戦場に法はないのか あとがき10


洪思翊陸軍中将の処刑

 洪中将(1889〜1946)は、朝鮮の貴族の子であるが、大韓帝国王の命令で日本留学中に日韓併合となり、国籍が日本人となった。彼は陸軍士官学校、陸軍大学へと進み、朝鮮人としては唯一人将官となり、中将まで昇進した。ただ、朝鮮人差別があり、実戦部隊に配属されることはなく、主に補給の兵站部隊に配属され、最後はフィリピンの捕虜収容所長を勤めた。
 昭和20年1月ルソン島に米軍が上陸したとき、捕虜の処遇をどうするかが問題となり、山下奉文大将は「米軍が捕虜収容所に接近したときは、捕虜を解放して捕虜収容所員は撤収せよ」と洪中将に下命し、洪中将は配下の収容所長に伝達し、実際ルソン島の収容所ではそうしていた。前九章で書いた捕虜を盾として局地停戦協定を締結し終戦までマニラに日の丸を掲げ続けたのは唯一の例であった。
 山下奉文大将がこの命令を下したのは、昭和17年8月と18年11月に全国捕虜収容所長会同が開催されたとき、東条英機首相が「ジュネーブ条約を守れ」と訓示し、この訓示が印刷製本されて頒布されたことによる。
 大戦途中から朝鮮人に対して徴兵制が実施されたが、軍では朝鮮人に武器を持たせることを恐れ、朝鮮兵には兵站の運送業務と捕虜収容所看視の役割を命じた。朝鮮兵の反乱を恐れたのである。
 当時朝鮮人は日本人からチャンコロとか鮮人とか呼ばれ、日々差別されていた。朝鮮の捕虜収容所看視兵は、日本兵から差別されている怨みを捕虜に振り向けた。朝鮮人看視兵は、米兵捕虜の小さな規則違反を口実にしてビンタの制裁を加えた。このような個別の案件が集積して、洪中将に対する捕虜虐待の起訴事実が構成された。要するに監督責任を問われて死刑に処せられたのである。
 BC級戦犯で死刑となった朝鮮人看視兵の数は多い。しかし、将官でしかも朝鮮人で死刑となった者は彼一人であった。 洪中将はマニラ戦犯法廷で一言も陳弁しなかった。生かしておれば朝鮮戦争の時、軍司令官になっていたであろう。惜しいことをした。
 将官になった朝鮮人は洪中将一人であるが、陸軍士官学校を卒業した朝鮮人は大隊長クラスを歴任し、尉官、佐官となったが、例えば陸士50・52・57期は全員戦死。一人は広島で被爆死した。朝鮮人将校は勇敢に日本天皇の為に戦って散ったのである。
洪中将の辞世の句
「くよくよと思ってみても愚痴となり 敗戦罪とあきらむがよし」
「昔より冤死するものあまたあり われもまたこれに加わらんのみ」
 私の対句 
「色はにほへど、散りぬるを、科なくて死す。
 イロハの歌は、世は誰ぞ、浅き夢見し」

参考文献 山本七平 ちくま文庫