戦場に法はないのか第六章 東京 


今回の爆撃について早瀬少佐は、全弾焼夷弾であるから無差別爆撃は容易に証明できると確信した。
 早瀬少佐はホーキング少尉の軍律違反を認定し、起訴相当の意見書を法務部長の小林法務少将に具申し、その許可を得て次に軍司令官に具申した。これらの手続きのほかに軍司令官が起訴に当たる審判請求命令を発する前に陸軍大臣の許可が必要であった。
 戦地では捕虜の米兵や抗日ゲリラを軍律裁判にかける例が多いが、軍が現地で暴走して勝手に死刑にすると、国際的に問題になってくる。これらを防止する為に、中央機関が念入りにチェックするのである。
 広島から上京の交通機関は悪化していた。待機するうちに七月二十日広島陸軍飛行場から一式陸攻が羽田へ飛ぶとのことで、早速早瀬少佐は事件記録を鞄に詰め込んで機内に乗り込んだ。シンガポールから飛行機を乗り継いで来ているという高級将校、マレーシアの要人、中国服の女との乗り合わせであった。もはやこの時期には、硫黄島から来たアメリカP五一ムスタング戦闘機とかグラマン艦載機が制空権を圧倒しており、無事に羽田に辿り着くかどうか保証はなかった。広島から若狭へ抜け、長野を回って羽田に着陸しようとしたときグラマンに襲われた。機体は反転大破し、乗員の多くは死傷し、マレーシア要人の倒れた横には木の箱が転がり、入っていた宝石金貨が転がり出てきた。亡命政権の軍資金との噂をあとで聞いた。
 幸い軽傷で助かった早瀬少佐は木炭車に乗り、陸軍省へ直行した。沖法務大佐と法務局長藤井法務中将に面会を求め、陸軍大臣宛の伺い書を提出した。伺い書は捜査記録とともに陸軍法務局から軍務局、兵務局、参謀本部、高級副官、陸軍次官へと回り、決済承認の赤印だらけになり、三日かかって最終的に陸軍大臣の決裁が下りた。陸軍省内は軍刀を下げた将校たちが殺気に満ちて軍務に忙殺されており、本土決戦近しとの緊迫感に包まれていた。
 藤井法務中将からは、名古屋空襲の捕虜については名古屋で既に軍律裁判が終わり十一人の処刑が済んでいるとの話を聞かされ、「空襲被害は甚大になっている。広島の軍律裁判を急ぐように」との指令が出た。

 霞ヶ関の官庁街は五月の空襲で焼け野原になっていた。早瀬が外務省の前を歩いていると、
「おい、早瀬じゃないか。生きていたか」
 と声が掛けられた。
 大学同級生の独法科の鈴本であった。外交官になり昭和十六年ベルリン大使館へシベリヤ鉄道で赴任するとき、一夜新京の早瀬宅に泊まって痛飲したのが最後であった。
 外務省の焼け跡の草原に座り込み、鈴本は語った。
「五月にドイツが降伏したあと、ソ連の封印列車で帰国した。ベルリンは完全に破壊された。四月三十日にヒットラーがエバ・ブラウンと結婚式をあげてから自殺した。その直前に総統防空壕に出向いたことがあったが、士官食堂では将官たちが放歌酩酊の醜態の極みであった。大坂城夏の陣の落城前夜もかくの如しかと思えた。
 ソ連軍の復讐心は恐ろしい。国会議事堂に立て籠もったドイツ親衛隊エスエスは一人も生き残る気持ちがなかったし、ソ連軍も捕虜に取る意思はなかった。一部屋一部屋の白兵戦で何千人の死者が出ている。ソ連軍は凶暴であった。強盗・強姦・殺人をやりたい放題だ。兵士がするのならばまだ分かるが、士官まで恥知らずにしている。ベルリンの女は皆強姦された。敗戦とはかくも惨めなものだ。
 ドイツは負け過ぎた。戦争は勝ち負けだ。時には負けることも仕方ない。しかし負け過ぎはいかん。指導者の責任である。昭和十九年七月に伯爵参謀長シュタウフェンベルグ大佐が会議場のヒットラーの二メートル傍に時限爆弾入り鞄を置いて退席した。後から来た将校が邪魔に思って柱の陰に移動させたら爆発しその将校は死亡したが、ヒットラーは軽傷に終わった。これからヒットラーは狂人となった。伯爵はその日の内に銃殺され、荷担した約五千人が犠牲になった。あの英雄ロンメル将軍も荷担しており自殺させられた。これ以来最後の一年で死んだ人間が何人いるだろうか。前年の倍、三倍かも知れない。東欧へ輸送されたユダヤ人の行く末は良く分からぬが、無事とは思えない。ならば十万人単位で死者の数は増える。皆無駄死をヒットラーに強いられたのだ。伯爵はドイツの良心だったと思う。ヒットラーは処刑シーンを映画に撮影し司令部で何度も上映させたという。見せしめの意味だが、もうヒットラーは猜疑心で発狂していたのだ」
 早瀬は、最期の一年が倍三倍の話を聞いて嘆息して言った。
「日本でも東条首相暗殺予備事件があった。昭和十九年九月大本営参謀津野田知重少佐が三笠宮を巻き込んで暗殺計画を立てようとしたが未然に発覚し、今年三月軍法会議で懲役二年執行猶予二年の判決になっている。陰謀しただけで実行していないし、事を公にしずらいから執行猶予が付いたのだ。日本はこれから一体どうなると思うか」
 鈴本は更に声を潜めて語った。
「東条暗殺事件は知らなかった。日本では特高と憲兵隊が強いから起きないと思っていた。しかしこのままでは日本は破滅だ。講和するしかない。しかし軍部の誰も言い出すはずがないし、役人や民間から言い出せば逮捕されるだけのことだ。現に親英派の元駐英大使の吉田茂は近衛文麿上奏文事件で逮捕され陸軍刑務所に収監されたが、五月の空襲で焼け出された」
 早瀬は言った。
「誰も戦争を止められないのか。そうだな。止めに掛かるのは命がけだ。特高も憲兵隊も殺気立っている。
 もう陛下しかいない。二・二六事件では右往左往する将軍たちを叱咤して反乱軍鎮圧を命じた名君である。陛下しか停戦を決断し得ない」
 鈴本は同意した。陛下しかいない。しかし、誰が進言するか、と案じた。
 早瀬は尋ねた
「しかし、ソ連は攻めてくるであろうか。ソ連はこの四月に日ソ中立条約不延長通告をしてきたが、条約の有効期限はまだ一年ある」
 鈴本は答えた。
「ヒットラーは独ソ不可侵条約を破って独ソ戦を仕掛けた。スターリンはドイツの盟邦である日本との条約を守る気はない。レーニンは十月革命で植民地の放棄と言う理想論を唱えていたが、内戦の混乱のなか植民地を維持できないから言っただけだ。スターリンは報復主義者だ。日露戦争の失地を回復するために絶対攻めてくるだろう。ドイツを東半分占領したと同じように日本の北半分を占領したいであろう。
 シベリヤ鉄道封印列車で帰国する途中、客車の窓の隙間から覗いて指折り数えていたが、膨大な数の戦車と火砲が満州に向かっていたのだ。スターリンは来年の春まで待たない。この夏のうちに突撃を命ずるであろう。この予想が当たらないことを神に祈っている。この情報を大本営に報告しているが、信用しないのだ。人間、最悪のことを信じたくないのだ」
 満州の大平原を突撃してくるソ連戦車師団、迎え撃つ塹壕の日本軍、逃げ惑う在満日本人の群れ、想像もしたくないと早瀬は目をつむった。
 鈴本が言った。
「理科の同期の青木を憶えているだろう。海軍技術大佐となりベルリン大使館付き武官として赴任していた。この三月Uボートに乗って日本に向かった。ドイツの最新兵器のロケット戦闘機が搭載されている。途中で撃沈されることもなく大西洋で五月のドイツ降伏を迎えておれば連合国軍の捕虜になって生き延びているはずだ。しかしあいつは一途な男だ。捕虜になるくらいならばと、自決でもしないかと心配している。同乗しているのは五年上の佐橋技術大佐だ。お前は知らないだろうが、慎重居士と言われた男が一緒にいるから、まず滅多なことはないと思いたい」
 早瀬は思い出した。一週間も実験室で徹夜して電波の周波数を研究していた、あの変人とも熱中男とも言われた、風呂嫌いの髭男であった。
 五月の空襲で焼け野原になった外務省の残骸に夏草が生い茂り、二人を隠していた。無駄死はやめよう、生き延びて日本の再建を期そうと約束して分かれた。

 七月二十三日 早瀬少佐は東海道線で帰ることにしたが、東京駅へ行くと煉瓦造りの駅舎が焼失し、三階が焼け落ちて二階に変わり果てていた。三月十日の東京大空襲により下町が焼け野原となり瓦礫の山と化し、死者十万人を数えており、これは関東大震災の死者五万八千人を超えていた。
 陸軍省法務局手配の二等切符は効果抜群で満員の駅頭にもかかわらず優先的に二等車に乗ることができた。その後三等車から溢れた一般旅客が二等車の通路に流れ込み、すし詰め状態となった。早瀬少佐の横に妊婦が立ったので少佐は席を譲ろうとした。
 妊婦は早瀬の襟章を見て
「少佐様から譲っていただく訳にはまいりません。私は軍曹の妻ですから」と固辞した。
「ご婦人は元気な子を産むのがお役目、遠慮なさるのはご無用」と言って早瀬少佐は妊婦を座席に座らせ自分は通路に座り込んだ。横の陸軍少将様は知らん顔で外の景色を見ている。
 妊婦から聞いた話によると、夫はイサムと呼ばれる伊号三六潜水艦の機関軍曹で、横須賀から実家の長崎まで出産に帰る途中という。
 潜水艦乗りか。水上艦艇は撃沈されても十%は救助される。それも艦上勤務者が多く、船底の機関兵は少ない。潜水艦となれば全員戦死である。この夫君の運命は頗る危うい。
途中アメリカ戦闘機に三度銃撃された。機関車が銃撃を受けカンカンと音を立て蒸気が噴出する。その度に列車から脱出して身を隠さなければならなかった。
 汽車は昼間、丹那トンネルに隠れた。先頭機関車の煙突だけをトンネルの外に出していたが、風に流れた煤煙はトンネル内に充満し、乗客は咽んでいた。早瀬少佐は満員の客車内の澱んだ空気に堪えきれず、降りて列車を一回りしてみた。無蓋貨車が連結され、二台の対空機関砲が備え付けられていた。機銃手は陸軍兵士であるが、警乗隊の腕章を巻いた中学生が監視員として四人乗り込んでいた。学徒動員が始まり、生産増強のため工場などに配属されていたが、この四人は視力が二・五なので鉄道警乗隊監視員に動員されていたのである。これはもう、勤労動員ではなく、少年兵に等しい。
 汽車は日没と同時に真っ暗闇の丹那トンネルを出て進行を始めた。沼津の松原海岸、夏の夕日を浴びた赤富士が巨大に見え、乗客が一様に感嘆の声をあげた。その時だった。
 中学生が叫んだ。
「三時の方向、敵戦闘機、一、二、三、四、五、五機 接近」
 兵士たちが二〇ミリ機関砲二門を三時の方向に回して発砲を開始した。先頭の一機から煙が吹き出し、中学生たちは「一機撃破」と喜んで叫んだとき、無蓋貨車内銃座は機銃掃射を浴び破壊されて沈黙した。
 グラマン艦載機の機銃弾が客車内に飛び込み、跳躍を繰り返しあの妊婦を殺した。席を譲られたのが災いであった。早瀬少佐は死体を抱きかかえて瞑目していた。
 汽車から眺める国土は悲惨の限り、名古屋駅に着くと、名古屋城がない。駅から城の石垣まで焼け野原で、全部見通せるのである。京都は無事であったが、大阪神戸は全滅であった。この間、何も食わずで広島まで三日三晩を必要とした。乗り合わせていた人々のあいだから、軍に対する非難、怨嗟の声がぼそぼそと聞こえてくる。少し前ならば絶対聞かれなかったことだ。民心が変わりはじめていた。
 東海道沿線の悲惨な姿を呆然と眺めつつ、早瀬少佐はあることに気付き驚愕した。
 なぜ広島は無事なのか。第二総軍司令部の置かれた広島は軍都である。爆撃目標として最高ではないか。これは偶然ではない。広島爆撃は留保されているに過ぎない。次の目標は広島だ。となると広島城内陸軍官舎に住む妻や子が危ない。一刻も早く軍律裁判を開いてホーキング少尉を処刑しておかなければならないと考えたが,すぐに短絡的な発想と思い正した。ホーキング大尉一人の処遇ではなく、日本とアメリカの処遇なのだと。しかし、有力政治家にも宮家にも知己を持たない早瀬には打つ手がなかった。どんな手があるのか。早瀬は汽車の中で考え通した。
 七月二六日早朝、疲労困憊のまま広島駅にたどり着くと、市内は無事だった。市内電車も定時に走っており市街に何の変わりもない。青くて高い夏空、天秤棒を担いだ金魚売り、そう、あの捕虜の権吉がいつものように商いをしていて、平和そのものであった。
 広島では日露戦争での唯一の捕虜であり、奇行で有名な男であった。広島市内一円で金魚と泥鰌を行商しており、早瀬の官舎近辺でも時々見かけた。早瀬が出勤するとき権吉を見かけた日は、昼に従兵に生卵二つを持ってこさせた。その夜妻が権吉から買った泥鰌と卵を使い柳川鍋を楽しんだ。
 軍人は皆役得を楽しんでいたが、早瀬はその役得を取り締まる身であるから、早瀬の役得は卵二個に留まっていた。