戦場に法はないのか あとがき8


海軍技術大佐の死
 
 一九四五年三月ドイツのキール軍港から出航したUボートは最後の日本行きであった。五月七日ドイツ海軍司令部からドイツ降伏の電信を受け取り、艦長はアメリカ海軍に降伏することを決めた。乗り合わせていたのは二人の日本海軍技術大佐、庄司元三(四十二歳)友永英夫(三十七歳)であった。二人は黙って自殺を遂げた。
 ドイツ人はみな二人の死を理解できなかった。第一次大戦で捕虜になって生き延びたドイツ人は戦後の復興に貢献できたし、第二次大戦にも参戦できた。だから第二次大戦の敗戦に当たっても捕虜になることに何の躊躇いもなかったし、捕虜になることを恥と考えなかった。第三次大戦が勃発すれば、もはや老兵であるから、家族を森の中に逃がし、自宅の屋根にドイツ国旗を掲揚して除隊したときの軍服を着用し勲章を付下げ猟銃を持って自宅に立て籠もり、敵軍の襲来を待つことにしたであろう。
 二人の大佐は「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓に従い自決したのであろう。二人は最新の科学技術を覚え込んでいた。生きて帰国しておれば、ソニーのような会社さえ興して戦後復興に貢献できたであろうに。
 大使館付き武官である二人は国際法に通じていたはずである。捕虜の待遇についての知識も豊富であったはずである。何故自決したのか、惜しいの一語に尽きる。

 幕末、五稜郭に立て籠もった榎本武揚は落城迫るや、焼失を惜しみ「万国公法全書」を新政府軍の幕営に届けさせた。これは国際法の教科書である。落城後榎本は捕虜となったが、新政府は彼を処刑しないどころか新政府の高官にまで取り立てた。
 明治の気概は進取主義であった。旧来の因習を捨て去り、法治主義、議会主義、立憲主義を取り入れた。日清日露から第一次大戦に至るまで日本は国際法を守り続けた。しかし太平洋戦争がすべてを台無しにした。敵国民であれ自国民であれ、捕虜を虐待した。痛恨の昭和の二十年であった。