戦場に法はないのか第二章 ドーリットル隊 


B二九は垂直尾翼を破壊されたが四器のエンジンは無事だったので、更に飛び続け、広島郊外の海岸に胴体着陸し、機体は大破したものの、尾部砲塔は独立隔壁なので激突を免れ、ホーキング少尉は体のあちこちに打撲と切り傷を負った程度で陸軍憲兵隊に救助され、やがて広島城内の陸軍憲兵隊拘禁所に収容された。
 広島の第二総軍司令部は、広島城内に置かれている。姫路城と較べれば小振りであるが、美しい天守閣が聳え堀に浄土の睡蓮の花が咲き、まわりは老松に囲まれていた。
 早瀬三郎陸軍法務少佐は憲兵隊からの連絡を受け、ホーキング少尉の処分を決定しなければならないことになったのである。

 既に前例はあった。
 一九四二年四月十八日 日本から千三百キロ離れた太平洋上の空母ホーネットから飛び立ったドーリットル陸軍中佐指揮の陸軍B二十五爆撃隊十六機は、東京、横浜、名古屋、大阪と空爆をしたあと、中国大陸へ飛行し、蒋介石軍支配の麗水飛行場を目指していたが、その余りにも大胆極まる遠距離作戦のため、途中で燃料が足りなくなり、日本軍支配地に不時着して捕らえられた二機八人の搭乗員の例である。
 ドーリットル隊は日本初空襲という戦意高揚が目的であり、具体的な成果を決めていたわけではない。前年の十二月八日真珠湾奇襲攻撃で、アメリカ太平洋艦隊の戦艦群は壊滅していた。この復讐のためにも、アメリカ国民の戦意を高揚させ、興奮の渦を巻き起こさせなければならなかった。B二十五爆撃隊は陸軍機で、空母から発進したことはない。それを猛訓練で可能にし、日本爆撃後は中国の蒋介石支配地に不時着させようとするもので、全機廃棄を予定していた。とにかく日本へ飛んで行って初爆撃するだけが目的、攻撃機の回収さえ放棄した作戦であった。
 ときの大統領ルーズベルトは一九四二年一月十六日 アメリカ国民の士気を高めなければならないと決意、真珠湾奇襲攻撃に匹敵する報復爆撃を命令し、ドーリットル陸軍中佐が抜擢された。太平洋から発進して日本列島を縦断 中国の麗水まで飛ぼうというB二五の航続距離を無視した、陽気なヤンキーたちの大胆不敵な作戦が決行されたのである。

 空母「ホーネット」は発進予定海面に到達する十時間前に日本軍哨戒艇に発見された。ドーリットル隊は燃料切れを承知で発進し、予定飛行場手前で夜間不時着、或いは落下傘降下を覚悟していた。「全機帰艦せず」まさしく機体放棄の命知らずの作戦、戦意旺盛なヤンキーたちが次々と飛び立っていった。日本哨戒艇は、護衛の空母「エンターブライズ」艦載機の攻撃を受け、五隻沈没、八隻損傷し、死亡三十三人捕虜五人を出している。
 哨戒艇からの「敵空母見ゆ」の電信を受けても日本軍は呑気であった。航続距離を計算しても来襲は明日朝以降になると計算し、迎撃機の発進を命令しなかったのである。最初横須賀に空爆された頃になって慌てて空襲警報を発令するというお粗末ぶりであった。ドーリットル隊十六機は、五分おきに発艦し、編隊を組む時間も惜しみ、単独で日本を目指した。各機には後楽園陸軍造兵工廠、千住火力発電所、大森の日本特殊鋼、川アの日本油化などの目標が命令されていた。しかし渡された地図が古かったこともあり、初めての攻撃で土地勘はなく空爆照準レーダーも開発されていなかった。低空飛行で工場らしきものを発見して爆弾と焼夷弾各三十発を投下する手法をとったが、間違いも多く、また搭乗員達は復讐を叫んで無闇に市街地に機銃掃射をしたため、非戦闘員である市民たちに犠牲が続出した。アメリカ市民への戦意高揚のために、兎に角日本初空襲をレコードしたかったというだけのこと、日本なら何処でも爆弾を落とせば良かったのである。早稲田中学の校庭にいた四年生、葛飾区水元国民学校の校舎にいた高等科一年生や、横浜市中区打越の自宅にいた幼稚園児が犠牲になり、その日の全国の死者は八十七人にもなった。空襲が終わってから「米機は空母に帰還しないのか」と気づきようやく中国行きの作戦に気が付くというお粗末ぶりであった。
 一機はエンジンの調子が悪くて燃料の消費が激しく中国大陸まで辿り着けないためウラジオストックに向かうこととし、途中で見かけた新潟の阿賀野川鉄橋に爆弾を落とし、最後はウラジオストックに不時着しソ連に抑留された。日米戦での中立国であったソ連は当初米兵の扱いに困ったが、モスクワへ丁重に連行された後、イラクを経由してアメリカに凱旋帰国ができた。このような場合、中立国は戦争終結まで抑留するのが国際法であるが、ソ連はアメリカから軍事援助を受けているため、その返礼をしたのである。
 あとの十五機は中国大陸に到達したが、予定飛行場へは着陸できず、不時着ないしは落下傘降下した。日本軍支配地に降下した八人は捕虜となった。日本軍は高射砲、迎撃機で応戦したが、遂に一機も打ち落とすことはできなかった。五人乗りの十六機の搭乗員のうち、一人は落下傘降下に失敗して戦死、二人は不時着時に死亡、二機八人が捕虜となり、残りはやがて凱旋帰国できた。ドーリットル隊十六機の機体は廃棄された。ドーリットル中佐は重慶で蒋介石の夫人宋美齢から勲章を授与され、中国機でカルカッタを経由して凱旋帰国し、二階級特進の名誉を受けている。

 日本軍は首都を奇襲されたことに狼狽し、防空部隊の責任問題が発生した。歯止めとしてどうするかが議論され、特に学校への機銃掃射は前代未聞、日本軍も真珠湾でやったことはなく、アメリカの無差別爆撃は国際法違反、搭乗員は捕虜としてではなく戦争犯罪人として処罰されるとの空襲軍律を慌てて定めたが、これは事後法であった。上海軍律法廷は、搭乗員八人に対して死罰判決を宣告し、機長二人と機銃手一人の銃殺刑を執行し、五人は減刑されたものの残る一人は病死した。事後法であったが、無差別爆撃が違法であり処罰される前例としては画期的であった。このとき日本は世界に対して無差別爆撃は違法との宣言を発しうる名誉を手に入れかけたが、対国際的宣伝をしなかった。ドーリットル隊の捕虜の運命については軍事機密扱いに終始し、宣伝と警告に留意しなかった。日本軍は、軍と軍との戦争である第一次世界大戦から、非戦闘員市民を巻き込んでの無差別爆撃当たり前の第二次世界大戦への転換点にたちながら、その意味を深く考えなかった。まして世界戦時国際法のリーダーシップを採る気はさらさらなかった。軍事を思想史的に戦時国際法論として構築する発想に欠けていた。その結果、日本軍は数多の戦死者を出し、かつ捕虜虐待の罪名で数多の戦犯処刑者を出すこととなった。
 
 日本軍の空襲軍律では、左記の行為をなしたる敵航空機搭乗員は銃殺にすると規定されている。
1、 普通人民を威嚇し、又は殺傷することを目的として、爆撃その他の攻撃を為すこと
2、 軍事的性質を有せざる私有財産を焼毀し破壊し、又は損壊することを目的として爆撃、射撃その他の攻撃を為すこと
3、 やむを得ざる場合を除くの外、軍事的目標以外の目標に対し爆撃、射撃その他の攻撃を為すこと
4、 前三号の外、人道を無視したる暴虐非道の行為を為すこと
 この空襲軍律は他国に例がなく、戦時国際法の画期的かつ先駆的価値を持つものであったが、世界に公表せず、?扱いをしていた。法律は公表公布されてこそ有効性が発揮されるが、?扱いではその意味がない。かくして無差別爆撃は処罰されるとの戦時国際法は日本国内でしか適用されず、日本は世界へ宣伝する気もなかった。同盟国のドイツイタリアさえ知らなかった。もちろんヒトラーやムッソリーニが知ったとしても関心を抱くことはなかったであろう。
 かって第二次世界大戦中、日本が無差別爆撃を禁止する法を制定しかつ執行したという事実のみが残ったが、戦時国際法の歴史に名を残し得たのに残すことができなかった。惜しいことであった。風船爆弾という無差別爆撃兵器を開発中であったので、空襲軍律の公表は自分の手を縛ることになるから?扱いをしたのであろう。 
 一九四五年五月十四日 四百八十機のB二九による名古屋空襲があり、死者三百三十八人の犠牲が出た。東区の三菱発動機製作所が軍事目標のはずであったが、被災地は名古屋市内北半分全域に及び、名古屋城天守閣も焼け落ちている。焼夷弾による徹底的な無差別爆撃がなされたのである。B二九は二機が撃墜され、搭乗員十一人が陸軍に逮捕された。陸軍憲兵隊は取り調べをしたうえで、名古屋の第十三方面軍軍律裁判の検察官宛に事件送致をしたのだった。検察官役の法務将校は取り調べをして、陸軍大臣宛に軍律裁判に起訴することの承認申請をしていた。
 早瀬法務少佐はこのことを熟知しており、八幡無差別爆撃を行ったホーキング少尉を空襲軍律違反の嫌疑で軍律裁判に掛けるべきであると考えて、陸軍憲兵隊に取り調べをするよう命令し、事件送致を受けた後は、自ら検察官として取り調べを担当していた。
 軍律裁判は軍法会議とは異なる。軍法会議は主に自国兵士の規律違反を罰するものであり、敵前逃亡兵は銃殺が決まりである。
 軍律裁判は戦闘地域とか占領地域で敵国民や被占領国民に対して占領目的違反を罰するものである。東南アジアで諜報活動に従事する英国将校が軍服を着用していなかったことを理由にスパイと認定され、処刑されている。戦闘員は軍服を着用し軍旗を掲げることで、戦闘員としての待遇を得られ、捕まっても捕虜待遇を受けて処刑されることはない。ホーキング少尉は軍服を着用していたが、無差別爆撃をしたことにより、空襲軍律違反を問われ、捕虜の待遇を得られず軍律裁判の被告人となるのであった。
 ちなみに英国スパイに協力した中国人やインドネシア人が、シンガポールの軍律裁判で処刑された例もある。
 欧州戦線では英語の堪能なドイツ兵が米兵の軍服を着用して偽装攻撃をしたことがあったが、投降し逮捕されたドイツ兵は軍服偽装の罪で現地軍律裁判で銃殺刑に処せられている。
 軍律裁判は、戦闘地域であるが故に、即決非公開、弁護人は無し、上訴も無し、懲役は無くてすべて銃殺ばかりという特殊性を持っていた。これが正当な裁判と言えるかと議論されるが、少なくとも、戦場での即決リンチ処刑を避けて、捜査官である憲兵、検察官としての法務将校、三人の裁判官が法廷を開いて書記官が記録する、処刑の執行は、軍司令官の許可という職責分担の手続き的意味においてまだましな制度であった。これは日本だけではなく、連合国でも同じことであり、各国の軍律裁判は、戦時国際法から許されていたのである。