戦場に法はないのか第四章 ソーリー サチコ 


ホーキングは昔ロスアンジェルスに住んでいた。
リトルトーキョーという日本人街が近くにあり何度も行った。日本人の洗濯屋があり仕事ぶりが丁寧だったので贔屓にしていた。ボタンが取れていれば付けてくれたが、前に使っていた中国人の店ではしてくれなかった。ボタンが取れていると言うと、前から取れていたのだと言い張った。この洗濯屋の娘のサチコはソーリーと言ってその場でボタンを付けてくれた。やさしい娘だったので付き合った。我が儘でなく温和しく、何でもアイムソーリーと言うのが口癖だった。話をするとき俺の話を一々頷いて聞き、話すときは「ソーリー お話ししてもいいでしょうか」と尋ねた。だからホーキングは「ソーリー サチコ」と呼んだ。ホーキングの家では、足を踏んだとき「俺の靴の下に君の靴があるのは何故だ」と言うように教育されてきた。優しさが全然違うのに驚いた。
 ホーキングは熊のような大男ったが、サチコは小さくてその細い肩を抱きしめると壊れそうだった。ホーキングの家族は皆わし鼻がでかくて扉の開け閉めでよく鼻を打つ。兄がアメリカ女と最初のキスをしたとき、焦って鼻を打ち女に怒られたと言っていた。サチコの鼻は可愛くてキスしても邪魔にならないのは便利だった。サチコのことを両親に話したら怒り狂ったように反対された。黄色い醜い人種だと言うのだ。母親なんかひどかった。「ブルーアイのブロンド娘以外許さない」と、ホーキングの頬を平手打ちした。
 家庭内の揉め事は良くない。ホーキングは悩んだが、サチコの二十歳の誕生日の十二月七日の日曜日、 薔薇の花束を持ってサチコの店へ車を走らせた。サチコの店の営業日だったが、誕生日のお祝いを届けたかったのだ。
 市街を走っていくと、どうも様子が変だ。人が通りへ飛び出して何か叫んでいる。車がクラクションを激しく鳴らす。鉄砲を空に向かい撃つ者もいた。ビルの窓からは紙吹雪が舞っていた。群衆たちの興奮が異常に激しい。新聞社の前で車を止めて聞くと、取り囲んでいた人々が口々に叫んでいた。
「ジャップが真珠湾を騙し討ちした。無通告開戦だ。戦艦アリゾナが炎上している。今までの野村大使に加えて先月は来栖大使を送ってきたのは、日米交渉をしているとの見せかけだったのだ。卑怯者のジャップのテンノーは縛り首だ」
 ホーキングはその場で決意した。空から舞い降りる紙吹雪目がけて花束を投げた。二十本の赤い薔薇が紙吹雪と共に飛んだ。車をユーターンさせて陸軍募兵事務所へ乗り付け、扉を蹴って飛び込み、俺は「陸軍に志願する」と怒鳴った。
 所長の退役大佐が俺を抱きしめ、「星条旗は君を歓迎する」と言った。両親の反対もあったし、それに戦争に出かける男には恋愛は無縁だ。生きて帰って来られたら又考えようとホーキングは思った。サチコには連絡もせず入営して訓練の毎日だったが、翌一九四二年五月新聞を読んでいたら
「リトルトーキョーの日本人 強制収容所行き」
 との記事が眼にとまり、心配になって外出許可を貰うと、その日軍服姿で出かけた。
 家々には「セール」と書かれた札が貼られ、通りには家財道具が積み上げられ、競りが始まっていた。叩き売りだよ。サチコがバスの前にいた。初夏なのに沢山のドレスを着込んでいた。携帯品は鞄一つという条件なので着られるだけ着ていたのだ。帽子も三つかぶっている。真ん中の帽子の縁を見ると、俺がプレゼントした藤の花飾りの帽子だ。近寄ろうとすると、サチコが気付いて目を伏し顎を引き下げ顔を背けた。まるで「アメリカの軍人さんが日本娘と知り合いだなんて世間様に知られたら貴方にとって困りものよ」と言っているようだった。
 アメリカ女なら絶対に違う。俺の頬を平手打ちにするか、しなくても軽蔑と憎悪の目の炎を投げ、顎を立ててプイとしたであろう。
 その時ホーキングは何もしなかった。卑怯者の恥知らずだったと後悔する。何もしなかった。本当に何もしなかったのだ。日本人を満載したバスが出て行く。ただ呆然として見送るだけのホーキングだった。そしてサチコの腹が少し膨らんでいることにも気づかなかった。戦争は男と女の運命を分かつものである。
 日本人が去ったあと、通りの売れ残りの家財道具の山に向かって略奪が始まった。釘付けをした扉を破って強奪しようとする者もいた。石が飛び窓のガラスが割れた。ホーキングは泣きながら兵営に帰った。
 あれからサチコはどうしているだろうか。長いこと考えて今ホーキングは決心している。戦争もいずれ終わるだろう。俺もサチコも収容所暮らしの同じ立場だ。帰国したらサチコの収容所へ行って膝まづき頭を垂れて赦しを請おう。死刑にならなければのことだが。

 サチコが送られたのはコロラド州の日本人収容所であった。真珠湾の開戦後、アメリカ政府は西部に居住するすべての日本人を収容所に送り込んだ。一世も、アメリカで生まれた故に市民権を持つ二世三世もである。日本軍のスパイとなって情報を日本へ打電したり、破壊工作をしないようにするためであった。東部アメリカに居住する日本人に対しては収容しなかった。人数が少なくその必要を認めなかったことによるが、それは強制収容の意味を否定するにも等しかった。ドイツ人イタリア人の強制収容はなかった。人種差別であるとの批判が戦後巻き起こり、レーガン大統領は生存している日本人に一人一万ドルの見舞金を支払って慰謝した。
 アメリカ政府の危惧は当たらなかった。日本はアメリカ内にスパイ活動を組織していなかったし、反米破壊活動をできる素地は全くなかった。日露戦争のときは十年も前から明石元二カ陸軍大佐をはじめとする諜報団がロシア後方で暗躍し、情報の入手や撹乱工作さらには反政府勢力への武器支援をしており、明石大佐の活躍は一個師団の戦力に匹敵した。アメリカ政府はこれを知っているので日本人の強制収容を決意したのだが、全くの杞憂であった。
 日本は日露戦争のときは万全の用意をして臨んだが、日米開戦のときはまったく用意がなかった。一人のスパイもアメリカに置いてはいなかった。昭和十六年春になるまでは日本軍は対英米開戦を予定していなかった。マレースマトラシンガポールの兵要地誌の作成に取りかかったのはこの頃以降である。たった半年の準備で対英米戦を開戦したのであり、準備不足は著しかった。真珠湾での偵察もそうである。ホノルル大使館員が素人スパイをしてアメリカ軍を偵察していたのであり、アメリカ軍空母の所在を掴めなかった。そのとき明石大佐がハワイにスパイでおれば精密なスパイ網を建設し空母乗組員の家庭を調べ上げその出勤日程から空母の所在を把握して日本に打電できたはずである。
 赤穂浪士でさえ吉良の在宅と屋敷の見取り図を入手して討ち入ったのである。日本軍はアメリカ軍空母の所在を不明のまま、真珠湾攻撃に踏み切り、空母を打ち漏らす失態を演じた。その結果はミッドウェイで示された。スパイに不向きな
職業は公務員である。北朝鮮の日本人拉致事件が混迷をきたしているが、日本外務省公務員どもの無能による結果である。情報が採れていない。次の一手の秘策もない。外務省による拉致事件対策はやめた方が良い。人件費がかかるばかりである。
 サチコたちは何度か移動させられた後、昭和十七年夏にはコロラド州の強制収容所に入らされた。刑務所ではないので所内での自由は認められ、使役はなく収容者による一定の自治も認められた。食料の心配はなかった。終戦までの四年間は長かったが、サチコは男児を出産し、チカラと名付けた。ホーキングへは何の連絡もしなかった。彼が出征したことは分かっていたので、全ては戦争終了後に運命を先延ばしにした格好となった。チカラは元気に成長し、三歳になった昭和二十年四月チカラは空を指さし「ママ、ホワッツ あれ何」と叫んだ。見上げると高度何千メートルか分からない高空にアドバルーンのような物体が西から東へ流れていくのが見えた。ロープで何かがつり下げられている。
「アメリカ軍の気象観測気球じゃないかね。初めて見たが」とか「戦闘機の銃撃訓練用の標的気球かな」という声があったが、日本人たちは首をひねりながら奇妙な風船が東の山陰に消えていくまで見続けた。
 この気球は日本軍が放った風船爆弾であった。当時の気象学で、日本からアメリカまで高度八千メートルから一万メートルで時速二百キロの偏西風が吹いており、二日で日本からアメリカに到達しうることが分かっていた。またアメリカ西部の森林地帯では定期的に乾燥による山火事が多発し一郡全部焼け野原となるような大火事が発生することが知られていた。日本軍はここに着目して爆弾をぶら下げた風船爆弾を日本から飛ばせば二日でアメリカに到達し山火事を発生させ、後方攪乱をさせることができると計画した。この結果昭和十九年冬から昭和二十年春にかけて九千発の風船爆弾を放った。
製造には女学生が動員され休演している日劇などのホール公会堂で製造された。原料はコンニャク糊と和紙という純国産であり女学生が手で貼り合わせ水素を充填してできあがった。日本軍にとって輸入に頼らない純国産兵器であった。ドイツはV一号V二号ロケットをハイテク技術で製造し、アメリカは原子爆弾を製造したが、日本軍は糊と紙のロウテク技術で風船爆弾を製造した。
 風船の直径は十メートル、二キロ焼夷弾と十五キロ爆弾をつり下げた。気圧計により錘の砂が落下され常時高度八千メートルから一万メートルが維持されるよう製造された。
アメリカ軍の発表によると、アメリカ大陸に到達した風船爆弾は三百六十一個である。しかし湖沼砂漠山岳地帯など目視できない場所に落ちた風船爆弾は計算できないから、もっと多いはずであるが、しかし統計からして途中損耗率の多い兵器とは言える。
 一番途中損耗率の多い兵器は人間ロケット桜花である。一式陸攻に搭載されて特攻に出撃したが、全部途中で撃墜されており百パーセントの失敗率であった。
 この風船爆弾は操縦が効かずどこに落ちるか分からないという意味において、無差別攻撃兵器であった。アメリカ軍はB二九で焼夷弾の無差別爆撃をしたが、日本軍も同じようにしていたのである。ただ、命中率が甚だしく悪いのが風船爆弾であった。九千発の風船爆弾のうち一体何発が山火事に成功したのか計算ができない。湖沼、砂漠、不毛地帯に落ちれば発火しても森林火災を発生させないし、そもそも対人殺傷の可能性の著しく低い兵器であった。これをもって日本軍も無差別攻撃をしたと言われては異論もあるが、実際犠牲者もいるから、無差別爆撃は日米双方にあったと言わざるを得ない。ただし犠牲者の数の差は大きい。
 
 サチコとチカラが見た気球はオレゴン州の東部森林地帯に着陸したが木の枝に引っかかり衝撃信管は不発のママであった。小さなブライ村の牧師夫妻と生徒たちは昭和二十年五月五日の日曜日山へピクニックへ出かけ高い木の枝に引っかかっている風船爆弾を見つけ何か分からず引っ張ったところ爆発し牧師夫妻と生徒ら六人が死亡した。風船爆弾による対人戦果はこれだけである。
 一方、アメリカ軍による日本本土空襲の戦死者は約五十万人、うち広島原爆二十二万人、長崎原爆七万人である。
 日米無差別爆撃の貸借対照表は五十万対六に終わった。この数字に間違いはない。真珠湾でも日本軍は軍事目標以外に攻撃していない。日本軍は弾がもったいないといつも考えている。非戦闘員を殺傷する目的を最初から抱いてはいなかった。しかし、戦局悪化のなかで非戦闘員に対する虐待は激増していった。その典型例は捕虜虐待である。
 昭和十九年から二十年にかけて風船爆弾の製造に青春の一年をかけた女学生たち十四人は自分が製造した風船爆弾によりアメリカに犠牲者が六人発生していることに心を痛め、一九六六年にオレゴン州の犠牲現場を弔問献花した。
 広島に原爆を落としたB二十九エノラゲイ号の機長は広島へ弔問献花にきたことはなく、死ぬまで原爆投下の正当性を主張していた。