆撃しており、軍律違反を問えると考え、憲兵隊に住民射殺事件と
八月三日の空襲罹災実情の調査を命じていた。
 早瀬少佐は「捕虜の員数確認」を命令した。
「仮設収容所の七人は全員死亡。拘禁所の五人は三人重傷二人死亡、各連隊営倉内の六人は、三人死亡その他は生死不明。小林法務少将、山本砲兵大佐いずれも戦死」と永井中尉が報告した。
「生存憲兵隊員のうち五名と永井中尉は、本官に従い捕虜三名を護送して広島駅から宇品憲兵分隊まで向かう。その他の兵は消火と救助に当たれ。官舎へも救援に当たれ」と命じた。
 天守閣が燃え落ちていく。中国軍管区司令部と大書された城門が崩れていく。内堀を越え京橋川の橋に辿り着く。兵も捕虜も、軍服は焼け焦げ、足を引きずり、辛うじて歩行できる、おぼつかない足取りの、まさしく敗残軍の様相である。

 権吉が後家様の家へ駆け込んだとき、家は燃え上がり、後家様と二人の娘は柱梁の下敷きとなっていた。二人の娘は救出できたものの後家様は柱梁の下で瀕死である。権吉の顔を見て
「権吉さん 来てくれたの、うれしいわ。でもあたしはもう助からない。娘を頼みます。これは一番高価な最後のものです」と言って、ダイヤモンドの指輪を外して手渡した。
 後家様は権吉の腕の中で絶命し、権吉は大泣きに泣いた。感極まり白磁のような顔面に自分の頬を寄せて抱き締めた。
 とはいえ、惜別の時間はなかった。周りから火の手が襲いかかり、権吉のごま塩頭髪が焦げ始めた。権吉は桶をひっくり返して頭から水を浴びた。尾ひれ二十四枚の錦金魚が地に転がり口をパクパクさせた。
 指輪は権吉の七本のどの指にも入らず、権吉は指輪を口の中に含み、前の桶と後ろの桶に二人の娘を乗せ、後家様に「あっしが必ず育てあげます」と落ちてくる火の粉を払いながら片手拝みをして立ち上がった。左右の町並みが燃えて崩落するなか、権吉は天秤棒を担いで走りに走った。
 原爆の放射線は権吉の脳髄を射し抜き、意識は殆ど消失した。
 権吉は叫んだが、声にはならなかった。
「ダズビ ダーニヤ 惜別なり
 貴婦人 ナタルシア様   」
  
 橋のたもとの交番では、巡査が負傷者の火傷に一斗缶から食料油を刷毛で塗っている。背中が真っ黒にケロイドと化し、襟、紐、襷の跡だけが白く残っている。河原では水を求めてそのまま絶命した死体が折り重なり、頭のない赤子を抱えた母親が放心して欄干に寄りかかっていた。南側の欄干は北側へ倒壊し北側の欄干は川に落ちている。飛び出した眼球を手で受けたまま絶命している人もいる。この人は最期に何を見たのであろうか。どの人も皮膚表面は剥げ落ちていた。
 朝鮮の李王家の甥で大尉がいた。広島師団に所属し騎兵部隊長を勤めていた。李王家の大尉であるので特別扱いであり、いつも日本軍の騎馬大尉がお供していたが、この朝に限りお供ができなかった。橋のたもとで絶命している李大尉を発見したお供の大尉は責任をとってその場で自決した。
 李大尉の遺骸は広島陸軍飛行場へ送られ輸送機に乗せてソウルへ空輸され、八月十五日ソウルで陸軍葬と李王家葬の合同葬が営まれた。その日は終戦の日であったが、泣き男泣き女を帯動しての長い葬列、陸軍大臣の弔辞代読から始まり師団長の弔辞が続き、、朝鮮古来の伝統の葬儀が挙行された。市内では朝鮮独立を叫ぶ人々が興奮して騒乱状態であったが、葬儀だけは無言の静寂の中、不気味に思え、到来する未来が何なのかを予言しているようであった。混乱と殺戮の朝鮮戦争まで後5年であった。
 日本は朝鮮を併合し、反対派には過酷な弾圧をしたのであるが、協力派には礼節を尽くした。李王家と地主資本家の支配層は日韓併合に協力し莫大な庇護を受け併合前より豊かな生活を保障された。朝鮮は終戦と同時に日本から独立したが、人民の信頼を欠けた李王家には王政復古の役は回ってこなかったし、できる人材もいなかった。朝鮮古来の儒教の思想ならば、当然に王政復古なのであるが、祖国を売り渡した李王家は人民の信頼を失っていた。終戦までの韓国支配層は旧主を失って狼狽していた。誰もかが予想もしない早さで到来した独立に確信を得なかった。アメリカやソ連から帰国する亡命者を待つ日々となった。朝鮮人は自主解決の自治能力に乏しく、外来の中華思想に指導されることを喜んだ。よく朝鮮人は、天命だと嘆息するが、自分で考えないことを意味する。
 戦後朝鮮は混乱する一方で南北は分断され、ソ連とアメリカの対立の戦場と化した。この時朝鮮王家に人材がおれば王政復古と南北統一が可能であったが、いなかった。才ある民も王もいないなかで朝鮮戦争が始まった。
 巡査が道端に机を持ち出し罹災証明書の発行をしている。避難のための運賃が免除になり、米穀の配給も受けられるのだ。大混乱の中にあっても、巡査は職務精励をしていた。
 早瀬少佐は軍刀を杖にして先頭を歩いていたが、左頬が痛いので触ると皮膚がズルッと剥け、体液がトロドロと漏れ出てきた。見渡すと草木は北の方向へ薙ぎ倒され黄色く萎びていた。蝉の声が聞こえない。鳥も飛んでいない。放射線が全ての生命を射殺してしまった。
 大気の流れが異常だった。風向きが変転したかと思うと、大粒の雨が降ってきた。なぜか黒っぽい雨だった。その黒い雨が少佐のボロボロになった軍服に染みを作り、橋上の砂埃に黒い水溜まりを作っていく。
 早瀬が倒れると、ホーキング少尉は早瀬の左腕を抱えて肩に背負うとその姿は十字架を担いでいるように見えた。後ろから襤褸と化した飛行服を着た異形の米兵二人が続いた。幼児洗礼を受けていた永井中尉はゴルゴダの丘を登るキリストたちの姿と同じだと気が付いた。
 ホーキング少尉は言った。
「アメリカは敗れた。アメリカの王はこの地を踏めない。
 日本人は我を石もて打て。我が衣服を剥がして分け合うがよい」
 早瀬はホーキング少尉の青い眼から大粒の涙が落ちるのを見た。列は橋のたもとで力尽きて止まった。

「おい 米兵じゃねえか。おのれらアメリカは非道いことをしやがって」
 橋端に倒れていた権吉が叫んだ。周りにいた被災者たちが一斉に三人の米兵を凝視した。権吉が担ぐ天秤棒の前後の桶には二人の女児がしがみついていた。
 権吉が早瀬少佐とホーキング少尉の間に割り込み、振りかぶった天秤棒がしなった。樫の木の端が少佐の額を割り、続いて弧を描きホーキング少尉の脳天を直撃し鮮血が噴出した。
 少佐と少尉はともに黒い雨の溜まりに昏倒し、濁水を跳ね上げた。老婆が叫んで石を拾い投げつけると、周りの被災者たちがいっせいに石や棒を拾い飛び掛かろうと腰を上げた。二人の捕虜は膝をつき胸にクロスを切り、両手を合わせて哀願した。
「ヘルプ ミー」
 永井中尉は橋の上に仁王立ちとなり南部式拳銃を中空に一発発射して
「静まれ。捕虜の処刑は裁判以外禁止である。護送中の捕虜に手を出すな」と絶叫した。
 群衆の不満気な顔に向って、更に言った。
「捕虜も重傷、今や同じ被災者である」

 昏倒した少佐の鮮血の顔に、黒い雨が降り続く。意識が遠のく。もう何も聞こえない。
                           
                                                            完