戦場に法はないのか あとがき4


国際法と空襲軍律、軍律裁判と戦犯裁判

 ハーグ空戦規則や日本陸軍の空襲軍律が定められ、無差別爆撃の搭乗員に対する軍律裁判が開かれたことは事実である。
 海軍には空襲軍律がなく、海軍に捕まった捕虜は処罰されることはなく捕虜収容所送りになった。
 空襲の捕虜全員が軍律裁判に問われることはなかった。一九四四年夏 八幡を爆撃したカーマイケル少佐を取り調べしたのは、後記の伊藤信男法務少佐であったが、焼夷弾を使用していないことを理由に無差別爆撃を否定し、不起訴にして捕虜収容所送りと決定した。
 ドーリットル隊員に対して上海軍律裁判は三人を銃殺刑にしている。昭和二十一年三月上海戦犯法廷は、日本司令官中将に懲役五年、審判官大尉二人に懲役九年、同一人に懲役五年に処した。この判決は軽すぎるとアメリカの世論を刺激したのでその後の名古屋空襲の横浜BC級戦犯裁判では死刑判決が下されることなった。
 
 一九四五年五月十四日の名古屋空襲で捕虜になった米兵十一人に対して名古屋の軍律法廷は七月十一日銃殺刑の判決が下りたが、翌日処刑兵士への肝試しの意味で斬首刑にしてしまった。この時の検察官役の伊藤信男法務少佐に対して横浜BC級戦犯裁判は死刑判決を下したが、後日無期刑に減刑した。
 五月十四日以降も名古屋市への空襲は続いたが、軍司令官岡田資中将は軍律裁判の手続きを省略し捕虜二十七人を斬首刑に処した。戦争が緊迫化し、正式の軍律裁判を開いている時間がないから略式にしたのである。岡田司令官は横浜BC級戦犯裁判で昭和二十四年九月十七日死刑に処せられた。
 東部軍では東京空襲の六十二人の捕虜に対する軍律裁判を開かず、渋谷の陸軍刑務所に収容していた。開いておれば司令官や審判官たちは横浜BC級戦犯裁判で裁かれていたはずである。しかし昭和二十年五月二十五日の空襲で陸軍刑務所にいた米兵捕虜数名は焼死した。お陰で刑務所所長ら五人が「避難させなかったこと」を追求されて死刑判決となり、B二十九の刑務所爆撃は不問にされた。横浜BC級戦犯裁判のご都合主義の犠牲となったのである。
 この五月の空襲のとき、陸軍刑務所にいたのは近衛文麿上奏文事件で逮捕されていた吉田茂元駐英大使であった。刑務所長は吉田茂の避難には尽力した。戦後総理になった吉田茂はGHQと交渉し刑務所長らの助命に成功した。
ラバウル、フィリピン、シンガポールなど外地で開かれたBC級戦犯裁判の、捕虜に対する虐待事件では死刑が連発された。捕虜からのアンケート用紙だけが証拠となり、捕虜に対する反対尋問の機会も与えられず、アンケートに名指しされた看守が「ただ殴っただけの罪状で」簡単に死刑にされた。横浜裁判では、軍律裁判を開かずに斬首刑にした岡田司令官は死刑となったが、一応軍律裁判を開いた伊藤少佐に対しては死刑を執行することは避けた。
 BC級戦犯裁判には問題があったものの、米人あるいは日本人の弁護士を付け、法廷は公開され審理は丁重であった。日本軍の軍律裁判と比較して文明的であったと言える。
 広島原爆投下のB二十九「エノラ・ゲイ」の機長は二〇〇七年秋天寿を全うして他界した。彼は最期まで原爆投下の正当性を主張していた。しかし、我が国の確定した判例によれば、彼には銃殺刑が相当である。

 日本の軍律裁判が対象としたのは、B二十九の無差別焼夷弾爆撃とドーリットル隊の市街地への機銃掃射である。
 通常爆弾による爆撃の場合、市街地に投弾していても不起訴にしている。軍律裁判は、焼夷弾という広汎市街地焼殺を目的とする武器の使用の場合に限定していた。
 日本軍による重慶爆撃を無差別爆撃と非難する論調がある。しかしこれは重慶の幕営・軍事施設を目標とする通常爆弾の爆撃である。目標を外れた爆弾が市街地に落ちて市民に犠牲者が出たことは事実であるが、一式陸攻数十機規模の爆撃ではB二十九何百機による焼夷弾の意図的無差別爆撃とは被害の程度が比較にならない。
 ドーリットル隊は低空飛行して地上の目標を視認しながら爆撃と機銃掃射をしていた。機銃手は復讐を叫びながら学校や市街地に対して無闇に射撃したので、子供たちの犠牲が出た。これは騎兵隊がインディアン部落を襲撃して馬上から女子供を狙い撃ちにしたのに等しい。
 上海軍律法廷は子供を狙い撃ちした責任者三人だけを処刑したのである。
 日本軍の爆撃は軍事目標限定主義であった。日本人は貧乏性で、弾が勿体ないのである。真珠湾でもこれは守られた。真珠湾での市民の犠牲者はアメリカ軍の対空砲火の落下物が原因である。フィリピンでもシンガポールでもこれは守られた。
 アメリカ非戦闘員の戦死者は、昭和二十年五月五日オレゴン州フセティ・レークビューで立木に引っかかっていた日本軍の風船爆弾を引き下ろそうとして爆死した牧師夫婦と引率の生徒の六人だけである。風船爆弾はアメリカに山火事を発生させて後方攪乱を目的として、通常爆弾と焼夷弾を搭載した風船を九千個も放した作戦であるが、地球儀を見れば明らかな通り馬鹿げた作戦で、砂漠や氷河や湖沼に落ちれば無意味で、とても空襲と呼べた作戦ではなかった。
 一方、日本空襲の戦死者は約五十万人、内、昭和二十年三月十日の東京空襲十万人、広島二十二万人、長崎七万人であった。日米無差別爆撃の勘定書は、五十万対六に終わった。
 
 参考文献
 軍律法廷   北博昭    朝日新聞社
 法廷の星条旗 横浜弁護士会 日本評論社
 ながい旅   大岡昇平   大岡昇平全集十巻筑摩書房