戦場に法はないのか あとがき6


日清日露戦争から日中戦争、そして現代の戦争まで

 日清戦争の初戦、旅順城の戦いで城内に突入した日本軍は城門に並べられた日本兵の生首を見て憤慨し、城内の清国軍民を悉く殺害したが、これが外国従軍記者の報道するところとなり、日本は国際的批判にさらされた。当時幕末に締結された不平等条約の改正交渉が愁眉の国策であったが、外国から野蛮国にその資格がないとの批判が高まり、日本は日清戦争を「文明の義戦」と唱導し、以来国際法の遵守を内外に宣言し、日露戦争でもこれは守られた。
 旅順で投降したロシア兵は四国の松山の捕虜収容所に送られ手厚い保護を受けた。ロシア兵はこのことを故郷への手紙に書き、その手紙は無事に故郷に届き、この話は故郷から奉天の前線に伝わった。奉天の前線が崩壊し、もはや個人の努力では挽回いかんともし難くなったことを悟ったとき、ロシア兵は両手を上げて「マツヤマ マツヤマ」と叫んで投降した。
 後方での捕虜厚遇策は前線での千門の大砲に匹敵する。

 ロシア将校へは使役は免除され本国と同じ給料が支払われ、兵士は使役に従事したが、給料が支払われた。勿論食費はこのなかから差し引かれた。ポーツマス講和条約でロシア将校兵士への給料はロシア政府の負担となった。条約ではロシアは日本への賠償金支払いは拒否したが、捕虜への給料と給養費は支払ったのである。
 太平洋戦争での日本捕虜に対してアメリカは同じようにした。ハーグやジュネーブ条約で決まっていたことだからである。アメリカは日本将兵へ支払った給料と給養費を日本政府から回収した。日本での駐留経費も日本政府から取り立てた。敗戦ということはこうゆうことなのである。

 第一次大戦で捕虜になった青島のドイツ兵は四国の板東捕虜収容所に送られて同じく厚遇され、長い者は四年間捕虜生活をして日本に馴染み、オーケストラの結成さえ許され、ここでベートーベンの第九交響曲の本邦初演がなされた。捕虜の自由外出が認められ、子をなした捕虜さえいた。
 
 日中戦争から日本軍はおかしくなった。
 現地軍の暴走から始まったこの戦争、東京の支配が無視された。軍の法規の解釈と適用は中央の一義によるべきところ現地軍が独断しまた指揮命令が混乱し誰も責任を取らなくなった。
中華民国軍は勇敢であった。満州族の異民族支配を打倒して漢民族の中華民国を建国したという民族主義の気概に満ちあふれていた。傭兵の清国軍とは大違いであった。
 日本の大陸侵略に対し南京の大学生が反日を叫んで軍に志願し愛国民族戦争を戦っていた。
 蒋介石はドイツとソ連から軍事顧問団を受け入れて中華民国軍の整備を図り、軍備の近代的改革は着々と進んでいた。ドイツからチェコ製の機関銃、ソ連から戦闘機が輸入された。日独同盟が進展しつつあったが、ヒットラーは日本に味方せず中華民国に肩入れした。黄禍論に立つヒットラーにとって遠い極東は当面の関心の対象とはならず武器商売の種とした。
 ソ連は中華民国に対して最大の関心を示していた。共産革命の輸出を目指し中国共産党を育成し、国共合作を指導していた。国民党の内部には隠れ共産党員が増加していった。蒋介石は独裁者であった。彼の地位を脅かそうとする者は勿論、異論を唱える者まで暗殺の対象とした。彼は孫文の三民主義の伝承者といいながら、実態は軍閥の統領であった。彼は日本軍が殺した中国人の数倍を殺した。彼にとって自分の権力を維持することが最大命題であり、人の命など取るに足らないものであった。太平洋戦争終了後、国共内戦に突入したが、蒋介石に天の恵みはなく敗走して台湾に逃げ込み、また台湾人を虐殺した。
 天下を取った毛沢東はその後三十年掛けて何千万人の中国人を殺した。
 ドイツとソ連の武器で重装備した中華民国軍は上海で勇敢に戦った。チャンコロと馬鹿にした清国兵とは格段の違いを示し、日本兵の犠牲は多大なものとなった。
 
 日中戦争での最大の悲劇、国際法に反する中国軍民への虐殺は、中華民国兵が国際法を知らず、蒋介石が教育しなかったことから始まる。
国際法が保護する交戦者とは、第一に軍服を着用し軍旗の下にいる正規軍人のことである。
 しかし、正規軍人以外に、軍司令部の直接指揮下に入らず軍服を着用しない民兵・義勇兵も参戦することから、一九〇七年ハーグ条約、一九二九年ジュネーブ条約によれば、民兵・義勇兵にも国際法上の交戦者の資格を認め、
「@部下の為に責任を負う者其の頭に在ること
 A遠方より認識しうる固有の特殊徽章を有すること
 B公然兵器を携帯すること
 C其の動作に付き戦争の法規慣例を遵守すること 」
 を要件として認めていた。
 かくして、山賊と海賊とスパイを除いて、ゲリラ兵でも国際法の保護を受ける交戦団体の資格を得たのである。
 山賊と海賊とスパイが交戦団体から除外されるているのは変わらぬことである。

 勿論、軍事作戦として奇計攻撃は許されるが、これらの条件の充足は必要である。充足しなければ、国際法の捕虜として保護されず、山賊・海賊、スパイとして処刑も可能であった。勿論、裁判を開く必要があった。

 海戦では、投降は白旗の掲揚と機関の停止が条件である。敵艦が白旗をマストに掲げても機関を停止するまでは攻撃を続けることができた。白旗を掲げたので安心して接近したら発砲を受けたという戦史の例もあったからである。
 ドイツ海軍は第一次大戦で国際法スレスレの作戦を取っていた。海賊紛いの仮装巡洋艦作戦である。商船に仮装した巡洋艦を大西洋やインド洋に派遣し、女装した水兵が甲板で手を振る。安心した英国商船が接近を許すと、突然戦闘旗をマストに掲げて発砲し停船命令を出す。積み荷を没収し乗組員を移乗させてから撃沈した。怒った英国海軍はドイツ仮装巡洋艦を追いかけ回したので、やがて成果が出なくなり、Uボートによる無警告雷撃作戦に踏み切ったが、これは国際法に違反しており、アメリカの参戦を招いた。 

 陸戦では、投降は武器を置いて両手を挙げて投降の意思を明瞭に示し、かつ姓名、階級を正直に申告する必要があった。軍服を脱いだり、階級章を破棄しての投降は禁止されていた。
 一九四四年末ドイツは西部戦線で連合国軍に対しアルデンヌの森で一大反撃作戦を展開した。このとき英語が堪能な兵士から志願兵を募り、米兵の軍服を着用させた偽装兵団を組織した。彼らは米兵の振りをして接近し油断した米兵を襲った。反撃作戦は当初成功したもののやがて壊滅し、逮捕された偽装兵士は現地裁判の上で銃殺刑に処せられた。軍服を偽装した故に捕虜の待遇を受けられなかったのである。

 日露戦争初期の民間人横川省三・沖禎介の事件であるが、彼らは軍服を着用せず山賊同然に振る舞った。日本陸軍の軍服を着用しその上に便衣を着用し、ロシア兵が接近したとき便衣を脱いで軍服姿で暫し射撃戦をしてから投降し、日本陸軍中佐とか大尉とか名乗り上げをすればよかったのである。そうすればハルピンの法廷で、山賊扱いの処刑は避けることができたのである。しかし、北京にいた日本軍将校は横川たちに国際法を教えず、軍服と襟章を支給しなかった。鉄橋爆破秘密作戦の徹底の為であった。
 日露戦争後、彼らは顕彰されたが、肩書は「陸軍通訳」となっていた。

 勇敢なる中華民国兵は戦線が崩壊し、個人の努力ではいかんともし難くなったときでも投降せず、徹底抗戦を叫んだ。
 百敗して百走しても最後の一勝を得た漢の劉邦の故事に習い、次の一戦に備えるために軍服を脱ぎ平服の便衣に着替えて非戦闘員の群民のなかに隠れた。 南京城陥落のとき、揚子江に退路を断たれ城壁に追い詰められた中華民国兵は武器を置き両手を挙げて投降し、姓名、階級を名乗り、国際法の保護を主張すべきであったが、最後の勝利を願う勇者たちはそうしなかった。
 南京大学の女学生は便衣を着て農婦を装い、武器を隠した馬車に乗って日本兵が守備する城門に近づき、突然手榴弾を投げチェコ製機関銃を発砲し、弾尽きれば群民のなかに隠れた。勇敢なる戦闘であるが、国際法からは保護されない。
 日本兵は、卑怯者と罵り、群民を包囲し、隠れた兵士に「出てこい。名を名乗れ」と叫ぶが、誰も名乗りあげせず、また群民の誰も兵士に指さしをしないときは、人相風体の似る何人かを適当に選び、壁に立たせてその場で処刑したのである。「臨陣格殺」である。
 兵士を指さしすれば対日協力者の烙印を押され報復テロを受ける危険があり、群民は壁に立たされない幸運を祈るしかなかった。
 中華民国兵の始めたこの戦法は毛沢東により「人民戦争 ゲリラ戦」と名付けられて世界に広まった。人民とともに戦うという美名のもと、人民の群れに隠れ、人民を弾よけの楯代わりにする戦法なのであった。今やイスラムの自爆テロとなり、爆弾を腹に巻いた自爆テロリストが市場に立ち入り、米兵やイラク市民のそばで自爆して吹っ飛んでいる。国際法は軍人と軍人の戦争を予定していたが、現実はこれを超えてしまっており、今日の国際法もこの対応策を確立し得ていない。

 日本軍の側も問題が山積みであった。
 日本兵は難民地区に紛れ込んだ便衣の中華民国兵を捕えることに困り果て、兵士らしい人相風体の者、徴兵年齢の若者を捕え回った。戦果の報告は、敵の遺棄死体と捕虜の数であり、この計算で軍功が授与される。南京の捕虜は満杯となり、この処遇を軍司令部へ伺うも、司令部は困り切っていた。
 現地軍の暴走から始まった日中戦争、東京は事変不拡大方針を命令し、東京と現地は対立していた。すでに戦争規模から言えば、事変ではなく日中戦争と呼ぶべき実態であったが、東京は中華民国への宣戦布告を躊躇っていた。宣戦布告して日中戦争開戦となれば、英米は中立宣言をするか、どちらか一方に荷担することの決断を迫られる。英米が日本に荷担することはありえないから中華民国に荷担することは必定であった。となれば英米は日本への経済制裁、禁輸に踏み切ることなる。これは戦争勝利にとっても、平時経済にとっても致命的となる。だから東京は宣戦布告を躊躇い続けることととなった。宣戦布告がなければ戦争ではない。戦争でなければ捕虜の存在もあり得ない。
 結局「現地軍において適当に処置せよ」との命令となり、現地は混乱した。賢明なる師団長がいれば、将校は捕虜とし兵士は不戦の誓約をさせて釈放する実例に従ったであろうが、愚将ばかりであった。命令をそのまま連隊長に下達し、連隊長は大隊長に下達した。かくして責任の所在は不明確となり虐殺が始まった。現地軍は「適当に処置」をまさしく適当に解釈して捕虜を並べて銃殺した。
 上海から南京へと勇敢に戦い、今や無抵抗の捕虜となった勇者たちを銃撃することとなった日本兵にも心境の変化が生まれた。義侠心が萎え野獣と化したのである。国を別にすれば愛国維新の志士ではなかったかとの思いがあり、また明日知れぬ運命、生きたいとの戦場の特殊な感情、性欲が異常に昂進し民家に押し入り中国女を強姦する風潮が発生したのも成り行きであった。
 南京虐殺三十万人と言う説があるが、これはあり得ない。殺した人数分大地を掘らなければならない。揚子江に投げたとの説もあるが、あり得ない。川下は上海外人租界である。大量の死体が漂着したとの事実は記録されていない。「適当に処置」したことの証拠隠滅をしなければならない。大地を掘れる人数分虐殺したと思われる。東京戦犯裁判で南京軍総司令官松井石根大将は南京虐殺を問われて死刑になったが、判決の虐殺数の認定は粗い。
 
 中華民国軍は正規軍もおれば軍閥軍もおり統制が取れていなかった。特に旧態依然の軍閥軍は退却すると決まれば略奪商売に精を出した。司令官はいち早く南京を脱出し残された兵士たちは死守するか降伏するかで内紛をはじめ、徹底抗戦派の兵士は脱出する兵士にたいし射撃を開始し同士討ちとなった。南京城に突入すると、道には何千枚という軍服が脱ぎ捨てられていた。兵士が軍服を脱いで民間人に仮装した証拠は明らかであった。日本軍が仮装兵士狩りを始めたのも当然の成り行きであった。しかし狩り集めた便衣兵を裁判なしで処刑したことは違法であり、捕虜にするか釈放するべきであった。
 上海から南京まで日本軍の兵隊が進撃する。その後ろから司令部将校と憲兵隊が続く。更に野戦病院と法務官が、最後に慰安婦が続く。
 憲兵は村々を尋ねて日本兵が殺人・強姦・略奪をしなかったか村人に尋問をする。被害届出があれば供述調書を取り、兵士を逮捕して法務官へ引致する。法務官が予審を行い起訴不起訴を決める。起訴となれば現地で軍法会議を開く。
 憲兵は被害者の供述調書を取るとき、被害感情とか処罰希望の有無を必ず尋ねているから、被害者は犯人の兵士が軍法会議で処罰されることを知っている。
 ある憲兵の追憶によると、一生懸命捜査して強姦兵士を法務官に引き渡しても不起訴にされるときがあり落胆したとある。法務官にしてみれば、強姦か和姦かは抵抗したか否かの証拠判断であり事実認定が難しければ不起訴にするしかない。特に戦場では特殊な心理状態があり特別な観点が必要となる。黒沢明監督の映画「七人の侍」では決戦前夜に若侍が村娘を抱き、村人が娘を手籠めにされたと騒ぎ、頭の侍が裁きに悩むシーンがあった。あれと同じ事で法務官には事実認定の苦労があった。
 戦地軍法会議では、殺人は懲役四、五年、強姦は懲役一、二年、略奪は懲役一年が相場である。
 内地の通常裁判と比較して刑が軽いと思える。妻を強姦し、夫を射殺した事件で懲役四年があるが、軽すぎる。戦場の特殊要素を理由とするのであるが、複数の強姦殺人は死刑にしてよかったと思える。この場合中国人と日本兵士を集めて公開銃殺をすれば良かったのである。軍紀粛正になるし、中国人の怨念も解消できた。占領軍が被占領国民を集めて自国兵を公開処刑することは広く行われている。サダム・フセインのイラク軍がクエートを侵略したときもなされている。
 南京での軍法会議の記録が残っている。
 兵隊やくざという映画があったが、同じで、歩兵一等兵がサイコロ賭博を開帳、住民略奪、上官を武器で脅迫した事件では懲役四年になっている。
 強姦なのに、懲役二年執行猶予二年との判決があった。兵士が住職の妻四十三歳を強姦したが、被害者が「御仏に奉仕する身にして人の処罰を求めるは法意に背く故、厳罰を望まず」と言ったとのことである。頭が下がる思いがする。
 中国人の占領妨害行為、鉄道の転覆、放火、抗日宣伝に対しては、死刑が殆どで厳罰過ぎる。戦後戦犯裁判で憲兵や法務官が処刑されているが、やむを得ない事例が多い。
 抗日ビラを貼っただけで死刑にしたり、逮捕現場や憲兵隊裏庭でリンチ処刑したことがあった。言論の自由は民主主義の基本的人権である。国を別にしても、愛国者たるべき者は愛国者を知るべきである。生かしておけば、中華民国や中華人民共和国で要職についたであろう。惜しいことをした。
 法務官と法務将校を使い分けをしてきたが、昭和十七年に兵制改革があり、それまでの文官たる法務官が武官たる法務将校となった。これから法務大佐とか法務中将が産まれたのである。

 南京大虐殺論争
 今日、南京虐殺の有無を巡り大論争が起きている。正確に表現すると、否定派から肯定派への論争の挑戦である。中華民国軍の宣伝部が日本の雑誌に掲載された写真を偽造して虐殺写真として宣伝利用していたことの暴露もあり、ある程度効果を発揮している。三十万人という被害人数については確証のないところであるが、万余はいると思う。私は五十人殺せば虐殺、五百人殺せば大虐殺と表現しても良く、南京大虐殺の表現は正しいと考える。
 松井石根司令官は南京事件の責任を問われて東京裁判で死刑となり、中華民国が中国で行った戦犯裁判で日本人百四十九人が死刑となっている。三百五十五人は無期・有期刑、無罪が三百五十人もいることは驚く。慎重に裁判をしてくれたということだ。(共産軍が行った人民裁判の数は不明である)
 中華民国は合計百五十人を処刑して日本軍の中国での侵略に対して断罪したわけであり、法的にはこれで決着が付いている。俗に言えば復讐は終わったはずである。中華民国は大日本帝国を崩壊させ、自分が主催した裁判で責任者の処罰を自由に済ませ、中華民国も中華人民共和国も日本国と講和した。処刑された日本人は将来の日中友好の捨て石になる覚悟で処刑に臨んだと思う。実際「日中友好万歳」と叫んで処刑された例を聞く。しかるに中華人民共和国政府はことある毎に南京事件の蒸し返しを提起してくるのは、国家と国家の関係において友好的か疑問を抱かざるをえなくなる。もっとも南京大虐殺否定派が跋扈して挑発している現況を見ると、やむなしとの感もあるが。
 このような不毛の論争は早くやめた方がよい。

 松井石根中支那方面軍司令官は東京裁判で死刑になったが、南京事件の監督責任を問われたのである。彼は事件を知らなかった。南京陥落直後に知り昭和十三年二月七日の現地慰霊祭のとき「南京入城のときは誇らしき気持ちにて、その翌日の慰霊祭またその気分なりしも、本日は悲しみの気持ちのみなり」と泣いて怒って訓示したのである。
 彼は知らなかったのであるから本当は無罪なのであるが、監督責任を問われれば大将として逃げられない。
 私がそのとき法務官として彼の幕営にいたらどうしたかを考えた。

 「軍司令官殿 本官は憲兵隊を率いて本事件の始末に出動いたします」と言う。
 彼が「何をすると言うのだ」と問えば、私は「捜査を終えた後、本官が天皇の名において起訴不起訴を決定し、軍法会議が天皇の名において判決します。司令官と言えども裁判への干渉は禁止されております」と答える。
 目の玉と目の玉の睨み合いをして、彼が「よし」と言えば憲兵隊を率いて前線の部隊を襲撃し、兵士一人ひとりを取調室に連れ込んで「何人殺した、何人犯した」と質問し供述調書を取る。三人以上強姦殺人をした兵士を軍法会議に起訴し、軍法会議は死刑判決を下す。
 南京市庁舎前の広場に、中国人と日本兵を集めて公開銃殺を行う。執行指揮官には誰もなり手がいないだろうから、私が務める。判決文を日本語と中国語で読み上げ、
「銃を構え、狙いを定めよ。泣いて馬謖を斬る。さらばである。撃て」と叫んで指揮刀を振り下ろす。
 煙硝が広場を通り過ぎたとき、中国人と日本兵の表情は粛然たるものになるであろう。
 この次に、小隊長の少尉、中隊長の中尉、大隊長の大尉を捕虜殺害の容疑で起訴する。司令部から捕虜殺害を指令されたと言うだろうが、司令部の参謀の佐官クラスは「現地に処分を適当に任せただけで、殺せとは言っていない」と責任転嫁の大論争が起きる。
 参謀が怒鳴り込んできて「軍法会議への起訴を取り消せ。皇軍の名誉が大無しになる」と軍刀を振り回すだろう。昭和十年皇道派の相沢中佐が永田軍務局長を斬殺した事件があったから同じ事が起きる。私は拳銃を取り出して「言いたいことがあれば軍法会議の弁護人になって言え。裁判への干渉は許さない。天皇の名において行った起訴は絶対に取り消さない。あとは軍法会議が天皇の名において判決することである」と追い返す。
 この後どうなるだろうか。昭和十九年東条英機首相に睨まれた東京地検の検事は二等兵召集を受けたことがあり、同じように前線へ飛ばされるかも知れない。
 松井石根大将が東京裁判で死刑になったのは幕僚に人材を得なかったことによる。起きた事件は仕方がない。後処理を法的に正しく済ませることが大事である。こうしておれば大将は死刑を免れた筈である。

 参考文献
  日本憲兵正史    全国憲友会
  ある軍法務官の日記 小川関治郎  みすず書房
  現代史資料 続6  みすず書房 
  ある憲兵の記録   朝日新聞社