戦場に法はないのか第三章 早瀬陸軍法務少佐 


早瀬法務少佐は一高から東京帝国大学法学部仏法科卒、高等文官司法科試験に合格し、東京地裁判事、満州国判事を務めた後、陸軍に入り法務将校となった。前線での軍役を避けたい気持ちがあったのも事実であろう。
 早瀬は学校での成績が優秀であった。さほど勉強したこともなかったが、授業を聞いただけで満点を取った。理科も文科もできた。理科の教師は早瀬に理科への進学を勧めたが、早瀬は理科の学生が実験室で徹夜して定理・公式の発明発見に熱中している姿を見て自分には合わないと思った。ケプラーの法則もサイン・コサイン・タンジェントの公式も容易に理解できたが、これらを発明発見する努力を傾注することよりも、紙に書かれた法と目の前の人間を愛した。
 法は自然科学とは異なるが、「汝 人を殺すべからず」の法理は何千年の歴史と何兆何億人の屍体の山積みを経て確立され、この法理が維持定着される為に未だに世界で毎年何百万人の屍体の山を必要としている。
 事実を認定して法を適用する。証明されない事実はないものと見なせばよい。適用する法は紙に書かれている。こんな簡単なことはない。法家を天職と信じ、昭和五年東京地裁判事となった。早瀬は器用な男であった。民事も刑事もそつなくこなした。開始されたばかりの陪審法廷では法律を素人の陪審員に分かりやすく説明し、陪審員たちの受けが良かった。
 
 早瀬は判決で勝ち負けを明瞭に采配したが、敗訴者への気配りを大事にした。「貸した金を返せ」という貸金請求事件で被告が既に弁済したという抗弁をなしたとき、早瀬は証拠を取り調べて弁済は認めがたいと判断したときは、「被告の提出する証拠では弁済の事実を認めるには今一歩足りないから原告の請求を認める」との判決を書いた。「証拠が足りないからと言われるのならば敗訴も仕方がない」と被告も納得するのである。
 筆が走りすぎる判事は「弁済の事実は認めがたいし、さしたる証拠もないのに虚構の弁済の抗弁を提出することは訴訟を延引させる意図も窺われる」と書いてしまい、被告を控訴せざるを得ない立場に追い込んでしまうのである。
 事実は証拠により認定するものであるが、証拠が足りなくて認定できないこともあり、事実は存在するかも知れない。勝訴者はいい。裁判所に向かって喜んで万歳するだけである。敗訴者は恨みを抱いて裁判所を去ることとなるが、司法不信のもとになる。貸し主はたまたま領収書を切らなかったこと、或いは借り主が領収書を紛失したことを奇貨として受け取っていないと言い張っているのが真相かも知れない。判事は神ではない。立証責任の分配の法理はこのためにある。敗訴者を非難しないこと、追い詰めないことが大事だと思っていた。
 早瀬は裁判での和解が上手であった。原告と被告の言い分を足して二で割る式の和解案ではなく、原告と被告に判決はこうなると示唆したうえで和解案を提示し「外角低め一杯のストライクボールです。ちゃんとストライクゾーンに入っています」と言うと、皆バットを振った。
 上司たちは早瀬に司法行政をやらせてみても良いではないかと期待していた。
 刑事判決では早瀬は刑が軽かったので、被告人からは仏の早瀬と呼ばれていた。
「懲役三年にしてつかわす」と言い渡すと、被告人は皆一礼した。死刑判決のときは流石に「死刑に処する」と言い渡したが、判決文朗読のとき、被告人を「極悪非道」と非難しなかった。犯罪事実を証拠により認定し刑法の条文を適用して「死刑以外に選択の余地はない」と述べた。死刑にすることは仏様にすることだ。公開の法廷の場で罵って恥をかかせて死刑にする必要はない。死刑囚の安心立命の妨げになる、と考えていた。

 昭和十年早瀬は所長に呼ばれて満州国判事に任官しないかと誘われた。昭和七年執政溥儀の満州国が日本の丸抱えで建国されていたが、判事が足りないからどうか、俸給は外地手当が付いて日本の大審院判事並みに支給される、と言うのである。早瀬の父親は師範学校校長であったが、前年病気で退職しており、弟・妹への学費の仕送り負担が重かったので早瀬は飛びついた。
 長春は新京と改称され、十万人都市から五十万人都市への大改造計画が進行していた。早瀬は妻子を連れて大連から最新鋭の特急アジア号の一等車に乗り新京駅で降りると沢山の出迎えが待っていた。、東京駅前より広大な駅前広場があり、正面にはヤマトホテルが偉容を誇り官庁街ができつつあった。広い道路は舗装され、公園も整備され、パリ・ロンドンにも勝る美しい都市建設を目指していた。

 早瀬が任された仕事は、兼務もあったが、司法部法学校教官、高等検察庁検事、地方法院判事であった。法学校では満州人司法官養成のため一学年五十人の定員で三年間教育したが、まず驚いたことは、賄賂の横行であり、賄賂を出すことが礼儀、出さないことが無礼との風潮であった。試験の時期になると学生が早瀬の家へ金品を届けに来るのである。早瀬は朝礼で一喝し、「司法官たるべき者は賄賂を根絶しなければならない」と力説した。満州では法よりも賄賂が優先されていた。早瀬は満州国を法治国家にするためには一からやらねばならぬと決心した。
 早瀬が高等検察庁検事のとき、日本では告訴状と呼ぶ「呈文」の処理に当たった。ある時、撫順の李と言う男が呈文を提出したのであるが、法院の前の公園に小屋掛けして泊まり込み、呈文が受理されるまで帰郷しない決意を示した。
「息子李長顕は仕立屋蔡のもとで奉公していたが、古井戸から死体で発見された。検視官は溺死と診断し、撫順の検事は自殺と処理したが、絶対におかしい。蔡が息子を撲殺し、満州人の検視官と検事に賄賂を贈って事件を揉み消し、『訟棍』と呼ばれる訴訟周旋人の白が賄賂を取り次いだに違いない、李長顕の兄が蔡を殺人罪で地検へ告訴したところ、検事は兄を誣告罪で逮捕してしまった」と言うのである。
 早瀬が内偵すると、検事と白の密接な関係が浮かび上がり、県公署(県庁と県警察本部の役割を果たす)の満州人警察官の出動を要請し、特命捜査団を連れて撫順地検へ乗り込んだら、検事と白は前日に逃亡していた。捜査の秘密が漏れているのである。早瀬は、文明以前の国だ、余程慎重にやらないといけないと痛感した。
 早瀬は土葬されていた李長顕の死体を発掘して検視し脳挫傷が死因と解明した。逃げ残っていた検視官と蔡を逮捕すると白状した。蔡が李長顕を撲殺して古井戸に投げ込み、白を使って検事と検視官に贈賄して事件を揉み消したのである。
 早瀬は、蔡を殺人罪で、検視官を収賄罪で起訴し、検事と白を贈収賄罪で指名手配とし、李長顕の兄を釈放した。
 李長顕の父親は公園の小屋を撤収し、早瀬に「満州人より日本人は信頼できる」と言って感謝し、金品を贈呈してきたが、早瀬は笑って「それがいかんのだ」と謝絶した。父親は何度も「謝、謝」と繰り返して帰郷していった。
 早瀬が驚いたことは、満州人検視官が受け取った賄賂が半月分の俸給に過ぎなかったことである。賄賂が蔓延しているから相場が安いのである。早瀬が高検検事長へ報告に行ったとき、日本人と満州人の司法官俸給格差の是正を提言した。
 検事長は答えた。
「満州映画の甘粕正彦理事長も協和会で同じことを言っていた。彼は赴任するや満州人俳優の俸給を二倍にしたのだ。五族協和の国是から言えば当然だ。司法部も来年の予算で検討を始めている」

 早瀬が満州に赴任すると、多くの知り合いが訪ねてきた。この頃日本人が多く満州に来ていたのである。みんな満州で一旗揚げる野望を抱き、満州浪人と呼ばれていた。大学の同級生で満鉄に就職している者がおり、満州案内・民情教示の意味で何度も酒席を共にすることがあったが、それの友人で綾部がいた。鮎川義介の日産コンツェルンは満州重工業を創業して自動車生産に乗り出していたが、綾部はこの用地開発などを下請けしている男であった。民情に詳しく、人当たりの良い男で、「判事様にお近づきになれて光栄です。何でも満州のことはお教えしましょう」と好意的であった。早瀬は何の警戒心もなく付き合った。

 綾部は早瀬をナタルシアの店へ案内した。
 ロシアクラブであり、白系ロシア人のバンドがおり、ジャズを演奏し、ロシア美人がホステスとして横に侍った。マダムはナタルシアと言い、早瀬は見たときその美しさに驚いた。一体歳はいくつであろうか。三十歳半ば過ぎかな、と思った。
 綾部は言った。
「日露戦争のとき、夫君は旅順で戦死し、本人はハンピンで看護婦長をしていた。終戦後ロシアに戻りましたが、ロシア革命で迫害され一族を引き連れて満州まで逃げてきました。一年間韃靼人の妾になって馬車を手に入れたそうです。偉い女傑ですわ。ロシア伯爵の娘であり、五十歳半ば過ぎでしょうか。
 世が世ならば、伯爵の娘として何千の小作人を使い栄耀栄華の暮らしをしていたはずなのに、ボルシェビキに追われ無一文で満州に流れ込み、今ではクラブのマダムですわ。ホステスたちはマダムの姪たちで金を払えばお相手してくれますよ。国が滅ぶとは恐ろしいことです」

 綾部はナタルシアに早瀬を大袈裟に紹介した。
「満州国の司法制度整備のために東京から派遣された判事閣下であり、父上は視学官閣下です」
 ロシアでは、判事や視学官は貴族が務めており、軍人より格上であった。ナタルシアは早瀬が貴族で、故郷に城と荘園を所有していると勝手に思いこみ、貴族同士の近親感で接した。
 早瀬がナタルシアにフランス語で尋ねた。
「日露戦争は一九〇五年に終わり、ロシア革命は一九一七年、この間十二年であった。日露戦争の敗戦がロシアの国力を疲弊させ革命の原因となったと思う。日本を恨んでいますか」
 ナタルシアは答えた。
「露日戦争は双方が対等に戦った戦争であり、敗北は悲しいけれど恨んではいないわ。両軍の兵士は勇敢に戦ったのよ。捕虜になり私が看護した日本兵にも紳士がいたわ。
 卑怯者の恥知らずはレーニンのボルシェビキよ。私の父を反革命と言って裁判にも掛けずに小作人たちを見物に集めて銃殺し、全財産を没収し、着物も宝石も何もかも取り上げてシベリアへ追放したわ。何百万人も殺したのよ。ロシアの文明と伝統を破壊し尽くしたわ。レーニンはプーシキンの詩もトルストイの愛も知らないのよ。

 シベリヤのラーゲリ生活は酷かったわ。脱走して満州に辿り着くまで悲惨だったわ。金貨も宝石もボルシェビキに奪われ、もう体を売るしかなかった。乞食と売春婦同然だったの。ロシア人は満州国是の五族協和の五族には入らないけど、亡命も営業も許してくれたわ。ここで初めて安住の地を得たのよ。
 でも、ボルシェビキは侵略者よ。満州へもいずれ攻めてくるわ。その時白系ロシア人を反ソスパイだと言って処刑するに決まっているわ。姪たちに言っているの。ボルシェビキが攻めてきたら上海まで逃げてアメリカ行きの船に乗りなさいと。船員に膝ついても身を任せてもいいのよ。ここから上海まで長くて辛い旅路が続くけどシベリヤよりましよ。金貨と宝石を隠し持って逃げるのよ。
 今の暮らしは平和だけれど長続きしないと思うわ」
 早瀬が尋ねた。
「貴女もアメリカへ亡命するのですか」
 ナタルシアは答えた。
「いいえ、私はもう歳よ。上海までたどり着けないわ。でもせめて旅順までは行きたい。旅順港口第三砲台から身を投げたいのよ。そこは夫が戦死した場所なの」
 ナタルシアは涙ぐんだ。

 綾部が奥の席を示して言った。
「満州映画の甘粕理事長がいる。関東大震災のとき、アナキストの大杉栄たちを殺して軍法会議で有罪となり仮出所してから満州国に来て協和会の総務部長をして今は満映の理事長だ。横にいるのは共産党の大森銀行ギャング事件で服役した転向男だ。甘粕は好んで左翼崩れの面倒を見ているのだ。満鉄調査部にも左翼崩れはうようよいる。満州とは梁山泊のようなところだ。さらに横には俳優の李香蘭と森繁久弥がいる」

 早瀬は甘粕のところへ近づくことはしなかった。
 早瀬は東京地裁時代、同僚の判事たちと議論したことを思い出した。
 大正十二年の関東大震災のとき、朝鮮人が暴動を起こしたとのデマが飛び、自警団が朝鮮人を何千人も虐殺した。習志野騎兵連隊は亀戸でアナキスト労組員八人を虐殺した。甘粕正彦憲兵大尉は渋谷憲兵分隊長兼麹町分隊長代理であったが、東京憲兵隊本部の森慶治郎憲兵曹長とともに憲兵隊庁舎内でアナキストの大杉栄、内妻の伊藤野枝、六歳の甥を殺した。
 軍法会議で甘粕は自分の判断だけで殺したと言い張り、懲役十年の判決が下りたが、三年で仮出所した。
 甘粕単独犯行説はおかしい。甘粕は森曹長の直属の上司ではない。森が甘粕から殺害命令を受けたとは、軍人の命令系統からいってあり得ない。絶対に憲兵隊上層部から命令が出ており、甘粕と森が実行したのだ。上層部は震災の混乱を利用して大杉らを行方不明扱いにしてしまうつもりだったのだ。
 甘粕は後ろから柔道の絞め技で大杉を絞殺したと自白したが、甘粕は小柄で、大杉は陸軍幼年学校中退の柔道の猛者だからあり得ない。大杉の遺体は殴る蹴るの傷痕だらけであった。数人で取り囲んで暴行したに間違いがない。
 大杉の屍体が発見され大騒ぎになってから憲兵隊上層部は甘粕に因果を言い含んで「三年で出してやる」との密約で下獄させたのだ。軍事警察である憲兵隊が法を犯してリンチ殺人を行うとは何事か。軍法会議の判士たちもふがいがない。軍紀粛正の決意が足りない。三人殺しは死刑に決まっているのに、懲役十年という寛刑で済ませてしまった。
 自分が軍法会議の判士だったら、甘粕に尋問してやる。
「上層部に命令されたのではなく、甘粕自身が命令したと言い張るのか。誰かをかばっているのか」
 甘粕が「自分が命令した」と言い張るのならば、
「憲兵大尉だから法律は分かっている筈だ。法廷で取り調べた証拠だけで判断し、三人殺しは重罰となる。それでもよいか」と問いかけ、甘粕が更に言い張るのならば、死刑判決に処するしかない。勿論軍上層部から猛烈な圧力が襲うであろう。しかし三人殺しを懲役十年で済ませる法はない。自分ならば断固死刑に処したであろう。
 葉巻の紫煙の向こうに甘粕の顔が揺らめいて見えた。

 初めて飲むウオッカはきつかった。酩酊し足腰が立たなくなってきた。横にいるナタルシアの姪スパルシアも血筋のせいか金髪で美しい。綾部はもう一人の姪を抱きかかえ「さあ 行きましょうか」と言い、早瀬もつられて酩酊しながら立ち上がり後を追った。綾部は二階へ上り小部屋の扉を開け、廊下の早瀬に「じゃ 宜しく」と言って消えた。スパルシアは早瀬の腕を取り隣の小部屋へ連れ込み微笑んで抱きついた。
 綾部は「判事様もこれで堕ちたな」と含み笑いをした。
 早瀬はスパルシアの美貌に虜となり、三回通ったが、「自分は凡人の俗物だ。酒にも色にも迷う。分かっていても止められぬ。しかし妻もいるし、悪所通いは判事の身の上ならば慎しまなけれはならぬ」と自分で自分に命じた。

 早瀬が地方法院の裁判長をしているとき、満州人が満州重工業を訴えた裁判を担当した。事件は、工場用地買収のとき、買収金以外に代替地提供の話があり、代替地が荒れ地で翌年からの収穫が不能な場合には三年間収穫保証をする約束があったか否か、というものであった。買収契約書には「三年間収穫保証」の文言は書かれていない。しかし原告になった満州人三十戸は全員文盲であり、文字を読めないまま、指印を押したと主張した。
 早瀬は左右の満州人陪席判事に意見を聞いた。満州人判事は、「証拠主義に従えば買収契約書にかかる文言の記載がない以上、満州人の訴えは認めがたい」と述べた。
 早瀬は、司法部法学校での三年間の教育では原則論を教育するのに手一杯であったな、と思った。
「裁判は、全体を見通さなければならない。例外があることに注意しなければならない。
 この地方の土地買収の相場を調べ、本件買収金が相当なのかを検討すると、三年間の収穫保証を加算しないと、相場に合わない。代替地が荒れ地であることも確認できた。原告たちが文盲であることを日本人は知っていた。ならば文盲から指印を取るときは第三者の立会人を立てなければならないのにしていない。日本人は法律の玄人であり、満州人たちは素人である。日本人は満州人の無知を利用して詐欺したと言いうる。満州人の訴えを認めて、収穫保証の支払いを命ずるべきである」
 満州人判事は「事件を最初に見たときは満州人を勝たせたいと思ったのですが、勝たせる理由を思いつかず、また日本人を勝たせないといけないかとも悩んでいましたが、いい勉強になりました」と早瀬を賞賛した。
 早瀬は、日本人も満州人も法の前では平等であると力説した。 
 判決の前に、綾部が早瀬の自宅を訪れ「満州人寄りの判決は考え直してくれ」と言い出し、早瀬は愕然とし、「裁判への干渉は受けない」と追い返した。
 判決合議の秘密が漏れている。満州人判事か、書記官か、白系ロシア人のタイピストか、と疑り、司法部の改革を唱えるようになった。

 満州人が満州重工業を訴えた裁判では、早瀬裁判長は代替地の現場検証をした。耕作可能か、価値はいくらかかという検証である。満州国首都の新京地方法院から官用車のシボレーに乗って向かったが、最初の三十分で舗装道路は終わり、後二時間ガタガタ道を走って検証現場にたどり着いた。現場は畑と林が交錯する田舎であるが、新京市内ではある。代替地と言われるところは岩場に等しく開墾するには苦労することは見込まれ、とても耕作用の代替地と言える代物ではなかった。写真を撮影し地図作成をしていたところ、日本軍憲兵隊と満州国軍兵士が十人の便衣兵を連行しているのに遭遇した。早瀬は身分を明かして日本の憲兵隊長に何事ですかと質問すると、
 憲兵隊長は「自分は憲兵大尉の伊東であります。共産匪賊部隊が警察の派出所を襲撃し、満州人警察官三人を殺害し銃器を奪ったので、本隊が討伐に出動し銃撃戦の結果、十五人射殺、十人逮捕の成果を得たのであります。十人は直ちにこの現地において死刑処分を実行します」と説明した。
 早瀬は驚いて「十人は捕虜ではないか。新京に連行して捕虜とするか、処罰する罪名理由があれば予審判事に引き渡すべきであり、現地即決死刑処分は手続き的にまちがいではないか」と質問すると、伊東大尉は「ここは戦場であります。敵の応援軍がいつ襲撃してくるか分かりません。現場即決死刑処分は当然のことです」と答えた。
 早瀬は「ここは首都たる新京市内である。新京地方法院の管轄であるから予審判事に引き渡すべきである」と重ねて言うと、伊東大尉は軽蔑した表情で「ここは戦地であります。戦地は憲兵隊の管轄であります」と答えて敬礼、回れ右をした。
 憲兵隊によってかり集められた近所の農民たち百人の目の前で、十人の共産匪賊は穴を掘らされその前に座らされた。十人は泣き叫ぶわけでもなく、中国人特有の、メイヨー仕方ないとの表情で運命を受容している様子である
 伊東大尉の命令で最近来たばかりの新兵の肝試しと称して銃剣による刺殺と打ち首が十度繰り返された。死体は穴の中に蹴り落とされ、埋め戻された。伊東大尉は見物に集めた近所の農民に対して「共産匪賊の運命はこうなる。協力すれば同罪にする」と満州語で伝えた。
 早瀬は見るに堪えぬという表情で終始を見ていたが、その早瀬を見て伊東大尉は、東京地裁の赤色判事事件を思い出した。
 読者にはわかりにくい話であるが、要するに最近のフィリピンの大統領は「イスラム反乱分子と麻薬密売人は裁判にかけるまでもなく現場で処刑してしまえ」と言っているが、これと同じ話です。

 暫定懲治盗匪法に「臨陣格殺」という制度があった。軍警が「戦闘地域」において、「部隊編成をなす盗匪を逮捕し、緊急事態にあるとき」は、軍警隊長は現地で適宜死刑処分ができる、というものである。
 実際、軍警部隊や関東軍が匪賊部隊と交戦し、逮捕したときは、捕虜の待遇を与えず、裁判に掛けることもせずにその場で銃殺していたのである。
 当時満州で「盗匪」と呼ばれる者は「共匪」が主であった。山賊団もいるにはいたが、昔ほどいる訳ではなく、多くは延安の共産党からの指令を受けた共産党ゲリラであった。
 
 早瀬は司法部と関東軍参謀本部の連絡会議で暫行懲治盗匪法の「臨陣格殺」の廃止を提言した。
「共匪」と呼んでも、国家・国軍の大義名分から言えば、中華民国第八路軍である。昭和十二年国民党と共産党は国共合作を行い、共産軍は中華民国軍に編入されている。ならば、共匪討伐は中華民国軍と満州国軍及び日本関東軍との国際戦争であり、彼らを逮捕したときは国際法を適用して捕虜の待遇を与えるべきであり、現地処刑は禁止されるべきである。
 確かに「共匪」は軍服を着用せず便衣のままであるが、一九〇七年ハーグ条約、一九二九年ジュネーブ条約によれば、民兵・義勇兵にも国際法上の交戦者の資格を認め、
「部下の為に責任を負う者其の頭に在ること
 遠方より認識しうる固有の特殊徽章を有すること
 公然兵器を携帯すること
 其の動作に付き戦争の法規慣例を遵守すること 」
を要件として認めている。共匪部隊はこの要件に該当し、山賊扱いはできない。
 アメリカ建国では、十九世紀末まで、白人はインディアン部落を襲撃して女子供まで虐殺し土地を奪った。これは「臨陣格殺」と同じ事である。アメリカがインディアンに市民権を与えたのは一九二四年と最近のことであり、それまでは敵国民の扱いで、かつ国際法も適用しなかった。
 満州国建国では、五族協和、すなわち満州民族、漢民族、朝鮮民族、蒙古民族、日本民族を対等に扱うことを唱道している。「匪賊」「共匪」を「臨陣格殺」し続けるのならば、アメリカのインディアン殺しと同じ事となり、五族協和の国是に反することとなる。満州国建国はアメリカ建国より文明的でなければならない。逮捕した「匪賊」「共匪」は、中華民国兵ならば捕虜待遇を与え、満州国民ならば裁判を開いて処罰すべきである。

 司法部の判事は早瀬に同調した。関東軍参謀たちは最初は反発するものの「戦場の緊迫した状況下では捕虜を連行することも危険であり、現地処刑は必要性があるが、早瀬の提言は建前としては正論」との雰囲気が出始めてきた。
 最後に早瀬が言った。
「国際法では相互主義があり、捕虜待遇を与えないと、日本兵が捕まったとき、捕虜待遇が与えられず報復として現地処刑をされてしまう」
 関東軍参謀の中佐が軍刀を床にドンと叩き付けた。
「皇軍に捕虜はいない。戦陣訓には、生きて虜囚の辱めを受けず、と定められている」
 これで話がおかしくなってしまい、連絡会議は混乱して流会になってしまった。
 
 これを契機に綾部と伊東憲兵大尉が動き出した。
「戦場を知らない法匪の早瀬は酒色に溺れ、共匪のシンパになったアカである。東京地裁の赤色判事事件の再来である。早瀬は、畏れ多くも天皇と呼び捨てにして天皇陛下と呼ばない不敬の輩である」と悪口を触れ回った。
 実は、綾部は神兵隊事件の残党であり、検事判事に対する恐喝法廷闘争の成功体験者であった。
 早瀬は右も左も嫌いであった。「マルクス・レーニン主義万歳、革命勝利」を叫ぶ左も、「天照大御神・天皇陛下」と祝詞をあげる右も嫌いであった。「自分の思想や信仰を他人に強制するべきではない。そんなことは家の中でしておればよい。外に出たら世のため人のためにやることが他にあるだろう」と思っていた。
 天皇呼び捨ての件は、ナタルシアの店で飲んでいるときに、天皇大権が話題になり、早瀬が「天皇」と呼び、綾部が「陛下を付けなければいかんでしょう」と言ったとき、早瀬は「大日本帝国憲法には天皇と記載され、天皇陛下とは記載されていない」と答えた。そのとき綾部は「流石、判事様でいらっしゃる」と相槌を打ったが、眼の奥に怪しい光が点灯するのを早瀬は気が付かなかった。
 早瀬はナタルシアの店へは三回で行くのを止めたが、この「酒色に溺れ」の非難には窮した。妻に聞こえては一大事なのである。
 こうした頃、早瀬には肺浸潤の診断が下りた。満州の寒気は早瀬の肺を冒していたのである。早瀬は天命が下りたような気がし、東京へ帰国を申請したところ、戦時下で裁判所の余裕はないが、陸軍法務将校は足りないので募集しているくらいである、との話があり、昭和十六年早瀬は六年間の満州滞在を終えて帰国した。昭和十八年に満鉄調査部事件が起きた。満鉄調査部の中に日本共産党を再建しようと社員がいるとの特高と憲兵隊のでっち上げで多くの社員が嫌疑をかけられて逮捕され過酷な拷問で自白させられた。日本国内では横浜事件と言って同じような弾圧事件があった。すでに日本共産党など日本国内には存在せず、徳田球一、宮本顯治、志賀義雄ら不転向幹部らが刑務所の中で隔離されていただけであり、日本共産党は社会には一人も存在していなかった。しかし、特高としては日本共産党の再建話がなければ失業する。満鉄調査部事件でも横浜事件でも、少し赤っぽい議論を好む者を発見すると、日本共産党の再建を計画していると見なして逮捕拷問をした。拷問の中で何人も犠牲者が出た。
 ソ連共産党→コミュンテルン→日本共産党という指揮命令系統以外に、スターリン→ソ連赤軍諜報部→ドイツ地方新聞社派遣記者ゾルゲのスパイ組織という系統もあったから、特高の被害妄想とのみ言いがたいが、満鉄事件、横浜事件では、単に赤かがった議論を好む者を日本共産党再建者として摘発拷問したのである。生活協同組合・農業協同組合とか満州人との友好交流を企画する者とか、普通選挙権を主張する者、男女平等を主張する者、とにかく何でも左翼的と見られる者は皆弾圧された。だから生き残りたい者は右翼の真似ごとをした。毎朝天皇陛下万歳を三唱し二宮尊徳を崇拝した振りをして、生活協同組合とか農民組合とか修身修養団体の中で目立たないようにしていた。レーニンの共産党とヒットラーの国家社会主義労働者党とは、右手と左手で握り合える近さなのである。
 オウム真理教は既に解体消滅しているのに、公安調査庁は破防法指定をやめない。失業を恐れているからである。
 早瀬が昭和十六年に帰国したのは正解であった。あのまま満州におれば綾部と伊東の画策により満鉄調査部事件に連座させられたであろう。

 早瀬家は師範学校校長を父とする十一人兄弟、長女が嫁に行ってから末娘が産まれ、既に腸カタルと赤痢で幼児が二人病死していた。姉二人は肺結核で女学校時代に死亡し、日英交換船で帰国した長兄は昭和十九年に肺結核で死亡した。 

 長兄は東京帝国大学文学部から英国歴史研究のためオックスフォード大学へ留学していたが、開戦となり、滞英の外交官や民間人と共に昭和十七年九月、交換船の龍田丸で帰国した。この交換船は太平洋戦争中二回実施され、英米滞在の日本人を中立国ポルトガル船に乗せ、アフリカで日本から出迎えの龍田丸に乗り換えて帰国した。
 長兄は語った。
「帰国してから復学したが、洋行帰りのスパイ扱いで特高の尾行付きがしばらく続いた。交換船がシンガポールに着いたとき占領地での通訳募集があり、多くの人が応じた。内地に居場所のない連中とか、少し赤がかった連中は内地の窮屈な生活を予感して通訳募集に応じたのである。徴兵年齢の連中は徴兵を免れるために殆ど応じた。彼らは占領地のタイ・ビルマ・マレーシア・ボルネオ・インドネシアに派遣され占領本部や捕虜収容所で通訳をしている」
 長兄が鞄からレコードを取り出し、蓄音機のハンドルを回しながら言った。
「これはロンドン土産だ。本日の本席が本邦初演ということになった。ドイツ人の作詞作曲だから、まずドイツで流行り、ドイツから亡命してきた歌手のマリーネ・ディートリッヒが英語で歌い始めて連合国軍のなかでも広まった。ロンドンのパブではこれを聴くと、男も女も戦死者を偲んでむせび泣
きをするんだよ」
 哀愁に満ちた歌声、途中からマーチ調になりドラムの音が軍靴の響きのように聞こえた。
「ロンドンは焼け野原だが、英国人の戦闘意欲は強い。だからヒットラーは英国本土上陸作戦を断念したようだ。代わりにソ連を攻めて最初は大勝利であったが、冬将軍の到来とともに負け戦になったようだ。ナポレオンさえ敗れたのに、ヒットラーが勝てるはずがない。日本軍はヒトラーの勝ち戦に乗じバスに乗り遅れるなとの単純な発想で真珠湾を攻めたが全くの間違いだ。
 日本は英米人を馬鹿にしているがこれは間違いだ。交換船で帰国するとき、日本の特殊潜航艇でシドニー湾に突入して戦死した四人の日本兵の遺骨が寄港地のアフリカで積み込まれた。豪州軍は日本兵を海軍葬で弔い、遺骨を交換船に託したのだ。彼らは礼節を知っている。シンガポールに寄港上陸したとき、憲兵が中国人を手荒に扱っているのを目撃した。アジア民族解放戦争という大義があるのならば、まず中国人と友好を深めなければならないのに、やっていることは反対だ。
 欧州の戦争は激化の一方だ。第一次大戦と比べて飛躍的に兵器が残虐になっている。民間人に対する無差別爆撃は両軍の常識になってきた。とてつもない数の人間が死ぬだろう。特に科学兵器の進化が凄い。アトミック・ボンブなる爆弾が研究されており、先に完成させた方が勝つと言われている。日本は勝てんよ。鉄鋼生産量で完全に負けている。戦争は鉄だ。日本が勝てるはずがない。 
 まあこういうことを帰国後大学の仲間に内輪で話していたところ、運悪く特高に捕まり、留置場で拷問だった。そのあと病気になり、お前の助けでようやく出られたが、どうも肺結核らしい」
 と咳き込み、話していたのが、思い出される。
 早瀬は兄の話に同感であった。この戦争は負けるだろう。しかし、法家のなかの法官である自分には何ができるのか。法により授与された権限の範囲内でしか動くことができないし、またそうするべきであるし、それを怠るべきではない、と考えた。

 早瀬は昭和十六年の帰国後第一師団付きで陸軍大学に留学
派遣された。昭和十七年の兵制改革で文官たる法務官が兵科将校になったので、早瀬には射撃訓練など武官としての教練が義務となった。早瀬が一番苦労したのは騎馬訓練であった。騎兵軍曹が指導してくれたが、早瀬には不向きであった。
 上官の騎兵大尉は、上海から南京へ赴任するときは全行程10日間騎馬となります。落馬していては南京に到達できませんぞと脅かすが、早瀬の馬術は一向に上達しなかった。そのとき、教えてくれたのは李大尉であった。大韓帝国の末裔、国王の従兄弟の子に当たる。日韓併合後韓国の王族は日本の皇族待遇となり資産と給与は保証されていたが、王族男子の場合世間体を維持するために軍人となる例が多かった。李大尉も日韓併合後学習院に留学し陸軍士官学校をへて陸軍大学に進学した。成績は無関係で、ただ日本は韓国王族に対する好待遇を演出する為だけであった。李大尉は第一師団付きの騎兵大尉となり、お付きの部下を持つ身分となったが、権力も権限もなく暇をもてあましているお客様であった。当時任官間もない陸軍将校は中国大陸に出陣していたが、韓国王族には出動命令は出なかった。
 李大尉は早瀬のヘッピリ腰を見かねて指導に乗り出してくれ三週間もすると早瀬でも何とか乗りこなせるように成長した。ここから、早瀬と韓国王族との付き合いが始まった。早瀬は李大尉が日韓併合について不満を抱いているのではないかと危惧し、日韓問題については議論を避けるようにしていたが、李大尉の方から話しかけてきた。
「日韓併合は、紆余曲折はあったが、妥当な方向を向いています。大韓帝国は併合により国家としての資格を喪失した訳ですが,民の生活は向上し、産業は発展しています。あのまま日韓併合しなければ、大韓帝国は分裂するか、ロシアの植民地になっていたでしょう。日本のおかげで、助かっているのです。我々王族や有力豪族の生活を保障してくれた。下民草に至っても、生活は良くなっています。鉄道も治水も農業も改善されました。しかし中間層と知識層はいまだに反対を唱えています。国の独立を失ったことと日本語や創氏創名の強制で国を滅ぼされたというのです。創氏創名は強制ではありません。実際王族の私はしておりませんし、誰からも強制されていません。
 しかし韓国の歴史をみると、漢に支配され、隋に攻められ、元に占領され、真の独立国家であった時代はありません。東北アジアの地勢は複雑です。韓国はその真ん中にあって独立性を守り国富を目的として戦ったり寝込んだふりしてきました。ご理解願えますか」

 早瀬は李大尉と交際する中で国際国事の難しさを痛感した。日本が韓国を併合したことを国威の発露として右翼は万歳するが、万歳している時間はない、韓国民草をこの年どうやって食わせていけれるかどうかが問題なのである。早瀬はこれ以降韓国民に会うとき、特に敬礼の礼節を大事にするようになった。

法務将校は師団司令部に所属し、捜査機関である憲兵隊を指揮し、検察官として起訴を担当する。軍律裁判の裁判官は兵科将校と法務将校が務める。

 七月七日、憲兵隊から早瀬少佐に事件送致書が届いた。八幡管区憲兵隊作成の地図と、写真付きの部厚い空襲罹災報告書、さらにホーキング少尉の供述調書が添付されている。早瀬はホーキング少尉の殺戮の故意の認識の捜査を開始した。 通訳は開戦直前にバンクーバーから一時帰国したまま帰米できなくなった二世の広島師団所属の上等兵が当たり、法務曹長二人が書記に当たった。むし暑かった七月のある日、広島の師団司令部の取調室で都合五人が相対峙し、汗だくのなかで取り調べは進んだ。
まず、ホーキング少尉の人定質問から始まった。
 ジョージア州アトランタ出身、州立大学工学部二年生で陸軍へ志願、航空機関士となりテニアン島へ赴任、四回目の日本本土攻撃であり、五月十四日の名古屋爆撃にも参加している。
「爆撃目標は何か」
「ヤハタ製鉄所である」
「しかし、製鉄所には一発しか命中せず、市街地内に大規模な爆撃をしたのは何故か」
「ヤハタそのものが防備都市であり、ヤハタ市街全域に対する爆撃が命じられている」
「非戦闘員の市民、女子供の死者が多数出ている。これらへの爆撃命令を受けたのか」
「ヤハタへの爆撃が命令であり、私は命令を忠実に守ったに過ぎない」
「通常爆弾を使用せず、焼夷弾を使用した訳は」
「命令に従ったことである」
「焼夷弾使用は市街地民家の焼き尽くしが目的か」
「その目的は知らない。命令に従ったまでのこと。そもそも私は捕虜である。捕虜はジュネーブ条約で、氏名・階級名以外の供述を強制されないことになっている。何故かかる尋問がなされるのか、この席が何なのか疑う」
 通訳兵はアメリカ語ほど日本語に精通していない。たどたどしい通訳ながら、早瀬少佐はホーキング少尉が自分の置かれた位置に気づいていないことを察した。
 早瀬少佐は通訳兵に、空襲軍律を翻訳してやれと命じた。
 翻訳が終わると、早瀬少佐は通訳兵に
「お前は無差別爆撃 人道無視の暴虐非道な被告人だ、軍律裁判に掛けられて法の裁きを受けるのだ。ドーリットル隊員は処刑されたし、貴官も参加した名古屋空襲で墜落した米兵も、軍律裁判を受けている最中だ。これも間もなく処刑されると通訳してやれ」と命じた。
 ホーキング少尉は、自分が死刑になる瀬戸際であることにやっと気付いたようだ。端正な顔が歪み、額から脂汗が流れ出した。
 
 名古屋空襲は五月十四日、テニアン基地から四百八十機が出撃し、ホーキング少尉の乗機も参加した。目標は名古屋市北部の三菱発動機製作所を中心とする北部全域であった。早朝、紀伊半島を経由し木曽三川を目印にして名古屋市内へ侵入し焼夷弾をばらまいて浜名湖から帰路についた。帰ってこなかったのは二機だけであった。一機の航空機関士ピーターソン中尉とは同じアトランタ出身ということで仲が良かった。あの夜、ホーキング少尉はテニアンの滑走路で待ち続けていたが、燃料切れの時刻は過ぎているのに、待てども待てどもピーターソン中尉の乗機は帰っては来なかった。
 あのピーターソン中尉も、自分と同じく軍律裁判に掛けられ死刑になろうとしているのだろうか。
 発進前の命令伝達式で、爆撃目標は名古屋市北部全域と告げられたとき、搭乗員の誰からも質問は出なかった。三月の東京空襲以来、市街地への焼夷弾爆撃は作戦上の常識となっていたのである。
 ホーキング少尉は燃え上がる東京や名古屋の市街地を見て、この下に女子供が右往左往して逃げ回り、ついに力尽き焼け死んでいったのかと思ったが、これが戦争、一刻も早く終わらせねばならない戦争だからと自分を納得させていた。カミカゼ特攻隊のように日本人は自殺さえ躊躇わずに突撃してくる野蛮人であり、皆殺しの対象として当然である。全滅させなければこの戦争は終わらない、と戦闘体験のなかから信ずるようになっていた。しかしその野蛮人から、無差別爆撃は人道無視で、国際法違反だと、軍律裁判を掛けられるとは一体どういうことなのか。

「真珠湾で日本は、無通告の騙し討ち攻撃をした。日本はその報復を受けなければならない。ヒットラーもロンドン市街地に無差別爆撃をして、多数の市民を虐殺した。去年からのV号ロケット弾は、ロンドン市街地内外を問わず破壊している。だから連合軍はハンブルグ、ドレスデン爆撃で逆襲した。もはや近代戦では敵国の経済力や戦闘力に対しての破壊が常識だ。市民が爆撃を避けたければ、軍事目標から離れなければならないのだ。ザッツ ウォー これは戦争なのだ。仕様がない」
 早瀬少佐は答えた。
「真珠湾で日本軍は、軍艦や飛行場等の軍事施設以外には攻撃しなかった。今まで日本軍がアメリカの市民に無差別爆撃をしたことはない。貴官も知っているはずだ。非戦闘員であるアメリカ市民に、戦死者は一人もいない。いるのならば何処の誰だか言って欲しい。太平洋は欧州ではないのだ。米軍は何故、日本市民を殺戮する権利があるのか」
 ホーキング少尉は一瞬黙り込みやがてこう言った。
「軍司令部が決定した命令である。一兵士である自分が拒絶すれば、抗命罪となって軍法会議だ。ヤハタ製鉄所と周りの市街地全域への爆撃が命令であった。自分はこれに従っただけである。捕虜の処刑は国際法違反だ。貴官は戦後処罰されるであろう」
 早瀬少佐は尋問の終了を告げ、法務曹長に供述調書の作成を命じた。
 ホーキング少尉は
「ほかの米兵はどうなったのか」
と問うた。
「貴官が別府に降下しなくて幸いであった。憲兵隊が到着するより前に、民間人によって既に殺害されていた。海軍警備艇に救助された六人は、海軍の呉捕虜収容所で元気だ。後は行方不明である」
「六人はどうなるのか」
「海軍には空襲軍律がない。だから軍律裁判を受けることはなく、捕虜収容所行きである」
 早瀬少佐は、ホーキング少尉には理解しかねるだろうと想像した。やはりその通りで、通訳兵に重ねて質問をしている。通訳兵は、陸軍と海軍とではやり方が違うと説明しているらしいが、完璧には理解しかねる様子である。海軍では占領地域とか戦闘地域という面の概念がなく、支配地の秩序維持を目的とする軍律を制定する必要を覚えない。陸軍が空襲軍律を制定しても海軍は制定せず、結局海軍に捕まった米兵は捕虜収容所に送られ、軍律裁判に掛けられて死刑になることもなかったのである。
 ホーキング少尉は六人が無事なのをひどく喜び、
「面会したい。せめて手紙を出したい」
と頼んだが、早瀬は「捕虜同士の通信は禁止されている。君の生存の事実は国際赤十字を通じて母国に連絡されるし、君の手紙も母国の家族に届けられる。その後六人に伝わるであろう」と答えた。

 法務曹長二人がホーキング少尉の和文英文の供述調書を書き上げ、通訳が読み上げ、少尉のサインを取り、早瀬少佐が署名押印する頃、既に広島は夏の夜となり、灯火管制下真っ暗闇のなか、広島城内の藪では、高らかに夏虫が鳴き競っていた。