戦場に法はないのか第七章 捕虜の権吉 


 権吉は、かって日露戦争に歩兵として従軍していた。旅順の二〇三高地攻略戦に投入され、所属する大隊の損耗率は七十五%を超え、権吉たちの小隊が二〇三高地に一番乗りしたとき、五体満足な兵士は五人に過ぎなかった。
 二〇三高地の頂上のトーチカの真下まで取り付いたとき、権吉たちは雨霰の機関銃射撃を受けてもう一歩も動けなくなっていた。日没となり退却ラッパが鳴っても脱出することができず屍体の山の中に隠れ屍体を装った。眼の横には同僚が脳髄を露出させて横たわっていた。闇に紛れて脱出しようとしたが、トーチカからの探照灯に照らされ死んだふりをすることしかできなかった。死傷者収容ための二十四時間現地停戦協定ができるまでの三日三晩権吉は体位の転換さえできず、権吉は自分が生きているのか死んでいるのか実在認識が不可能となり、これ以来しばしば狂気に襲われた。
 停戦ラッパが鳴って死傷者収容のとき、ロシア兵が近寄り、権吉にウオッカと煙草を給し、権吉は有り難く戴いた。言葉は通じるはずもなかったが、お互いご苦労さんだな、生き延びれるかは運だな、と眼で語り合った。
 
 ロシア軍のステッセル将軍が水師営で降伏したあと、旅順庁舎前の広場での開城式では、軍楽隊の演奏のなか、権吉は乃木大将から直々に勲章を賜ったのである。
 旅順で休息を取る暇もなく権吉の部隊は北上して奉天会戦に向かった。権吉の斥候小隊が前線奥深く侵入したところ、コザック騎馬大隊に包囲され、絶望的戦闘を強いられた。
 権吉は持弾の三十発を撃ち尽くし銃剣で騎兵に立ち向かったところ、コザック大尉は騎兵銃を納めてサーベルを振り下ろした。権吉の手指三本が切り飛んで権吉が倒れ、騎兵中尉は権吉に止めを刺そうとしたとき、権吉の両目から涙が溢れて満州の夕日に輝いて見えた。騎兵中尉は哀れを覚えて従卒に「この男を捕虜にせよ」と命じた。五十人の小隊のなかで唯一の生き残りとなった。
 権吉の中隊長の士官は捕虜になったときの心得を教えなかった。士官は「自分ならば自決する」と話したが、「自決せよ」とは言わなかった。士官は捕虜になったとき姓名と階級以外話す必要がないことを知っていたが、兵士に教えなかった。だから、権吉はロシア士官からの質問に何でも答えた。
 権吉はハルピン後方のロシア軍野戦病院で手厚い看護を受けたが、何故ロシア軍が敵兵を殺しもせずに丁重に処遇するのか、不思議だった。

 権吉は野戦病院でナタルシアというロシア看護婦の手当を受けた。ロシアの貴族伯爵の娘であり、パリの大学に留学し正看護婦の資格を持ち、夫君は旅順の砲兵大尉であったので、ナタルシアは夫君と暮らすために旅順の陸軍病院に赴任しようとしたが、日露戦争の開戦となり東清鉄道が遮断された。結局、たどり着けずハルピン郊外の野戦病院の正看護婦総婦長を勤めていた。
 ナタルシアの看護は手厚く、権吉は恐縮しそして感謝した。ナタルシアは権吉の凍傷になって赤黒く壊死した足指に軟膏を塗布し丁寧に包帯を巻いた。一巻きしては折り返すという日本ではやらない巻き方であった。ナタルシアは「カーク ヂェラー」と話しかけたが、権吉には分かるはずはなく、何度も繰り返して憶えた。
 権吉は古参の入院兵に「カーク ヂェラーとか何か」と質問すると、鼻毛を抜きながら「ご機嫌いかが、だよ」と教えられ、権吉は感激したが、古参兵が鼻糞までほじくり出しているのを見て急に狂気に襲われ古参兵を殴りつけた。衛兵が止めにはいるまで二人は大立ち回りを演じた。捕虜生活ではつまらないことで喧嘩するのであった。
 深夜、ナタルシアは燭台を持って日本兵の病棟を回診したが、金髪を束ねて白帽を被り、蝋燭に照らされたナタルシアの顔は抜けるほど白く神々しかった。かって権吉は広島の教会で聖母像を見たことがあったが、それより数段に美しく慈愛に満ちていると思った。高い鼻筋の稜線、優しさを示す小さな顎と唇、この世にこれほど美しい女がいるのかと、驚いた。
 権吉の負傷は癒えて、隣の捕虜収容所に移動となり、その後毎日野戦病院に通って包帯の洗濯使役に従事していた。同房の男はウラジオストック領事館の三等書記官の加藤であった。
 加藤は書記官とは言いながら、実態は陸軍大尉であり陸軍の密偵であった。ウラジオストックと首都のサンクトペテルブルグとの間のシベリア鉄道に乗車し、兵員・軍事物資の移動状況を密偵していたのである。日露戦争の開戦となりハルピン近辺に潜伏して密偵を続けていたのであるが、ロシア憲兵隊にスパイ容疑で逮捕された。
 日露戦争開戦当時、北京にいた日本民間人、横川省三と沖禎介ら六人は日本軍に志願し、爆弾を馬に積み、シベリア鉄道の鉄橋を破壊するために遠くチチハルまで一月余旅をしたが、最後にロシア監視兵に発見され、横川と沖は逮捕され、残りの四人は逃走したが、やがて満州人に殺された。
 横川と沖はハルピンに連行され、スパイ罪で軍律裁判に起訴され、法廷にはドイツ人新聞記者が傍聴していた。二人は便衣をきており軍服を着用していなかった。着用しておれば捕虜の待遇を受けることができたが、着用していないのでスパイとして処刑されても仕様がなかった。
 二人は裁判の結果、銃殺刑となった。加藤にもこの運命が待っていたが、幸運もあった。手下に使っていた満州人が逃亡し、ロシア憲兵は満州人の証言を得られなくなったのである。加藤が持っていた手帳には、シベリア鉄道の運行状況が詳細に記録されていたが、加藤にしか分からない暗号で記録され、その暗号も暗号とは読めない工夫がしてあり、ロシア憲兵は証拠集めに苦しんだ。
 加藤は軍服を着用していないことを突かれたが、外交官であるから平服は当たり前と答え、更に外交官特権を主張した。開戦後もハルピン近辺にとどまるなど、スパイの嫌疑は濃厚であったが、確実な証拠を得られないのでロシア憲兵は大いに不満であったが、加藤を処分保留として捕虜収容所に叩き込み、加藤の主張する外交官特権待遇を却下した。
 かくして、加藤は権吉と同房となり毎日野戦病院へ包帯洗濯の使役に行くこととなった。
 
 包帯洗濯場で権吉と加藤がナタルシアに会ったとき、権吉は加藤に通訳を頼んだ。加藤はロシア語も満州語も通じていたのである。
 加藤は通訳した。
「ナタルシア様ハ何二故ニ日本兵ニ対シ親切ニ看護サレルヤ」
 ナルタシアの回答を加藤が通訳した。
「我ガ夫ハ旅順ノ砲兵大尉ナリ。旅順陥落後ハ日本ノマツヤマニアリテ日本看護婦ノ手厚イ看護ヲ受ケテオリシモノト信ジタキガ故ナリ」
 権吉は女の願いは東西同じであると実感し、夫君の無事を祈った。
 満州の大平原を騎馬で駆けてくるロシア連絡士官がナタルシアの前で下馬し敬礼をして革鞄から書類を取り出した。ナタルシアの全身が硬直し、書類を読んだとたん、走り出し地に伏して泣き出した。
 権吉と加藤は「夫君の戦死公報に間違いなし」と顔を見合わせた。
 二人はナタルシアの傍に近寄り片膝を突き、加藤は言った。
「ロシア陸軍看護婦部隊 正看護婦 総婦長 
 貴婦人 ナタルシア様
 我ラ二人ハ謹シミ 弔意ヲ表ス」
 権吉は小さな紙包みをナタルシアの手に握らせた。開いてみると五円金貨であり、ナタルシアは手のひらに金貨の重みを感じた。権吉の出征のとき、母親が褌の端に縫いつけた金貨なのである。ナタルシアは訝しげな表情をした。
 加藤は言う。
「日本デハ大事ナ人ニ弔意ヲ表スルトキ、金品ヲ贈ルハ習慣ナリ。ゴ遠慮ハ無用ナリ」
 ナタルシアは更に尋ねた。
「コレハ権吉ニトッテ大切ナモノ。最期ニ用イルベキ物ニ非ザルヤ」
 加藤は答えた。
「権吉ハソノ用イルベキ時ガイマ到来シタト思ウナリ」
 ナタルシアは権吉に近寄り膝を付き、権吉の肩を抱き、額に自分の額を擦り寄せて泣いた。
 権吉の目の前を玉滴がいくつも落ちて地を濡らし、権吉は蟻が溺れるのを見た。

 ポーツマスの講和が成って、明治三十九年一月捕虜交換が実行されることとなった。捕虜収容所の広場に捕虜が集められ、ロシア軍経理将校が机を並べて捕虜一人一人に使役の給料から食費を差し引いた残額をロシア式算盤を使って計算して支給した。ロシア皇帝からは上等な防寒衣と食料・菓子・煙草が下賜された。
 捕虜の中の高位官である加藤は捕虜隊長となり、ロシア軍司令官に対し感謝と惜別の挨拶をし、捕虜の中の人形師が作った日本人形を記念に贈呈し、捕虜部隊を指揮して出発した。
 野戦病院の前を通過するとき、ナタルシアは看護婦部隊を率いて見送った。
 ナタルシアが声を掛けるのを加藤が通訳した。
「権吉ヨ 汝ハ紳士ナリ。無事ニ帰国サレルノヲ喜ブ。ゴ健勝アレ。再ビ会エヌト思フヲ悲シム。コレハ当家ニ伝ワルイコンナリ。思ヒ出ノタメ差シアゲタシ」
 権吉は加藤の肩を揺さぶって尋ねた。
「俺は今何と言えば良いのだ」
 加藤は教えた。
「ダズビ ダーニヤ 惜別なり」
 権吉はナタルシアに向かって叫んだ。
「ダズビ ダーニヤ 
 ダズビ ダーニヤ 」
 歩きながら手を握り、そして名残を惜しみ手を振った。
 捕虜たちは看護婦たちに菓子を進呈した。
 満州の大雪原、東西南北見果たす限りの銀世界、野戦病院を見下ろす最後の小丘に着くと、加藤は捕虜全員に向かって号令した。
「回れ右 ロシア皇帝陛下の看護婦部隊に対し 全員 帽振れ。ダズビ ダーニヤ 」
 看護婦部隊からも手が振られ、ダズビ ダーニヤの声が流れてきた。

 権吉は捕虜の交換により宇品港に帰り着いたけれども、彼への故国の扱いは過酷なものであった。日暮れるまで船内に待たされ、人目を避けるため暗闇の中を広島の師団司令部に押送された。
 そのうえロシア皇帝下賜の毛皮の防寒着を脱がされ、粗末な平服に着替えさせられ、勲章を剥奪され、裏門から除隊となった。権吉がナタルシアから貰ったイコンは、耶蘇教にかぶれたのかとののしられ取り上げられた。
 取り上げた軍曹は火の中に投じようかとしたが、考えを変えた。広島の骨董屋に持ち込んだら10円で売れて大儲けしたと喜んだが、その骨董屋が東京の骨董市に持ち込んだら百五十円で売れたことは知らされなかった。
「生きて虜囚の辱めを受けず」との戦陣訓は東条英機の時代の昭十六年に作られたもので、日露戦争当時はなかったが、故郷の人々も権吉に冷淡であった。
「敵の飯を食ってオメオメと生きて帰って」と息子を失った老婆が叫んだ。手指三本を失っていた権吉に対し、子どもらは「捕虜の三本なし」と罵った。在郷軍人会からのお呼びもなく、村八分となり不遇の日々を耐えていた。
 明治四十年広島に明治天皇の行幸があった。馬上の盛装する乃木大将と馬車の天皇が近づいたとき、道端に正座していた権吉は号泣した。巡査が制止しても権吉の泣き続ける嗚咽は絶まることがなく、馬車の天聴に達する勢いであった。もっとも天皇陛下の前で号泣することは何の罪名にも触れない。巡査は権吉を放置するしかなかったが、これ以降、権吉は要注意人物となり、皇族の広島行幸のときは行政検束で留置場が定宿となった。
 妻も子もなく、老母と二人で僅かな田畑を耕し、いつも貧困だった権吉は「捕虜 捕虜」との悪罵に反抗し、町中で悪態をついた。罵った家に対して猫の生首を投げ込んだ。権吉は悪態、奇行の限りを繰り返して留置場の常連となった。村中誰とも話をせず、二〇三高地の英雄は捕虜と罵られて埋没していった。
 権吉は庭の池で金魚を飼育していた。ある年、二枚の尾びれが四枚に変わった新種を見つけた。関心を持ち以来交配を重ねるうちに、四枚が八枚、八枚が十二枚と変わり、水中に美しい錦が舞うようになった。
 明治が終わり、大正の十五年が過ぎて昭和の五年、全国金魚品評会が開かれたとき、権吉の出品した金魚が優等賞になった。表彰を受けるとき、権吉はまたも号泣した。
「男が金魚くらいのことでこれほど大泣きするとは」と周りのいぶかる声のなか、権吉は表彰額を抱きしめて座り込み、「乃木大将閣下」と叫び、号泣を続けた。
 これ以降、権吉の悪態と奇行はやんだ。権吉は天秤棒を担ぎ、金魚と泥鰌の行商を始めた。
 昭和の十八年までは配給に不足はなかったが、十九年になると遅配、欠配は常態となり、町内に塩鯖三本ということもあり、奥方は定規で切り分けるのに苦労していた。権吉の金魚はたいして売れなかったが、泥鰌は奥方の人気を博していたが、ある時巡査に捕まった。
「金魚は統制外だが、どじょうは禁止だから供出せよ」
「金魚は贅沢だ。贅沢は敵だ」
と言って、桶をひっくり返し、金魚を踏みつけた。

 権吉は「長年これを生業にしているし、老人が小川ですくう数の泥鰌くらいのことで文句を言うな」と言ったところ、巡査は
「貴様は反抗するのか。この捕虜は」と怒鳴りつけ、殴る蹴るの暴行を続けた。
 顔面血だらけとなり、折れた歯を吐き出した権吉は
「あんたの家は中水主町の米屋の隣だったな。赤い椿のべべ着た娘は可愛くなったな」と言って、三本足らない両手を広げて見せた。
 過去の権吉の行状を憶えていた巡査は、不気味な虞を抱き
「どじょうと金魚は一緒の桶に入れるな」と言って放免した。
 かくして権吉は金魚の桶の下に泥鰌を隠して行商を続けることができ、奥方から重宝された。昭和十九年の暮れにもなるとますます食糧事情は悪化し、権吉は奥方から頼まれて着物を桶のなかに隠し、田舎へ行って米と交換するようになり、闇屋になった。その交換比率も段々と悪くなり、絹の着物一枚が米三升から一升となり、農婦はいままで着たこともない絹の着物をため込んだものの、着て行く先がなかった。

 ある奥様は権吉が日露戦争の捕虜だったことを嫌わず、特に大事にしてくれた。亡きご主人冨田彦三郎陸軍大尉はノモウハン事変での大隊長であった。ソ連軍の猛攻のなか人事不省となって捕虜となり捕虜交換で帰国したが、ある日、一人の参謀が広島陸軍病院の病室を訪れて拳銃を置いていった。
 葬式は陸軍大臣の弔辞代読から始まり、軍司令官の荘重な弔辞が続き列席者の多い盛大なものであったが、終われば訪れる人もなく誰からも忘れられた。現役軍人の頃は、余録もあったが、それもなくなり、お決まりの配給だけを頼る貧しい暮らしとなった。
 奥様は「何も死ななくてもよいのに、男の意地で女のあたしを後家にして、日露の昔から生き抜いてきた権吉さんの方がよっぽど偉いと思う」と、縁先で権吉の手を握って涙して話し、柔らかな手と熱い涙が権吉の手に落ちるのを感じて思わず、権吉は手を引き、「滅相もない」と恐縮する限りであったが、「ああまた後家様に泣かれてしまった。戦争は女を泣かすからいかん」と昔のことを思い出し、また泣けてきた。
 秋の陽が遺影の掲げられた仏間に長く差し込み、二人の娘がお手玉をして遊んでいた。
 通りへ出てくると、乾物屋の仁助がにたにた笑い、
「へっへっへ 尻軽若後家はたまらんね。捕虜と捕虜の後家とがねんごろかね」とくだを巻いてきた。
「何を言っているのだ。立派に自決した大隊長の奥方に向かって失礼だぞ」と怒鳴ると、仁助は言う。
「あの若後家が横町の色惚質屋のところへ質入れに通っているが、質屋の助平親父の魂胆は丸見えだぜ」
「変な噂話を立てるとは許せん。この糞垂れ」と権吉は天秤棒で仁助を川へ突き落とした。
 仁助は川の中で手足をバタバタさせながら
「やっぱり、ぞっこんホの字だ」と更に悪態をついていた。
 権吉が次に後家様の家へ行ったとき、庭にしゃがみ込み縁先の後家様に言った。
「米がいるときは、あっしに着物でも預けて下さい。田舎へ行って米と交換してまいります」
「何か、不都合なことでもあったのですか」と、後家様は訝しげに尋ねた。
「いえ、何でもありませんや。あの質屋の利息は高いのでお止めになったほうがいいかと、あっしが思っただけのことです」と答え、話題を切り替えたくて
「そうそう 今度産まれた金魚に尾びれ二十四枚の新種がいました。成魚になれば素晴らしい錦の華を咲かしてくれると思います」
 後家様も「是非 見せてくださいね」と喜んでいた。