戦場に法はないのか あとがき2


二、原爆の日、広島には米兵がいた。

 七月二八日呉軍港に潜伏する日本軍艦を目標とする空襲があり、沖縄から発進したB二九が二機、艦載機が二機撃墜され、十二人が捕虜となった。捕虜になった一人は、落下傘降下してから猟銃棍棒竹槍を持った住民に包囲され恐怖の中で拳銃を発射し、猟銃を持っていた老農夫一人を射殺した。この老農夫は息子を神風特攻隊で失っており、仇討ちと意気込んで使い慣れた猟銃を持って米兵逮捕に突進したのであるが、逆に撃たれてしまったのである。B二十九の機長は尋問のために東京へ護送されたが、残りの捕虜十一人が広島に残った。
 八月三日にはB二十四の五機編隊が広島市街地を爆撃し一機が高射砲で撃ち落とされ九人が捕虜となった。米兵の一人は住民から暴行を受け死亡している。将校の二人は東京へ護送したが、残りの六人は広島に残った。
 以上、十七人が広島師団司令部内の拘禁所・営倉に収容されたが、ここは爆心地である。(二十三人説、十一人説もある)
 この十七人が被爆後どうなったか。
 確実に分かっていることは、広島から宇品憲兵分隊に運ばれた米兵二人が八月十九日死亡したことである。B二九のラルフ・ニール少尉二四歳、艦載機のノーマン・ブリセット軍曹十九歳である。日本海に不時着し八月十五日に日本漁船に救助されたB二九乗組員十人はトラックに乗せられ被爆直後の広島師団司令部まで連行された。更に宇品憲兵分隊へ連行せよとの命令があり、十人は八月十七日宇品に着いた。そこには被爆して重傷の二人が広島から護送されて収容されていた。十人はこの二人を看病したのであるが、二人は一九日死亡した。
 その他の者がどうなったか。記録が乏しい。原爆で死亡したのか、市民が報復を加えたのか。不明である。市民が米兵に復讐していたとの証言があるが、噂話か伝聞の類であり、直接的証言はない。捕虜虐待事件のBC級横浜戦犯裁判が始まったので、戦犯裁判を恐れて誰も語らなくなったのである。
 占領軍は広島憲兵分隊の憲兵准尉を逮捕して一年間取り調べしたが、最後には釈放した。アメリカにとって原爆は都合の悪いことであり、戦後長らく原爆報道を禁止していた。被爆米兵虐待事件を公開裁判に掛けることを躊躇ったのである。
 相生橋のたもとに米兵の死体があった、それは転がっていたのか、縛られていたのか、死因は何か、分からないままであるが、そうしたことはあった。
 兎に角、捕虜の二人は広島から宇品まで護送され、十九日に同僚達に看取られて原爆症で死んだ、死ぬ前に自分の名前を言えた、このことは事実である。
 広島にいた米兵の全員が死んだ。
 無差別爆撃とは、女子供問わず、日米敵味方を問わなかった。

 参考文献
 広島原爆の疑問点 宍戸幸輔  マネジメント社
 広島軍司令部壊滅 宍戸幸輔   読売新聞社
 原爆で死んだ米兵を追って 森重昭 文芸春秋二〇〇二年九月号 
 日本憲兵正史   全国憲友会