戦場に法はないのか あとがき5


開戦時のアメリカの状況、開戦法規

 アメリカはもともと覇権をアメリカ大陸に限定し、世界とりわけ欧州に対する孤立主義、中立主義を主張するモンロー主義に支配されていた。アメリカは第一次大戦のおり、ドイツと英仏が開戦しても軍事物資を英仏に支援するのみでなかなか参戦しなかった。議会及び国民のなかに欧州大戦への中立主義、平和主義が強かったからである。しかしドイツがUボートによる無差別無警告雷撃作戦を展開し、アメリカの船舶の犠牲が続出するに及びようやく参戦するようになった。欧州での地上戦には新兵器の戦車、航空機、毒ガスが登場し、米兵の損失は甚大となった。戦後またアメリカはモンロー主義に戻り、ヒトラーが英仏を攻撃しても、議会と国民はひたすらアメリカの参戦に反対し、アメリカ大陸の平和を求め続けていた。
 ただルーズベルト大統領は議会とは異なり、ヒトラーに対する参戦を頑なに決意していた。アメリカがモンロー主義に閉じこもるのではなく、欧州のみならず世界全体に対する帝国主義の実現をめざしていたのである。ルーズベルト大統領はニューディール政策を採用して公共投資による景気への刺激策を採りつづけてきたが、欧州大戦勃発により、欧州市場の壊滅、平時経済の停滞、過剰生産による恐慌発生の危機が目前となってきた。破綻した平時経済から戦争経済への転換、戦場という巨大な消費の場の創設による、過剰生産の消化を願っていたのである。しかし議会と国民は平和を祈願し、アメリカの参戦は困難な状況であった。ルーズベルト大統領は日本がアメリカに先制攻撃をさせること、しかも卑劣な奇襲攻撃をしてくることを待望していた。日本を刺激して開戦させたい、その為にルーズベルト大統領はハルノートを日本へ送りつけ、日本が到底容認できない中国からの撤退を要求し、応じなければ日本資産の凍結と石油の禁輸をすると恫喝し、実際実行した。日本の軍艦と民用船舶の石油は二年分の在庫しかなかった。これでは日中戦争を戦うどころか、平時産業さえおぼつかなく、壊滅的打撃を受ける。 
 ことはルーズベルト大統領の願い通りに進展した。 おまけに日本大使館は真珠湾攻撃前に最後通牒を手渡すことに失敗し、「騙し討ちの真珠湾」という口実まで与えてしまった。ワシントンの日本大使館は、日米開戦などまったく予期し得ず平時の体制で臨んでいたところ、ワシントン時間の十二月六日長文の暗号電文が到着したが、たまたま某書記官の転任送別会を予定通りに行って酒に酔い、解読とタイプ打ちに手間取っているうちに真珠湾攻撃が始まってしまったというのが真相であった。東京からの電文では、ワシントン時間七日午後一時に通告書を手渡せと指示していた。これは真珠湾攻撃予定時間の三〇分前であった。しかし手間取っているうち、野村・来栖大使がハル国務長官に手渡すことができたのは午後二時二〇分になってしまい、そのとき真珠湾は既に炎上していた。
 最後通牒は過ちにより遅延したというだけのことで、騙し討ちとは言えないとの説がある。しかし、最後通牒を読むと、長々と日米交渉の経過を総括し、妥結に至らない責任がアメリカ政府にのみあることを非難し、
「かくしては日米国交を調整し、合衆国政府と相携えて太平洋の平和を維持確立せんとする帝国政府の希望は遂に失われたり。よりて帝国政府は茲に合衆国政府の態度に鑑み、今後交渉を継続するも妥結に達するを得ず、と認むるの外なき旨を合衆国政府に通告するを遺憾とするものなり」と締めくくっていた。
 一九〇七年 ハーグで締結された開戦条約では
「第一条 締約国ハ理由ヲ付シタル開戦宣言ノ形式又ハ条件付開戦宣言ヲ含ム最後通牒ノ形式ヲ有スル明瞭且事前の通告ナクシテ、其ノ相互間ニ、戦争ヲ開始スヘカラサルコトヲ承認ス」と規定され、日本も批准している。
「今後交渉を継続するも妥結に達するを得ず、と認むるの外なき旨を合衆国政府に通告するを遺憾とするものなり」では、単に交渉の打ち切りを宣言するにとどまり、開戦宣言にはなっていない。開戦宣言の文言も国交断絶の文言もない。読んだアメリカもその意図を図りかね、
「これは開戦宣言なるや」と、質問電文を打たなければならない代物であった。

「茲に開戦を宣言する」
「国交を断絶し、以降帝国政府は独自の行動を採る」
との文言がなければ、ハーグ開戦条約違反は免れがたい。
 時間にしても、東京はたった攻撃三〇分前の手渡しを指令し、ワシントン大使館での事務作業の遅延もあり得ることを想定外としていた。奇襲攻撃の成功のためにハーグ開戦条約の潜脱を企図していたのである。
 一九四二年八月 日米交換船浅間丸は外交官を乗せて横浜に帰着したが、書記官送別会で酩酊した責任者たちへの処分はなされなかった。戦後吉田首相は、二人を外交官としては最高位の外務次官に昇進させている。外務省にして見れば、そもそも軍の要求によりハーグ開戦条約を潜脱することにしたのであり、担当外交官の遅延という個人責任を問う考えはなかった。
 日清日露の戦争でも第一次世界大戦でも、天皇は開戦詔書のなかで「国際法に反せざる限り戦闘行為を行う」と宣言していたが、太平洋戦争の開戦詔書にはこの文言がなかった。忘れたのではなかった。戦時国際法の支配を嫌い、勝つためには手段の制約を受けないと宣言したのであった。実際真珠湾攻撃では無通告開戦であった。
 かくしてアメリカ国民が騙し討ちと憤慨したことは当然のことであった。国際法違反の開戦をしたということは、その後の日本の運命に対し凶相を漂わせることとなった。勝ち負けは運不運、吉凶に支配される。戦争の女神は日本に微笑むことはなかった。一九四二年四月のドーリットル隊の奇襲攻撃が一機の撃墜もなく成功し、同六月のミッドウェーでは雲の切れ間から日本艦隊を発見できた米艦爆隊が急降下して、全機発進直前の赤城、加賀、蒼龍、飛龍の四空母を撃沈したとき、既に女神の意思は確実に示された。後は女神の意思を確認するためだけの殺戮が続いた。

 ルーズベルト大統領は当時既に日本暗号の解読に成功しており、日本の最後通牒を受け取る前にその内容を了知していたが、騙し討ちを成立させる為にハワイのキンメル将軍へ警戒警報を敢えて発することをしなかった、と言う歴史家がいる。
 チャーチルはドイツ軍のカンタベリー空襲を暗号解読によって予知していたが、カンタベリー市民に対し避難命令を出さなかった。出せばドイツにドイツ軍暗号を解読できていることを知られてしまう。国民の安全より国家機密を優先させたのである。敵国暗号解読の有無は最高の国家機密であるから、この歴史家の説に耳を傾けることはできるが、証拠はない。
 一九三九年ドイツと英仏の戦争が始まってから、ルーズベルト大統領は参戦の機会を窺っていたが、政敵の共和党はじめ国内のモンロー主義者と平和主義者の説得に手こずっていた。一九四〇年の秋、ルーズベルト大統領は三選目の大統領選挙を戦っていたが、こう演説していた。
「母であり、父である皆さんに私はもうひとつお約束します。私は今後二度でも三度でも繰り返し繰り返し言いたい。
 皆さんの息子さんたちは決して外国の戦争に引き出されるようなことはありません」
 この砂糖菓子のような平和演説のお陰で、ルーズベルト大統領は三選勝利できたのである。一九四一年二月の世論調査では国民の八十八%は欧州戦争への参戦に反対していた。しかしルーズベルト大統領は密かに参戦の準備を進め、「勝利計画」と題される戦争計画を極秘に練っていたのである。この事実を一九四一年十二月四日の「ワシントンポスト」紙が一面ですっぱ抜いた。
「ルーズベルト大統領の戦争計画
 目標は一千万人の兵員動員
 一九四三年七月一日までに上陸してナチス打倒をはかる」
 アメリカ憲法では、宣戦布告の権限は議会にあり、大統領にはない。共和党とモンロー主義者と平和主義者の議員たちは、週明けの八日の議会で、ルーズベルト大統領の選挙公約違反の戦争計画を弾劾する為の準備を練っていた。ルーズベルト大統領の政治生命は危機に瀕していた。
 真珠湾の爆撃の火が消えないうちにと、ルーズベルト大統領は議会を招集し日本への宣戦布告を提案したところ、真珠湾攻撃さえなければ、反対したモンロー主義や平和主義の議員は誰も反対することなく、ただ下院の信念的平和主義者の婦人議員一人のみが反対しただけであった。かくして週明けの議会は、ルーズベルト大統領弾劾の議会ではなく、総立ちの満場の興奮の中で「戦争勝利 リメンバー パールハーバー」を怒号したのである。日本は最悪の時期を選んで開戦したと言える。

 日本は対米開戦するとき、アメリカのモンロー主義と平和主義に期待していた。初戦でアメリカに甚大な被害を与えれば、アメリカは民主主義の国だから世論に平和論、厭戦論が巻き起こり、有利な講和ができるのではないかと期待していた。また米兵は弱兵であり、大和魂で突撃すれば逃げ出すと舐めてかかっていたのである。これらをすべてだまし討ちの真珠湾が吹っ飛ばしてしまった。
 日本の真珠湾攻撃を喜んだのはルーズベルト大統領であったが、呆然としたのはヒットラーであった。ヒットラーはフランスを降伏させ英国ソ連と戦争中であったが、彼の真の敵はスターリンであった。ドイツ アーリア民族至上主義者のヒットラーは、共産主義を不倶戴天の敵と見なし絶滅を目指していた。ヒットラーは英米とは共存する気もあったが、ソ連に対しては絶滅しか考えていなかった。ヒットラーがドイツの政権を奪取し世界戦争を起こしたのも、すべては共産主義のソ連を打倒したい一心からきていた。日独伊三国同盟を締結している日本がアメリカに宣戦布告した以上、ドイツとアメリカ間の戦争は不可避、日本とソ連は不可侵条約を締結しており、日本の南下作戦は明白となった。もはやドイツと日本によるソ連挟撃作戦はない。一九四一年六月ドイツはソ連へ攻め込んだが、モスクワ正面でソ連極東軍とナポレオンさえ滅ぼした冬将軍に阻止され、戦線は壊滅しつつあった。ヒットラーは暗然たる気持ちのなかで対米宣戦布告をすることになったが、ルーズベルト大統領はこれを喜んで待っていたのである。

 開戦通告遅参事件
 ワシントン時間十二月七日午後一時に通告文を手渡せと電報が大使館に到着していたが、暗号の解読とタイプに手間取り野村と来栖大使が手渡せたのは午後二時二十分で、真珠湾攻撃は既に午後一時二十五分に始まっていた。攻撃は予定時刻より五分前に開始されていた。攻撃三十分前の手渡しが東京からの指令だったのである。
 遅参の原因としては、暗号の解読とタイプに手間取ったことが定説であるが、「タイプは出来上がっており、野村・来栖大使は通告書を懐中に持っていた。二人は七日午前中に行われた新庄健吉主計大佐の葬儀に参列したが、牧師の法話が長引き、葬儀を中座するという無礼を避けたために遅参した」という説もある。
 野村吉三郎海軍大将・特命全権大使、来栖三郎特命全権大使、タイプをした奥村勝蔵政務担当主席書記官、結城司郎次一等書記官、寺崎英成一等書記官(柳田邦男著マリコの主人公)、松平康東一等書記官らの証言がはっきりしないところがあり、論争のもとになっている。
 私も二つの仮説を持っている。
@駐米大使館は日米開戦を予想していなかった。最後通告を読んでも交渉の打ち切りを通告するのみで「開戦」「国交断絶」の文字がないので「東京の脅し」と思いこみ葬儀の席を蹴る無礼を働く気にはなれなかった。
A十二月一日の御前会議では、無通告開戦が決定されたが、直後に天皇は東条英機首相を呼びつけ「国際法に従う開戦前通告」を強く指示している。それで東条首相は三十分前通告を決定し外務大臣に指示したが、夜討ち朝駆けは武士の習い、奇襲攻撃の成功の為に誰かに命じて大使館の誰かに国際電話を掛けさせ「電報では手渡し時間を指定してあるが一時間遅参せよ」指示した。
 勿論国際電話は盗聴されている。本人達しか分からない私的暗号か符牒或いは方言で話したのであろう。
 東京とベルリン大使館では、ドイツ派遣の伊号潜水艦が日本へ向かったかを聞くために国際電話を掛けた。薩摩出身の友人同士が電話で「叔父さんはもう潜ったか」「そうだ」と薩摩弁で会話したのである。
 アメリカ陸軍では戦場で無線電話をするときインディアンの少数部族の言語を利用し、その為の特別部隊を編成していた。
 昭和二十年九月二十七日天皇とマッカーサーは会見をしており、通訳したのは前記の奥村勝蔵である。対日理事会のジョージ・アチソンはマッカーサーから聞いた話として「天皇は開戦通告の前に攻撃したのは自分の意図ではなく東条のトリックにかけられたからである、と発言した」と言っている。
 奥村勝蔵はタイプ遅れの責任者とされ、タイプが遅くて下手だと責められていたのである。その奥村が横にいて通訳をしていた。天皇と奥村は何かを語り合っていたに違いない。そして天皇は奥村を労ったのである。東条のトリックとは何か。天皇を欺したトリックなのである。
 大使館関係者は誰も処分されなかった。それはそうだろう。外務省全体がこの件では頬被りを決め込んでいる。
 野村も来栖も東京裁判の戦犯にはされなかった。しかし仮説Aが真実とすれば、一九〇七年ハーグ開戦条約違反として戦犯処罰を免れない。アメリカを騙し、天皇さえ騙した大罪である。あの世まで持って行かなければならない秘密である。既に関係者は全員他界している。

 外務省は一貫して軍部に煮え湯を飲まされてきた。支那事変でも日独伊三国同盟でもそうだ。外務省の国際協調路線は軍部により蹂躙され続けてきた。批判すれば軍部は「統帥権干犯」と怒鳴る。大日本帝国憲法を書いた伊藤博文は統帥権干犯なるものを言ってはいない。北一輝が憲法第十一条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」のたった十文字を水ぶくれさせてでっち上げた代物であり、法理解釈からは産まれるはずのない虚構概念であった。
 軍部が統帥権と叫ぶならば、外務省は憲法第十三条「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及ビ諸般ノ条約ヲ締結ス」の二十一文字を引用し、「開戦と講和、条約の締結は天皇大権であり、外務大臣のみが補弼し、軍は開戦が決定されてから出撃命令を受けるだけである」と叫べば良かったのである。
 しかし、二・二六事件以後、外務省の役人は暗殺を恐れて何も言わなくなった。軍部と外務省、同じ役所でありながら何故違うのか。軍は兵を持っているからである。兵は兇器なり。
 自衛隊法にこの一条を入れるべきである。
「自衛隊員は私的にも政治を論ずるべからず。政治を志すときは退職して国会議員選挙に立候補すべし」

参考文献
昭和史発掘 開戦通告はなぜ遅れたか 齋藤充功 新潮新書