戦場に法はないのか第八章 広島軍律法廷 


 広島へ帰着した早瀬少佐は駅から歩いて司令部に出頭し、法務部長小林少将に陸軍大臣の決済が下りたことを報告した。小林少将は早瀬少佐に起訴状に当たる審判請求状の起案を命じた。
 小林少将はでき上がった審判請求状を関係部署回覧のうえ、中国軍管区司令官藤井洋治中将に提出してさらなる決済を受け、正式に軍律裁判の開始となった。

 早瀬が広島に赴任してきたとき、小林法務少将は訓示した。
「第一次大戦で青島のドイツ軍降伏協定立会と捕虜の監督が儂の初陣であった。国際法遵守ということでは模範的であった。支那事変では南京攻略戦に従軍した。軍紀が乱れ軍法会議が多忙であった。何故軍紀が乱れたのか考えてみると、第一に、満期除隊直前の兵隊を前線に投入したものだから、兵隊が落胆したこと、中華民国首都の南京を陥落させれば停戦と予想し、それまではと敢闘したのであるが、陥落しても抵抗はやまず、あまつさえ中華民国兵は軍服を脱いでゲリラ戦を仕掛けてきた。日本軍にはゲリラ戦に対する戦法について考えがなかった。国際法は適用されず軍服を着用しない兵士はスパイ・山賊と見なして殺して良いとの誤った考えに支配された。第二に、東京は蒋介石の重慶政府を相手にせずとの声明を出してしまった。交渉相手をなしにしてしまったから、停戦交渉さえ出来なくなった。それまでは北支で何度も停戦交渉をしてきており実績もあった。支那のような馬鹿でかい大陸で戦争するときは兵力休養のために適宜停戦が必要なのだ。終わる当てのない戦争に兵隊は疲弊し軍紀が乱れたのだ。
 昭和十七年の兵制改革で文官たる法務官から武官たる法務将校に変更となった。法務官の前身は軍法律顧問である。国際法を遵守する停戦交渉を補佐し停戦協定書を書くことだ。軍法会議や軍律裁判をやるだけが仕事ではない。兵科将校の中には法務将校を軽く見る風潮がある。しかし、軍司令部に直属し、国際法に従った停戦交渉を補佐するという幕僚としての重責があることを忘れてはならない。兵隊には法務官を軍属と誤解していた者もいたが、法務官が昭和十七年の兵制改革で武官となり儂のように少将の襟章を付けたとたん敬礼が直立不動になったのは笑い話であった。
 最後に言っておく。法務少佐である貴様は天皇の名において大将を逮捕する権限がある。終わり」
 早瀬は敬礼して回れ右をした。

 小林法務少将は軍律法廷の審判長として山本砲兵大佐、左右の審判官には長谷川法務大尉、橋本歩兵中尉を指名した。法務将校の数が足らないので、兵科将校も審判官に選任されることになっていたのである。このように三人の審判官が軍律法廷を構成し、一人の法務将校が陪席審判官を務めるが、法務将校は軍隊指揮権を持たないので、審判長は兵科将校が務めることになっていた。審判長は法廷を指揮しなければならず法律知識が必要とされるから、多くの場合審判長は陪席の法務将校の審判官に審判長の代理を命ずる。これを受命審判官という。受命審判官は審判長に代わり法廷で指揮采配をふるうこととなる。
 早瀬は山本砲兵大佐に「そうなさいますか」と尋ねたら、山本砲兵大佐は「自分は任務から逃げたことはない。審判長を務めるから一夜官舎で軍律裁判の講義をせよ」と言った。
 早瀬は「何時間かかることやら」と思いながら山本砲兵大佐の官舎に行き、ハーグの陸戦・空戦規則、ジュネーブ条約そして軍律裁判の法制度の講義をしたところ、山本大佐は容易に理解した。彼は西洋史に通じ十八世紀のギボンのローマ帝国衰亡史を英書で読んでおり、第一次大戦では観戦武官として独仏戦線に従軍していた。
 彼は塹壕の上に立つ各国観戦武官たちの記念写真を見せ、浴衣姿で団扇を扇ぎながら語った。
「ドイツ軍のガス弾砲撃の現場に行った。アーモンドの匂いが漂っており、兵士達は眠っているかのように死んでいた。戦闘というものは敵軍の戦闘力を破壊するのが目的であり、傷病兵を殺すことではない。塹壕にいた傷病兵達は毒ガスで簡単に殺された。流れ出した毒ガスは付近の一般住民まで殺した。無差別攻撃が条約で禁止されたのは当然のことだ。
 お前の講義を聴いて、デュー・プロセス・オブ・ロー 法の適正手続きの意味は分かった。被告人に何故裁判に掛けられているのか、その理由を理解させること、被告人に弁明の機会を十分与えること、これらを記録し後世の評価に耐えうる公正な裁判をすること、良く分かった。有り難う。まあ一杯呑め」と香港から持ち帰った戦利品のオールド・パーを差し出した。
 
 八月三日午前八時、軍律法廷は師団司令部内の特設法廷で開廷された。軍法会議の法廷をそのまま利用し、正面には一段高く三人の審判官の席、左手に検察官役の早瀬法務少佐、真ん中に録事の席、傍聴席には司令部の参謀と憲兵隊員が並んだものの、弁護人の席は始めからなかった。
 ホーキング少尉が手錠付きで出廷するや、審判長山本法務少佐は解錠を命じた。最初に人定質問から始まり、つづいて通訳兵に誠実に通訳するとの宣誓書を読み上げさせた。
 早瀬少佐は審判請求状を読み上げ、
「ホーキング少尉は非戦闘員である民間人に対して焼夷弾による無差別爆撃を敢行し、百二十七人の死者、二百五十七人の負傷者、罹災家屋七百五十戸の損失を及ぼした。これは空襲軍律に違反するとともに、国際法にも違反する非人道的犯罪である。よって審判を請求する」
 と厳しく述べた。 
 早瀬少佐は八幡憲兵隊作成の空襲罹災報告書、ホーキング少尉の供述調書を読み上げ、通訳兵が通訳を終えるのを待って述べた。
「証拠としてこの法廷に提出する」
 山本審判長は
「証拠として採用する。続いて被告人の尋問を行う。録事は速記せよ」と宣し、質問を開始した。
「市街地を爆撃しているが、目標は市街地か」
「爆撃目標はヤハタと命令を受けており、市街地を爆撃せよと特に命令されていたのではない」
「通常爆弾を用いず焼夷弾を投下しているが、何故か」
「命令である」
「市民に多数の死傷者が出ているが、爆撃するとき予期し得たか」
「ヤハタは製鉄所のある防備都市である」
「八幡が燃えているとき、火の中に市民がいるとは思わなかったか」
 ホーキング少尉は
「これが戦争だ。仕様がない」
と呟き、それ以上の答えに窮した。しかし内心では野蛮人が何を偉そうなことを言っているのかと反発する心が盛り上がってきた。毅然として
「全て命令に従ったことである。軍人が命令を守ることは当然の義務である」
 山本審判長は宣した。
「ほかに言いたいことがあれば何でも言うことを許可する」
 ホーキング少尉は空襲軍律が銃殺刑のみを定めていることを通訳兵から聞いており、何を言っても命が助かることはないと感じていた。しかし、そもそもこの戦争は、日本が仕掛けて始まったのではないか。日本の真珠湾攻撃さえなければ、大学に通学して普通の市民の生活を楽しめたのだ、ヤハタへの爆撃は命令であり、それを拒否すれば抗命罪で軍法会議だ、兵士はどちらへ行っても助からない。色々考えると止めどない憤激が巻き起こって真っ赤な鬼面となり、
「真珠湾の騙し打ちをしたのは卑怯者の日本だ
 これは戦争なのだ
 法廷を開くなどと、文明国を気取るんじゃない。
 さっさと首を切って頭の皮を剥がせばよいだろう。このインディアン野郎め。アメリカは必ず復讐をする。おまえは戦後処罰される」
と山本審判長を睨み付けて叫んだ。

 山本審判長は頭を横に振り、そして言った。
「貴官は勘違いをしている。この法廷は戦争の善悪を裁くためのものではない。真珠湾攻撃が善なのか悪だったのかは、当然本官と貴官は意見を異にするはずである。
 日本は中華民国と日中戦争を戦っている。アメリカが中立を守っておれば、日本軍は真珠湾を攻撃することはなかった。アメリカは日中戦争に対し中立宣言をしないどころか、中華民国に対し軍事支援をおこなった。ハルノートを突きつけて日本に中国大陸からの撤退を要求し、日本の在米資産を凍結し、石油を禁輸し、アメリカは日中戦争に対し中華民国に支援し、日本に敵対したのであるから、日本はアメリカに対し交戦権を行使することは国際法から当然に許されることである。
 かくしてアメリカに対する戦争は、断じて正しい。しかしアメリカ人の貴官から見れば不正と言うであろう。戦争の評価は難しく歴史の裁きを待つしかない。貴官は南北戦争を南北どちらが正しかったと言うのか。」
 南部出身のホーキング少尉はこの議論を日本人とすることの無益を察した。祖母からは北軍の徹底的なアトランタ破壊と殺戮を聞かされている。しかし今や自分はアメリカ合衆国軍の少尉である。それを今この場で言うことが何になる。
 沈黙するホーキング少尉に対し山本審判長は言った。
「この法廷は戦争の善悪を裁くのではなく、第一次大戦後国際条約で確立した、無差別爆撃禁止の国際法により、米軍と貴官の行為を裁くものである。貴官が軍事目標に対する精密爆撃を敢行し、八幡製鉄所の溶鉱炉に爆弾を命中させておれば貴官は英雄であり、名誉ある捕虜として待遇される。しかし女子供の非戦闘員に対して無差別攻撃をしたのならば、国際法並びに第二総軍制定の空襲軍律違反を問われることとなる。
 一九二三年ハーグで採択された空戦規則は日本軍の空襲軍律の原典となるものであるが、それにはこの通り規定されているから読み上げる。

第二十二条
 文民たる住民を威嚇し、軍事的性質を有しない私有財産を破壊もしくは毀損し、又は非戦闘員を損傷することを目的とする空襲は禁止する。
第二十四条
1 空襲は軍事目標、すなわちその破壊または毀損が明らかに交戦国に軍事的利益を与えるような目標に対して行われた場合に限り適法とする。
2 右の爆撃はもっぱら次の目標、すなわち軍隊、軍事工作物、軍事建設物もしくは軍事貯蔵所、兵器弾薬もしくは明らかに軍需品の製造に従事する工場であって重要かつ公知の中心施設を構成するもの、または軍事目的に使用される連絡路もしくは輸送路に対して行われた場合に限り適法とする」
3 陸上部隊の作戦行動の直近地域でない都市、町村、住宅または建物の爆撃は禁止する。2に掲げた目標が文民たる住民に対して無差別の爆撃を行うのでなければ爆撃することができない位置にある場合には、航空機は爆撃を控えなければならない。

 ホーキング少尉は陸軍士官学校でハーグ空戦規則を教えられたことを思い出した。しかし、ヒットラーがロンドン空襲でこれを破った。報復としてチャーチルもルーズベルトも破った。今やベルリンもハンブルグもドレスデンも焼け野原である。同じようにアメリカは日本の諸都市を焼け野原にしたのだが、そうか、日本軍は空戦規則を守り続けていたのか。
 士官学校で教えられた空戦規則に
「航空機がその機能を失い、機上にあった者が落下傘で避難しようと試みるときは、降下中にその者を攻撃してはならない」の規定があったことを思い出した。
 さらにホーキング少尉は士官学校での講義を思い出した。
 第一次大戦では航空機が戦闘に初めて参加した。初めは敵機の布製の翼にレンガを投げつけて破って落とそうとするものであったが、すぐに機関銃が取り付けられ空中戦が始まった。敵機の後ろに回り射撃して打ち落とすという巴戦が主流となり、最初パイロットは英雄的戦いを好み、落下傘で降下する無抵抗の敵パイロットを射撃することなど騎士道に反するとしていたが、戦争が激化するにつれ、降下したパイロットがすぐに戦線に復帰することを嫌い、降下中に射撃する風潮が生まれた。一九二三年ハーグ空戦規則が降下中のパイロットに対する射撃を禁止したのは大戦末期、この風潮が蔓延したことを憂いてのことであった。
 日本軍が空戦規則を守り続けてきたということならば、ホーキング少尉の抗弁できる材料は限定される。
 ホーキング少尉は法廷中央に立ち、審判官達を見据えて最後にこう言った。
「自分は命令に従っただけでヤハタが軍事防備都市と聞いていた。非戦闘員の存在を知らずに命令を実行しただけである」
 山本審判長は審理を終えて合議に入ることを告げた。三人の審判官は合議室に入ったが、左右の審判員からは意見もなく、山本審判長の
「証拠によれば、全弾焼夷弾で市街地に対して広範囲に爆撃されている。では銃殺刑でいいね」
の声に異論もなく、三人とも窓からの広島城と夏景色を眺めながら手短な合議を終えた。審判書を書き上げ再度法廷に戻り、ホーキング少尉を起立させ、審判長は審判書を読み上げた。

「証拠として採用した八幡憲兵隊の空襲罹災報告書によれば、投下全弾は通常爆弾ではなく焼夷弾であり、製鉄所に落下した弾はわずかに一発、残りの弾は広範囲の市街地に投下され、非戦闘員の百二十七人の死者、二百五十七人の負傷者、罹災家屋七百五十戸の損失を発生させている。爆撃の様態からして無差別爆撃の故意を認定できる。被告人は命令に従っただけと主張するが、本審判請求は米軍の一員としての被告人の責任を問うものであり、米軍将兵全体に無差別爆撃の共謀共同正犯が成立する。よって空襲軍律第三条第四条により、被告人に対して銃殺刑の死罰を宣告する」
 通訳兵から聞かされたホーキング少尉は、興奮のあまり真っ赤になっていた顔が、瞬間、血の気が失せたように蒼白となり、シャツから見える毛深い両腕がかすかに震えだした。手錠を掛けられて退廷させられようとしたとき、彼は立ち止まると、
「イッツウオー これは戦争なのだ」
と掠れた声でまた叫んだ。

 三人の審判官と早瀬法務少佐は退廷させられていくホーキング少尉を見送り、一件落着との安堵の視線を交差させたものの、その先に深い不安を抱いていた。ホーキング少尉を逮捕したあとも、続々と広島軍司令部に捕虜の米兵が押送されてきており、憲兵隊と法務部は軍律裁判を準備する対応に忙殺されていたのである。法律知識と経験を必要とされる要員の増加は困難であった。特に通訳が不足だった。
 ホーキング少尉一人を処刑するために、八幡の憲兵隊は長時間を要して空襲罹災報告書を作成し、広島の憲兵隊と早瀬少佐は何日も取り調べをしなければならなかった。通訳も録事もいる。人員には限りがある。陸軍大臣の承認を取る為に六泊七日の東京出張も必要であった。今後空襲被害が拡大し、東京への出張はより困難になっていくだろう。即決裁判という方法もあるが、本来裁判とは手続きである。手続きを省略すれば、裁判とは言えなくなる。戦禍の拡大と捕虜の増加のなか、今後軍律裁判を正しく開くことができるのか、不安が増大していたのである。

 早瀬少佐が審判書を持って小林少将へ出向くと、少将から死刑執行命令書の起案を命じられた。今日三日は金曜日だから月曜日の六日朝 執行せよとの命令である。軍律裁判は治安維持が目的だから、死刑執行はこのように早い。名古屋では翌日処刑であった。
 早瀬少佐は死刑執行命令書を起案して、小林法務少将に提出し、藤井軍司令官名での発布を受けた。憲兵隊永井中尉を呼び出し、銃殺隊員の指名、執行立会人の指名、検視の軍医の指名、処刑場の設営を命じた。銃殺隊員は六名、銃殺場は練兵場北端に土嚢を積み上げ一本の丸太柱を立てることにし、処刑後は火葬し遺骨は瑞雲寺に納骨することにした。
「六日朝八時三十分に銃殺刑の執行を行う」
と早瀬少佐は告げ、永井中尉は敬礼をして退室していった。

 早瀬少佐は電話を名古屋の第十三方面軍司令部の佐藤建雄法務少佐に掛けた。名古屋空襲の軍律裁判の検察官役であり死刑執行の責任者で、たまたま早瀬少佐とは大学で机を並べ、高等文官司法科試験合格も同期で親友の間柄であった。
 名古屋での処刑の手順を聞きたくて電話したのであるが、
「米兵十一人の処刑は名古屋市近郊の小幡原射撃訓練地で行なったが、銃殺ではなく掘った穴の前に座らせ、斬首しそのまま穴に埋めた」と言うのである。
 早瀬少佐は驚いて
「軍律では銃殺刑と定められている。何故斬首にしたのか。軍律違反だ」
 返ってきた答えは静かであった。
「銃殺でも斬首でも同じ死刑であり、本土決戦を目前にして、兵士達に人を殺すという肝試しをさせたらいいとの意見があり、そうなった」
「誰が言おうとも、軍律に規定される銃殺刑以外許されるはずがない。お前は法務少佐ではないのか。」
 佐藤少佐は変わらない静かな声で
「法務部長と軍司令官がそう言ったのだ。俺も厭な気がしたが、同じ死刑だし、兵士達も家族が残酷な空襲で殺されている。士気を鼓舞する為にも必要かなと思った。まあ戦争なんだよな」
 早瀬少佐は佐藤少佐からも聞いた「戦争なんだ」との言葉を反芻していた。
 ホーキング少尉もそう言っていた。戦争なんだと
 しかし、文明の歴史は戦争を制限することであったはずではないか。ダムダム弾は身体内で破裂し治療の仕様がない残酷兵器だからという理由で、古く一八九九年に禁止され、毒ガスは残酷で被害が広範囲すぎるということで第一次大戦後禁止された。非戦闘員への無差別爆撃禁止もそうだ。この国際法があるからこそ、空襲軍律も存在する。その軍律に銃殺刑と規定してあれば、斬首に代用できるわけがない。自分が定めた軍律を自ら破るようでは法ではない。
 違法の死刑執行ならば、正当性を主張し得ない。軍が暴走しても止めるのが法務将校の役割ではないか。
 暗澹たる気持ちになって電話を切り、椅子に座り込んだ。
 これが戦争なのだ
 早瀬少佐は、ふたたび反芻しながら、法は守られなければ破られる。違法と違法の応酬のなかでの復讐、ホーキング少尉がアメリカの復讐を叫んでいたのを思い出す。
 復讐の連鎖は止めなければならぬが、どうしたら良いのかと少佐は考え込んだ。

 八月五日は日曜日であった。
 城内の陸軍官舎で昼餉を食べる。子どもは国民学校三年生の娘で千代紙の折り鶴がうまく、配給が少なくなったいまは裁判起案の反故紙を一枚一枚延ばして遊んでいる。官舎の狭い庭には、妻が食糧増産の掛け声に従って植えたサツマイモ、トマトの列が並んでいた。
 これでは趣向がないわねと言って妻が植えた紫の朝顔が、手水鉢に伝わって蔓の先を天空に伸ばしていた。蝉は喧しく鳴き、手水鉢の水面の小波はその勢いかと思える。
 妻の実家は岩国の錦帯橋の奥であったから、今のうちに妻子を疎開させた方がよいと思うのだが、自分が法務将校をしている身では制約もあった。やはり実家の親が病気ということにして見舞い名目で行かせるか。
「おい 実家へ疎開したらどうか」と聞くと、縫い物をしていた妻は「子どもだけでも行かせましょうか」と答えた。 
 広島市街は空襲の延焼防止の為の建物除却作業が急がれており、学生は夏休み返上で出動していた。隣家の中佐の娘は、広島市立高女の女学生であるが、今朝もセーラー服にモンペ姿で、日銀広島支店界隈の建物除却作業に出向いている。

 早瀬が妻に話した。
「外交官になった鈴本を憶えているだろう。昭和十六年にベルリン大使館に赴任する途上で新京のうちへ泊まった男だ。東京出張のとき外務省前でばったり会った。」
「ああ、あのとてもお酒の強い方」と妻は答えた。
「鈴本の話によると、ベルリン陥落後ソ連軍の乱暴は凄いそうだ。ベルリンの女は皆強姦されたと言う」
 妻は驚き、縫い物を放り投げて早瀬の膝にしがみついた。
「そんな恐ろしいこと、ソ連が満州に攻めてきたら新京の官舎の奥様方はどうなるのですか。広島に米兵が来たら私たちはどうなるんですか」
 妻は身を震わして泣き出した。
 早瀬はつまらんことを話してしまったと後悔したが、しかし覚悟させておかなければならないことだと決心した。妻が泣きやむまで待ち、正座して妻の肩に手を置いて言った。
「戦争に殺人も強盗も強姦も付きものだ。どんな悲惨なことにあっても自決してはいけない。生きて生き抜いて子供を守り通すのだ。夫は妻子を養うべき義務がある。私も自分の意思で死ぬことは絶対にしない。乞食になってでも生きてお前たちの元へ帰ってくる。
 米兵に襲われたら、 ホワッツ ユアー マザーズ ネーム 汝の母の名を問う、と言え。これでも止めなければ、フォーギブ ゼム ファーザー ゼイ ドント ノー ホワット ゼイ アー ドゥーイング 父よ、彼らを赦し給え、その為すところを知らざればなり、と言え。聖書のルカ福音書の一節だ」
 妻はカトリック系の女学校を卒業していたので、この意味は直ぐに理解できた。
 早瀬は高校時代に寮の近くの教会に通ったことがあったが、いつも回ってくる寄付金盆に閉口してやめてしまった。この一節はキリストがゴルゴダの丘で磔処刑されるとき処刑兵の為に祈った言葉である。早瀬はこの言葉こそキリスト教の神髄だと信じた。

「それでも襲われたらどうしましょうか」
「両手を胸の前に組み、目を閉じ、何も記憶しないことだ。決して抵抗するな」
 妻はまた泣き始めた。

 広島の夏の一日が暮れる。山に落ちる夕日を眺めながら明日は暑い日になるだろう。ホーキング少尉はどうしているか、気になって早瀬少佐は官舎を出ると、歩いて憲兵隊本部まで出かけた。
 永井憲兵中尉が敬礼をして迎えてくれた。拘禁所へ向かいながら
「ホーキング少尉はどうしているかね」と問うと
「当番兵の報告では食事は少し取ったようですが、ひどく落ち込み、涙を流しています。遺書を書いたので預かりました」
 拘禁所は石造りの頑丈な建物で、重い鉄扉を開けて入るとひんやりとする。石畳の廊下を進む。鉄格子の中にホーキング少尉はいた。
 ベットの上に座り背を丸めて沈黙している。いや微かに嗚咽していたのだ。話しかけようかと思ったが、話かける言葉がない。死刑囚と死刑執行人とのあいだには共に語る言葉はなかった。
 アメリカの復讐を叫んでいたホーキング少尉の真っ赤な顔を思い出し、人一人処刑して何が終わるのか。そして何が始まるのか。復讐の連鎖を止める為には何が必要なのか。
 早瀬少佐はホーキング少尉を鉄格子越しに見ただけで声を掛けることもできず、ただニッカウイスキーを一本差し入れて立ち去った。

 ホーキング少尉は永井中尉に尋ねていた。
「遺書は家族に届けられるのか。自分の死は家族に連絡されるのか」
 永井中尉は事務的に答えた。
「捕虜の死亡は、中立国の赤十字を通じて祖国に連絡される。君の遺書は、認識票と共に送還される。君の遺骨の所在、すなわち墓所も連絡される。我が軍は捕虜名簿を正確に記録している」
 間を置いて言った。
「戦争の混乱が障害とならなければね」

 ホーキング少尉は遺書をしたためた。
「親愛なるパパ ママ、妹たちそして愛するサチコへ
 僕は日本時間の一九四五年八月六日の朝 太平洋の彼方、日本の広島で死ぬ。銃殺刑で死ぬのだ。ヤハタを爆撃したが、日本軍の空襲軍律に違反したと僕を裁判に掛けたのだ。爆撃目標はヤハタ全域で、ヤハタ製鉄所が主目標だった。日本軍律法廷の裁判官は、爆弾を溶鉱炉に命中させれば僕は英雄だが、市街地に落とせば犯罪人で死刑だと言っている。ハーグ空戦規則では確かに無差別爆撃が禁止されている。しかしヒットラーのロンドン爆撃、報復としてのベルリン爆撃により空戦規則は反故になったと思っていたが、日本軍側では守り続けていたと言うのだ。爆撃目標のヤハタが全域防備都市なのか無防備都市なのか、僕は知らない。ただ命令に従っただけであるが、日本の裁判官は僕が米軍全体の共犯だと言うのだ。確かに僕は東京にも名古屋にも爆撃し、機上から燃えさかる市街地を目撃した、その炎の中に女子供が逃げまどう姿さえ想像できた。
 真珠湾の騙し討ちから始まったこの戦争、正義はアメリカにあることは疑いようもない。しかし無差別爆撃を禁止したハーグ空戦規則があること、それは人道主義に基づくことは否定できない。第一次大戦後の人類の知恵だったと思う。これを台無しにしたヒットラーの罪は重いが、だからといって報復に走ることは愚かなことだ。神の手は常に白い。人道を唱える者の手も常に白くなければならない。焼夷弾のような、破壊ではなく、広範囲の焼殺を目的とする兵器は、毒ガスと同様に禁止されるべきあろう。我が軍の無差別爆撃は改められなくてはならない。せめて爆撃の事前警告、空からの警告ビラ配布をして、都市部からの住民避難の機会を与えなければならなかった。戦争だから殺せばよいという論理では、アメリカは名誉ある勝利者にはなれないであろう。
 この戦争で日本兵は凄まじい敢闘精神を発揮した。捕虜になることを拒絶し最後の一兵までバンザイ突撃して死んでいった。何故日本兵はかくも勇敢に戦うのか。彼らは騙し討ちの犯罪者ということではなく、彼らなりの戦争の大義を確信していると思えてきた。しかしアメリカ人の僕は、それが何なのか分からない。日本はアジア解放とか叫んでいるが、英米の支配を奪取したいだけのことだ。既にアメリカはフィリピンの独立を約束している。だからフィリピン人ゲリラはアメリカとともに戦っている。
 お互い相手の大義を知らないまま、戦争が続き、憎悪が増殖していく。この遺書が届く頃、戦争はどうなっているのか、殺戮の応酬で何人が死んでいくのか、殺し飽きない限り止むことはないのであろうか。
 
 愛しいサチコへ
 最後に会ったときロスの映画館で「風と共に去りぬ」を一緒に見たね。スカーレットはアシュレーを愛していたが、アシュレーはメラニーと結婚した。スカーレットは腹いせに三度も結婚したがアシュレーを忘れることはできなかった。三度目の夫、レットバトラーはスカーレットを愛していたのだが、愛娘を事故で失ったことをきっかけにしてスカーレットから去っていった。メラニーも産褥で死ぬ。失意のスカーレットは「悲しいことは明日考えるわ。私には故郷タラがある」と言って映画は終わる。タラのテーマ曲が素晴らしかったね。
 二組の男女の愛憎物語という変哲もないストーリーなのだが、南北戦争を背景として南部の繁栄と没落を描き出し、特にアトランタが炎上するシーンには目を見張ったね。だから僕たちはみな感激したのだ。
 映画の後、僕たちはフォードのオープンカーに乗りガタゴト道を馬車で走らせるように君の洗濯屋の倉庫に行き、干し草の上で君を抱擁したね。君が「私ってスカーレットのようなの、メラニーみたいなの、どちらに似ているの」と聞いたね。
 僕は「君は我が儘なスカーレットじゃない、貞淑なメラニーだ」と言ったね。
 君は、「そうよ。私はメラニーよ。貴方を待ち続けるわ。一生の愛を込めてお祈りをし続けるわ」と言った。
 僕はアシュレーのような優柔不断な男ではない。変わらぬ愛を誓っている。遠く日本の空から東を眺めて誓っている。
 しかし、運命は突然落ちてくる。避けようもない。サチコ 君は良い人を見つけて結婚すべきだ。心の片隅で僕の事を憶えていてくれれば僕は十分満足だ。あの干し草の上での短い時間が一番幸せであった。君のためにお祈りを捧げる。
 懐かしいアトランタ、南北戦争で燃えあがったアトランタ、しかし立派に復興した美しいアトランタ、僕の魂は太平洋を越えてロスとアトランタに飛んでいく 」

 早瀬少佐は永井中尉から遺書を受け取り、憲兵隊本部で英和辞典片手に読んだ。
「風と共に去りぬ」か、と感慨を覚えた。この映画は一九三九年公開されたが、日本では公開される前に戦争が始まった。日本軍が一九四一年香港を占領したときこのフィルムが押収され、山本審判長は香港で、早瀬少佐は満州の奉天で見た。ホーキング少尉を入れての三人が遠く離れて同じ映画を見て広島の法廷で会することになったが、三人はそのことを語り合ったことはなかった。
 炎上したアトランタも復興した。映画のようにいずれこの戦争も終わる。そのラストシーンがどうなるのか、ホーキング少尉は見られないが、自分は見たい、と早瀬少佐はそう思って遺書を閉じた。

 早瀬少佐は本部の自室に帰り、落ちていく夕日を眺めながら様々に考えを重ねた。夏虫が鳴き続けている。最近微熱がして咳が絶えず、厭な予感がする。高給につられて満州国の判事に任官したことがあったが、冬の満州の寒さは体にきつかった。肺浸潤を患い、帰国して陸軍の法務将校となった。
 早瀬少佐は起案紙を取り出し筆を走らせ、何度も何度も推敲を重ね、清書が済んで、紙縒りで綴り終えたのは既に夜明けだった。この夜は空襲警報が何度も発令され又解除されることが繰り返されたが、早瀬少佐は防空壕に待避することもせず起案を続けていた。
 その夜、中国軍管区司令部地下作戦室は多忙を極めていた。いつもより敵機の接近が激しかったのである。
 藤井軍司令官、松村参謀長、細井参謀等高級幹部が作戦室に詰めかけ、各地の対空監視哨から次々と到着する情報を整理し空襲警報を発令していた。
 午後十時敵機接近の報により、空襲警報を発令して待機していると、敵編隊は福山市を通過して日本海へ去った。午後十一時四十五分空襲警報を解除すると、直ぐに又敵編隊接近の報である。空襲警報を発令して警戒していると、敵編隊は岩国市を通過して日本海へ去った。続いて新手の敵編隊が広島目指して接近中との報があり、今度は本物かと警戒していると敵機はまたまた広島を通過して日本海へ去った。
 敵機のこんな行動は初めてである。敵は日本海へ機雷を投下するのであろうか、と参謀たちは話し合っていた。
 三度目の警報が解除されたのは午前三時十六分になっていた。
 長時間指揮官席に座り続けていた藤井軍司令官はゆっくり立ち上がると、当番を除いて退勤を命じ、今夜詰めた者は明日朝、二時間遅れの出勤でよろしいと労った。

 早瀬は起案の手を休めて漆黒の西の空を眺め、満州を想った。
 ナタルシアとスパルシアはどうしているであろうか。