戦場に法はないのか あとがき7


戦前の司法部と軍部 司法権の独立、治安維持法

 治安維持法は、国体変革を目的とする結社を禁止するものであり、最高刑は死刑であった。実際には死刑はなく、徳田球一らの無期懲役が最高であった。しかし蟹工船を書いた小林多喜二は逮捕当日特高に虐殺されたし、獄死者は多数いた。明治憲法では言論の自由・結社の自由は認められていたのであるが、治安維持法はこれを大幅に制限するものであり、共産党が弾圧され、次いで自由主義者が犠牲となり、最後には新興宗教も弾圧され神殿が爆破された。
 検事と判事は共産主義者を徹底的に弾圧した。弾圧するのみならず転向を強制した。転向すれば寛刑、非転向なら無期懲役にし、昭和二十年の敗戦まで獄中十八年を数えることとなった。刑期が満期になっても予防拘禁法で更に収監された。殆どの者は転向に屈し内心の自由を失い精神は奴隷にさせられた。本土決戦の前に敗戦になったのは下獄者にとって幸運であった。本土決戦になっておれば、共産主義者たちは上野動物園の象と同じ運命を辿っていたであろうし、米兵捕虜も同じであった。
 共産主義者は法廷闘争を企画し法廷を共産主義宣伝の場に変えようとしたが、判事はその手を許さず、必要に応じて公開停止をした。判事は執拗に転向を迫った。
 検事と判事は、左に厳しく、右に甘かった。
 
 神兵隊事件とは、昭和八年右翼テロリスト大日本生産党が首相以下を殺害し皇族首班内閣を作ろうとしたクーデター未遂事件であり弁護士の天野辰夫以下四十四人が内乱予備罪で大審院に起訴された。
 右翼壮士たちは国体明徴を唱えて法廷闘争を企画し、まず立会検事岩村通世を攻撃した。天皇機関説の美濃部達吉を不敬罪で告訴していたが、岩村検事が不起訴にしたので、岩村検事を国体不明徴の元凶と非難し、まず岩村検事を転出せしめた。
 続いて、交代した三橋市太郎検事と判事にも執拗に天皇機関説への批判と天皇制に対する信仰告白を迫り、忌避を連発し、退廷を繰り返した。検事と判事はこれに応じて法廷で天皇機関説排撃の誓約をしたが、これは訴訟指揮権を放棄し司法権の独立を自壊せしめるに等しかった。判決は昭和十六年になされたが、なんと「刑を免除する」との寛刑であった。右翼は恐喝でもって法廷闘争に勝利したのである。

 司法部は軍部と違っていた。
 陪審制度は昭和の初期に実施された。この制度は裁判に市民を参加させるものであり、普通参政権と同じく、大正デモクラシーの成果であった。民主主義は天皇大権に対する配慮から当時民本主義と呼ばれていたが、陪審制度は民主主義そのものであった。裁判所は明治憲法により天皇から裁判権を授与されていたが、陪審制度はその裁判権の一部を人民に譲与するものであった。官僚制度が自己増殖することは常だが、権力を人民へ譲与することは本来あり得ない。
 当時、軍部は統帥権を楯に政府と国民を支配しようとしていた。五・一五、二・二六事件を契機に政党政治を大政翼賛会に変質させ、総国家動員体制により政府と国民を支配するファッシズムを確立しようとしていた。この同じ頃に裁判所は陪審制度を導入しようとしていたのである。司法官と軍人は同じ天皇陛下の官僚であっても、まったく性格を異にしていた。陪審制度は昭和の初期に実施されたが、戦争の激化により昭和十八年に停止され、平成になっての裁判員制度はその復活である。
 
 昭和初期共産主義は大衆の中に浸透していき、昭和三年の三、一五、四年の四、一六検挙後もインテリの中に影響力を保っていた。共産党は兵営の中に党細胞を組織することに失敗したが、裁判所の中では成功した。天皇の官吏でありながら共産主義を信じ革命に同意したのである。
 昭和六年東京、長崎、札幌、山形地裁の判事四人と書記官らが逮捕され、転向させられたが、懲役八年から二年の各実刑に処せられた。兵営内に党細胞を組織しようとした兵士たちは軍法会議で懲役四年から一年の各実刑に処せられた。

 太平洋戦争では、軍人は一言の不満を言わずに出征していった。帰れぬ特攻隊でさえ言わなかった。
 戦時中、ある判事は東条英機首相に戦争反対の意見書の巻物を書き送った。東条は驚いて免職させようとしたが、裁判官の独立と身分保障は憲法の規定にある。周りから圧力を掛けて辞職させようとし、同僚判事たちは上司から命じられて後難を恐れて辞職勧告に努めたが、肯んぜず、遂に分限裁判で免職となった。戦後免職は裁判で取り消され復職することができた。
 私は裁判所や判事を褒めているのではない。軍人よりましであったと述べるに留まる。
 警察の拷問や労農弁護士団への弾圧に対して判事は同意し、戦争に協力した。戦後判事は戦犯にもならず、公職追放から免れる幸運も得た。

 参考文献
日本政治裁判史録  第一法規