戦場に法はないのか第九章 新京 


 その夜、ナタルシアの店は喧噪を極めていた。ベルリンを陥したソ連軍は満州を攻めてくるのか。この夏か来年の春なのか、「国境の向こうに戦車が密集している」と言う者がいる。軍人も役人も満州人も白系ロシア人も不安に駆られ情報を知りたくて集まり酒を痛飲していた。関東軍は既に南方へ移動していた。七月に非常召集を四十五歳以下の者にまで掛けて員数を集めたものの、配る鉄砲がない。兵力の差は歴然としている。誰かが「スターリンは日ソ不可侵条約を守る」と言うと安堵の拍手がパラパラと起きたが、「馬鹿野郎」との蛮声も響いた。満映の甘粕理事長は泥酔してソファーに崩れていた。
 スパルシアが細い肩を露わにし白い絹のロングドレスの裾を引いてロシア民謡「黒い瞳」を透き通ったソプラノでジャズ風に歌い、テナーサックスと掛け合い、拍手と歓声が轟いた。
 この騒ぎは一体何なの、まるで十月革命の前夜、ロシア赤十字社主催の大戦死傷者救援の慈善舞踏会のようだわ、とナタルシアは想った。降雪のなか馬車に乗り、御者が鞭を振るって労働者ボルシュビキのデモ行進を分けながら会場に着くと玄関では子供の乞食が物乞いをしている。小銭を投げながら、何千ルーブルもする黒テンの毛皮をまとったナタルシアは衛兵の敬礼を受けて中に入った。舞踏会は華やかに開かれていたが、貴族紳士は皆泥酔しボルシェビキの悪口を罵り醜態の極みであった。あの喧噪と同じなのである。
 ソ連軍は来るわ。怒濤のように来るわ。宝石と金貨を持って逃げるのよ。でももう私は歳だから身は売れない。だからピストルがいるわ。旅順まで逃げるのよ。ベレッタ婦人用拳銃を握りしめて筒先をこめかみに押しつけてみると、冷たい感触で我に返った。

 新京の法院で早瀬の同僚であった近藤判事は甘粕理事長の隣の席で酔いながら沈思黙考していた。今晩撫順出張から帰ってきたばかりであったが、酔わずにはいられなかった。十五日前法院長から密命を受けて撫順出張をした。撫順地方法院の書記官と事務官、廷吏ら十五人のうち過半数が中国国民党の党員となって支部を結成していることが判明し、治安維持法違反で摘発することを命じられた。近藤判事はその前の三年間を撫順地方法院で勤務しており、手塩にかけた部下たちであった。日満協和に賛成している者ばかりであったが、何故反日に走ったかと驚いた。やはり敗戦が近い、時勢の流れゆくまま人の気持ちも変わるのだと嘆息せざるをえなかった。ならば敗戦を前に自分は何をすべきなのか。いかなる裁判をすれば良いのか。

 近藤判事は撫順憲兵隊の支援を得て撫順地方法院に乗り込み容疑者を検挙して取り調べをしたところ実態は予測の通りで撫順地方法院が国民党に乗っ取られているに等しい実態であり、拘留しているはずの国民党有力者が適正手続きなく釈放されているなどが明らかになった。近藤判事はこれらを検挙し、治安維持法違反で起訴した。起訴された者らは、どうせ懲役三年から五年と刑の相場を予想していたが、近藤判事の判決は懲役十五年であった。
 予想に反した判決を受けた書記官らは近藤判事に詰め寄り量刑が判例相場を超えていることに抗議した。
 近藤判事は答えた。「ドイツは滅亡し、ソ連は満州に攻めてくるであろう。満州国は崩壊する。今君たちにとって懲役五年などなんの勲章にもならない。懲役十五年の勲章をあげることが君たちへの私のはなむけである」
 書記官たちは納得し、さらに近藤判事に尋ねた。「ではあなたは今後どうなさるのですか」書記官たちは自分よりも近藤判事の行く末を心配し始めたのである。
 近藤判事は「人の心配をするよりも自分の心配をしておけ。家族への連絡をしたいものは言え。儂が撫順にいる内は何とかしてやる」と言って、実際家族への手紙を許可し家族からの差し入れと面会も認めた。
 結局、この配慮がその後の近藤判事の命を救った。ソ連軍の侵攻の後、人民裁判の名の下に満州国官僚の処刑が開始されたが、近藤判事には書記官たちの助命嘆願があり命は永らえることができたが、その次は進駐してきたソ連軍の満州国日本人官僚に対する戦犯裁判が開始された。ソ連軍は近藤を反ソ罪で処刑しようとしたが、書記官たちの助命嘆願が効を奏し昭和二十八年にようやく不起訴となり帰国できた。近藤の独房の隣は満州国皇帝溥儀であった。
 反ソ罪とはソ連に対する反逆罪、国家転覆罪なのであり、かかる法制はどこの国でも制定されている。しかし大方は自国民を取り締まるものであるが、反ソ罪は外国人にも適用されるという特異性があった。だから、関東軍の憲兵隊将校は反ソ謀略をしたという容疑で処刑された。法院判事も例外ではなかった。中国国民党は満州占領後親日の満州人や中国人を漢奸罪で逮捕し公開裁判を開いて次々と処刑した。漢奸罪とは中国人でありながら親日の活動をした者に対して売国奴として処罰するものであった。
 俳優李香欄も漢奸罪で起訴されたが、実は彼女は日本人であり日本の戸籍謄本が証拠として提出され無罪釈放となった。彼女は日満親善の気風を醸成するために日本人であることを隠して満州国女優として演技していたのであった。
 書記官たちは中国国民党軍の撫順侵攻により刑務所から釈放されたが、親日の漢奸か否か取り調べを受けたが、近藤の懲役十五年の判決は効果的であり、書記官らは直ちに人民委員に任命された。
 開戦前に日本へ一時帰国していたが開戦により帰米できなくなった日本二世女性は放送局に雇われ、対米謀略放送に従事していた。謀略と言っても「軍人さんたちが戦っているとき奥さんは浮気しているわ」程度の話で大したことはなかったのであるが、戦後帰米すると、反逆罪に問われ、懲役刑を受けた。アメリカで生まれた二世はアメリカ国籍を取得しているでアメリカに対する反逆罪に問われたのである。
近藤判事は撫順から満鉄で新京へ帰ってきたが、特急アジア号の一等車に座り外を眺めると満州の広野が日暮れていく景色であった。この広野の向こうにはソ連軍の戦車隊がいるのか、いつ国境を越えてくるのかと予想すると、新京に着いても帰宅できず、ナタルシアの店に寄らざるを得ない心境であった。ソ連軍が攻めてくるのか、来ないのかで怒号と喧噪の店内で、ナタルシアは近藤に撫順出張のご苦労を労い隣の席に侍った。近藤があまりにも疲労しているのに気づいたナタルシアは「ソ連軍が来るのね」と聞くと、
 近藤は「そうだ。ソ連軍も蒋介石も八路軍もくる。全てはお仕舞いだ」と答えた。横にいた甘粕理事長はこの会話をじっと聞いていたが、無言であった。
 ナタルシアはソ連軍の到来を確信し、資産の整理と馬車の手配をしなければならないと決断し、翌日から開始したが、満州人の買い手は現れなかった。皆日本敗北を予想して買い手にならなかったのである。ナタルシアは仕方なく店の権利も満州銀行券も投げ売りし馬車とピストルを買い入れ姪たちを連れて新京を八月八日出発したが、日本人開拓民の逃避行と同じく苦難の道をたどった。ソ連兵にとって逃げる日本人は強盗と強姦の対象に過ぎず、好奇心半分で殺したり生かしたりしたが、白系ロシア人は反ソブルジョアジーのなれの果てであり処刑の対象にされており、ナタルシアたちはソ連軍に見つからないように注意しなければならなかった。特にナタルシアは新京でロシア倶楽部を経営し、店は東西情報の交差点であった。だからソ連諜報部がその気になれば、ナタルシアを二重スパイの嫌疑で逮捕処刑は可能であった。
「逮捕されたら、お仕舞いね」とナタルシアはいつも姪たちに話していた
 一方、書記官たちの運命も過酷であった。彼らは中国国民党員と国共合作下の中国共産党員であった。終戦後国民党が満州を支配したが、やがて中国共産党が隆盛となり国共内戦となり最終的には中国共産党が勝利するが、この過程で彼らは皆戦死したり処刑されたりしていった。最後まで生き残った一人は共産党員であったが、朝鮮戦争で戦死した。