戦場に法はないのか あとがき11


十一、太平洋戦争の痛恨事

 太平洋戦争での日本の最大の痛恨事を書く。
 それは、日本人のなかから、一人の逃亡も反乱も出なかったことである。「特攻隊に志願する者は一歩前に」との号令に全員が一歩前に進んだ。戦線からの逃亡兵は一人もいなかった。ましてや反乱など話すらなかった。
 では、諸外国を見てみよう。
 まず、フランス、昭和十四年第二次世界大戦が開戦となりドイツ軍の機甲師団がベルギー経由でパリに迫ったとき、ペタン大統領は敗戦主義に囚われ降伏を決定してしまった。ドゴール国防次官は一人フランスを飛び立ちイギリスに亡命し、臨時フランス自由政府を樹立し、ドイツと祖国フランスペタン政府に対して宣戦を布告した。ペタン大統領はドゴールを反逆罪で欠席裁判に起訴し軍事裁判所は死刑判決を言い渡している。
 ドゴールの臨時自由政府はフランス国内のレジスタンスを指導し、自由フランス軍と名乗り昭和十九年ノルマンディに英米軍とともに上陸する。そしてパリ解放一番乗りをしてペタン大統領を逮捕し反逆罪で死刑判決にしている。ペタンは高齢であったので死刑の執行は寿命の尽きるまで延期された。
 かくして、フランスでは、国民がレジスタンスを組織しドイツに対する戦争とペタン政府に対する反乱を実行したのである。
 イタリアではどうであったか。ムッソリーニはヒトラーと同盟してソ連と英国を攻撃していたが、国民の支持はなく国会の信認を得られず昭和十八年七月二十五日イタリア国王はムッソリーニを首相から罷免し、バトリオ元帥を新首相に任命した。バドリオは英米に降伏した。イタリアでは反乱という形ではなく、国会と国王の憲法上の権限行使という形で首相交代と降伏を決定している。まことに合法的終戦の形式を踏んでいる。イタリアは無条件降伏したものの、早期にヒトラーとの縁切りをしたので戦後処罰は軽かった。戦争中、日本の新聞では、バドリオの裏切りを糾弾する論調であったが、しかし、日本国会の中で、東条英機首相不信任決議を提案した議員は一人もいなかったし、昭和天皇が東条英機首相を罷免したということもない。東条英機は退任後も宮中詣でを何度もしており個人的信頼関係にあったようだ。実際には天皇は東条英機以外に話し相手がいなかったとも思える。

 ドイツではどうであったか。ノルマンディ上陸作戦の直後の昭和十九年七月二十日シュタウフェンベルグ大佐がヒトラー爆殺を実行したが、ヒトラーは軽傷で終わった。この事件は個人的犯行ではなく、組織的犯行で共犯とされたもの二百人が処刑され、有名なロンメル元帥は自決を強いられている。この事件は個人的犯行ではなく組織的反乱であった。成功しておれば、最後の1年の死者百万人は助かった筈である。
 ロンメルは家族の助命と引き換えに自殺した。彼はアフリカ戦線での英雄であり、ヒトラーも民心維持の為にロンメルを処刑できなかった。この自決から半年後ベルリンは陥落しヒトラーは自決する。ロンメルはヒトラーの最後を見たくなかったのであろうか。第一次世界大戦末のキール軍港の水兵の反乱からドイツは敗北する。ロンメルが反ヒトラー軍を組織してドゴールレジスタンス軍と共闘すれば、ロンメルは戦後ドイツの大統領になれたであろう。何故、ロンメルは戦わなかったのであろうか。北フランスでアメリカ戦闘機に襲撃され重傷を負っており戦えなかったのかも知れないが、私なら、どうせ死にかけの身なら断固戦う。武人にあらざる死に様であった。
 ヒトラーの部下で副総統のルドルフ・ヘスがいた。昭和十六年五月十日戦闘機に乗ってイギリスに飛び、落下傘で降下した。ヘスはヒットラーのイギリス征服作戦に反対し講和を主張していたが、その内容はイギリスがドイツの欧州支配を認める代わりにドイツはイギリスの植民地支配を認めるというものであった。ヒットラーが同意しないので個人交渉をしようと決意して飛んだのである。驚いたヒットラーはヘスが発狂したと宣伝し、副総統から解任した。イギリスは利用価値の失なったヘスを逮捕し戦時捕虜として扱い、戦後ニュールンベルグ裁判で終身刑の判決を受け、三十年後ベルリンの戦犯刑務所で病没する。最後の服役戦犯であった。続々と戦犯が釈放されていく中、ヘス一人のためにベルリン戦犯刑務所が二十年間経営された。
 ドイツ人の中で、シュタフフェンベルグ大佐も副総統ヘスも自分の頭で考えて決断し行動したのである。その他ドイツでは白いバラ事件と呼ばれる反戦活動があり何人も処刑されている。中には手斧で処刑された者もいる。

 以上のように、フランス、イタリア、ドイツでは、独裁者の戦争命令に反対して、反乱や暗殺したり、国会と国王の命令により独裁者を解任追放したりしてきた。
 しかし、日本では全くその気配もなかった。全くである。このことが私が痛恨事と述べるゆえんである。
 明治の自由民権運動があった。大正デモクラシー発展のお陰で昭和の初めには普通選挙が実施され、陪審制も開始された。国民は民主主義を体得できていた筈なのである。昭和十九年には衆議院選挙もあったが、聖戦貫徹を主張する議員ばかりで、即時停戦講和を主張する議員は一人もいなかった。東条英機は僅かの反対者を既に戦地へ召集しており、反対者は沈黙を守って軍役に付いた。私ならば戦線から脱走し米軍の捕虜となりルーズベルト大統領との面会を要求したであろう。
 天皇の開戦の詔勅の力は偉大であった。天皇絶対権力のもと誰も異論を言えなかった。だから反面、天皇が降伏を放送したとき何の混乱も起こらず平穏に終戦できた。明治以来の天皇信仰の威力におどろかされる。
 戦艦大和は昭和二十年四月七日に沈没する。沈没することは分かりきっていた。武蔵は大和の目の前で沈没した。しかるに伊藤整一中将と有賀幸作艦長は出撃した。
 私が彼らなら、大和を東京湾に出撃させ、海軍省の建物に砲撃し、やまと平和政府を樹立する。要するに反乱である。大和には三千人が乗り込んでいた。実戦では三百人が救助され損耗率九割であった。米空軍の戦死者は僅かに十三人、こんな馬鹿げた作戦命令に服従する義務はない。私なら反乱を起こします。大和から陸戦隊を派遣し皇居の天皇を逮捕し、天皇から首相に任命させる。天皇奪還に来た軍は大和からの観測砲撃で粉砕される。天皇を大和に移乗させればもう完璧です。東京湾に浮かぶ大和が首都となり皇居となり、誰も攻撃できなくなります。伊藤と有賀が首相となりアメリカと和平交渉に入れば良い。その頃はポッタム宣言の前であるから、ソ連の横やりもなく、日本とアメリカとで自由に終戦条約を締結できたはずである。南樺太はソ連に返すにしても千島列島は日本に残ったかも知れない。
 反乱するまでの勇気がなければ、適当に戦ってから奄美大島の湾口に乗り上げて終戦の日まで待ちます。三千人の乗組員の命が助かり、戦後の復興に役立ったでしょう。三千人というのは一つの町の人口と同じです。両親・兄弟・妻子を足せば二万人の中堅都市全体を泣かせたことになる。
 実際には、大和は沖縄への一直線海路を進んではいない。一直線に行くと島伝いとなり、何処の島にも海岸乗り上げができるが、佐世保へ行くとの偽装進路作戦から大和は島つたいの航路から離れて北西向きに進路をとり、南西諸島から離れてしまった。私なら南西諸島の島伝い航路をとり、いつ沈没しかけても何処かの島の海岸に乗り上げれるようにします。それから四月間待っていれば終戦になるのです。昭和十六年十七年十八年に戦死した者は葬祭料も貰えて墓石も建立できた。昭和二十年になると戦死者に対して何もなしと落ちぶれた。
 三千人の大和乗組員の大半は生き残ったと思う。

 よく、友人と「太平洋戦争の時代に生きていたら、やっぱり特攻に行きましたか」と議論しているが、友人全員は特攻に行くと答えます。私の回答は、フランスのドゴールのように戦うと答えます。 
 真珠湾攻撃のあの日、私が零戦のパイロットだったら攻撃せずに真珠湾上空を飛び続け、戦闘が終わってから着陸します。
「私は日本のドゴールである。日本臨時平和政府を樹立し、自由日本軍を創設して東京政府に宣戦布告する」と語るでしょう。特殊潜航艇で事故のために捕虜第一号となった人が「自決する」と叫んでいるときに、私はルーズベルト大統領との面会を求めます。捕虜の特権を主張せずに、日本臨時平和政府の首班としての外交官特権を主張し、あのドゴールが英米相手にあの手この手の外交手腕を駆使したようにやります。
 やり方はこうです。
 日系人収容所で募兵をさせて貰い、軍事訓練をさせて3個師団くらいを建軍する。特に通訳兵と暗号通信兵、医療部隊、捕虜収容所監視兵の育成に努める。
 実際には二世の中から日本人部隊が編成され欧州戦線に出陣しているからこの可能性は大である。
 太平洋の戦場で捕虜になった日本兵に対して平和思想教育をして味方に引き込む。
「貴様と天皇は東条英機に騙されているんだよ。東条英機は手柄を立てて男爵になりたいだけ。日本は日本におれば良く、他人さまのマレーフィリピン、他人さまの領地を欲しがるのは泥棒みたいなもんだ。自分と家族の生活を大事にして平和にするために日本に帰ろう。」と説得する。
 カイロ・ヤルタ会談にはオブザーバー出席を要求する。
 米軍が行う無差別爆撃とか人道違反の戦闘に対して常に抗議して牽制する。日系人の収容所についても人種差別と避難する。焼夷弾の絨毯爆撃については国際法違反だと批判する。原爆については徹底的に反対し、米軍に対する反乱さえ辞さないことを強調する。
 そして、ルーズベルト大統領に対して日本攻撃作戦について伝授する。
「マリアナを陥落させたら次は硫黄島を落とす。フィリピンや沖縄、九州を攻撃しない。マッカーサーはフィリピンから撤退したときにアイシャルリターンと言った手前、フィリピン攻撃に拘るが、それは私情に過ぎない。フィリピンや沖縄には満州から来た機甲師団がいるからわざと回避する。直接東京の天皇の逮捕を目指す。日本軍が慌ててフィリピンの軍を日本に戻そうとしてもビシー海峡のもずくとなる。
 日本軍の分散作戦に対してアメリカ軍は東京皇居天皇に対する一点集中作戦を取るべきであり、兵員の損耗をできるだけ回避すべきである。マッカーサーはフィリピンを取って私怨を晴らし、沖縄から九州からと東京を目指す作戦を選んでいるが、いたずらに戦場を拡大し兵員の損耗を増やすだけの愚策である。最小の犠牲で最大の効果を目指すべきである。
 マリアナからB29、硫黄島から戦闘機隊、東京湾に戦艦部隊を派遣し東京を砲撃・爆撃する。東京を破壊し天皇を捕虜にして降伏させれば戦争は終わる。寄り道をしておれば犠牲が多くなるだけであり、東京の天皇への一直線作戦が効果的である。艦隊を東京湾に派遣してもいるのは戦艦長門だけである。二十隻の戦艦で叩けば日本海軍は壊滅し、爆撃で東京首都圏の飛行場を叩けば東京圏の制空権を支配できる。
 最後の仕上げは自由日本軍が落下傘で皇居に降りる。その前に皇居周囲20キロベルト地帯に時限式爆弾を巻いておき、皇居への救援部隊の到着ができないようにしておく。日本人の自由日本軍であるから東京の地理案内は容易でありかつ日本語に困らない。三千人もあれば十分である。三千人が落下傘で降下し皇居の天皇を探し出して逮捕し、東京湾の戦艦ミズーリー号へ連行し、降伏文書に調印させ、ラジオ放送で国民に降伏を命令させる。
 そうすれば、太平洋各地に百個師団、内地に百個師団が残っていても、太平洋戦争は終了する
 天皇を逮捕することは、日本語で言う玉を取ることである。古来日本では玉を取った方が勝つ。日本の歴史に合う対日作戦が大事である」

 ルーズベルト大統領はこの提案を即時却下するであろう。そしてドゴールよりややこしい奴が舞い込んできたと嘆息するであろう。ルーズベルト大統領の考えは、日系一世は日本国籍であるが、アメリカで生まれた日系二世三世はアメリカ国籍を持っている。だから米軍の中の黒人部隊、インディアン部隊と同じような処遇をすれば良い、そうすれば米軍の統率下に入れる事ができる。
 ドゴールはフランス国内のレジスタンスをフランス臨時自由政府軍と扱い、英米と軍事協力条約のもとにドイツと戦ってきた。自由フランスと英米とは対等な国家政府関係にあると強調し続けた。チャーチルはロンドンの間借り人にしか過ぎないドゴールの尊大な要求に辟易しており、二人は仲が悪かったが、軍事協力は作戦上必要なので、仲の良い振りはしていた。
 私はドゴールに習い日本臨時平和政府の国軍として一世二世三世を採用するし、南米からの志願兵も募集する。スペイン内乱戦争では他国の国民が志願兵として出兵したことがある。アメリカ国籍の二世三世が日本臨時平和政府軍に志願してもおかしくはない。こうして私は日系部隊がアメリカ軍ではなく私の指揮下に置くという原則を守り続ける。 大日本帝国降伏後に発生する戦後処理特に領土と賠償金問題を解決しておくためには、日本臨時平和政府を英米に承認させておくことが必要だ。そのためにはドゴールとの友情が必要だと考え何度も面会を申し込み、仏印の戦後処理に譲歩案を提示し懐柔する。ドゴールと提携して、戦後の領土・賠償問題に参加して発言権を得ておく。そうすれば北方領土問題など発生する筈もなかった。
 
 私は勝利のためには天皇の身柄確保が一番であることを強調し、東京空爆は爆弾の無駄使いに過ぎず、日本人の戦闘意欲を減退させるために無差別爆撃をしても効果に乏しい。工場や住宅を焼き尽くしても日本人全員を殺すことはできないし、地方へ拠点を分散させる効果しかない。敵は天皇ただ一人、吉良屋敷への討ち入りと同じ、昭和二十年夏には、米軍艦隊が東京湾に侵入して精密観測艦砲射撃で陸軍省海軍省を破壊する。東京湾にいるのは戦艦長門しかいないが、燃料欠乏し動かすこともできない。猛烈な艦砲支援射撃のなか、日本臨時平和政府軍の落下傘隊を皇居に落下させて天皇の身柄を取り、天皇から日本臨時平和軍を大日本帝国の正当政府に任命するとの勅旨を得て天皇にラジオ放送させる。天皇が拒絶すれば、目の前の東京湾で原爆を破裂させて見せれば良い。今まで幕僚将軍たちから、苦戦していますが負けてはいません。本土決戦の特攻作戦で米軍に出血を強いれば講和が可能ですと言われて、実は騙されていたことをに気づいた天皇は降伏を決意します。これで太平洋戦争は完結します。2.26事件は皇居占拠天皇身柄確保をしなかったから失敗したのです。玉を取ることが勝利の秘訣です。無差別爆撃しなくても原爆を落とさなくても日本を降伏させる方法があることをルーズベルト大統領に教えてやることです。
 アメリカは太平洋飛び石作戦を採用していた。オーストラリア近くの南太平洋まで後退したアメリカ軍は島の飛び石つたいに東京を目指そうとしていた。ラバウルなどの強固な陣地を配置した島は素通りとし、マリアナ、グァム、フィリピン、沖縄を主戦場に選んだ。戦場を選択できる者は強い。ラバウルと台湾は素通りした。そのため配備されていた日本軍は無駄となった。沖縄には4個師団が配備されていたが、昭和二十年はじめ2個師団が台湾へ移転された。そのために沖縄の防衛計画が破綻してしまった。台湾へ移動した2個師団は、台湾防衛が手薄になっているから補充したのではあるが、終戦まで米軍は侵攻せず遊軍となってしまった。
 アメリカ軍がフィリピンを攻撃したのはマッカーサーの意地と面目に過ぎない。昭和十七年、アイシャルリターンと言い残してフィリピンからオーストラリアへ逃亡した彼にとってフィリピン奪還は意地であった。しかし、フィリピンを通過して直接東京の天皇を目指しても勝利可能なのであるから、フィリピン攻撃も沖縄攻撃も必要がなかった。放置しておいても、フィリピン諸島に配置された日本軍は遊軍になるだけであった。フィリピンに配置された日本軍は満州から来た最新鋭の機械化部隊であった。フィリピンを通過すればこれが無駄玉となる。日本軍が慌てて本土への帰還を命令すれば、ビシー海峡で沈没させられたであろう。フィリピンでの日米比の戦死者と殉難者はマッカーサーの私情の犠牲者である。

 特攻作戦は米軍に対して何の効果もなかった。日本軍はフィリピン海戦から特攻を作戦の常道として採用し、体当たり特攻を始めた。この常道は外道であった。
 日本軍の発想は日本兵が死を覚悟して特攻すれば、米兵の士気が衰え、多大の出血を予想して有利な停戦ができるのではないかと期待していたが、米軍はそんなに甘いものではなかった。特攻のお返しには無差別爆撃が来た。非戦闘員の市民の住宅を焼き尽くし最後は原爆を破裂させた。ここまでに至ってようやく軍部も特攻で対抗しても無差別爆撃の殺戮をお返しされるだけだと米軍の野蛮な正体に気が付いて、このままなら一億人の日本民族皆殺しの結果を招くとして降伏の決断をするに至った。
 私の痛恨事とは、以上のような、日本人のなかに逃亡も反乱もなかったこと、日本軍は米軍の野蛮性に長らく気が付いていなかったことにある。
私は三十年早く生まれておれば、ドゴールのように戦ったであろう。勿論戦っている内は非国民と言われ家族は迫害されたであろうが、勝てば官軍、総理大臣となって、ドゴールのフランスのように、負けなかった日本の再建を可能にしたであろう。