戦場に法はないのか あとがき9


非武装都市宣言、戦闘地域の区割りの停戦協定
 
 早瀬少佐は建議書でこの提案をしている。
 イタリアではムッソリーニ政権が崩壊するとき、代わったバドリオ政府は連合国にローマの無防備都市宣言を申し入れ、ローマを無差別爆撃から守っている。
 昭和17年日本軍はマニラを攻撃したが、米軍はマニラを無防備都市宣言して撤退しバターン半島の要塞に立てこもった。お陰でマニラは破壊から免れた。
 無防備都市宣言は外国では例があったが、日本では玉砕主義であるので例がなく住民を巻き込んでの昭和20年のマニラと那覇の市街戦が展開され、軍民に多くの犠牲者が出た。 フィリピン防衛戦に陸軍砲兵少尉で参戦した山本七平の著作によると、昭和20年のマニラでは部分的に停戦協定が成立したことがあった。
 日本軍の捕虜収容所を攻撃したら、日本軍守備隊は英米捕虜を楯にして立てこもり、米軍は攻撃を手控えざるを得なかった。そこで現地の日米将校団が停戦協定をして、この捕虜収容所の周囲何キロを非武装地帯と協定をした。この結果、八月十五日の終戦まで、この捕虜収容所は軍旗を掲げ、英米捕虜を収容したまま業務を継続できた。八月十五日以降は捕虜収容所は投降し米軍の捕虜収容所に収容となったが、このために捕虜収容所の監視日本兵の命は救われた。
 マニラでは捕虜以外に米英民間人収容者が何千人と沢山いたが、日本軍は米軍侵攻前に解放したので犠牲者は絶無であった。民間人捕虜収容所長の賢明な判断があった。
 三年余の太平洋戦争の戦史の中で、ただの一例の現地停戦協定である。日露戦争では死傷兵士収容のための二十四時間停戦協定は何度もあったが、太平洋戦争では皆無である。助けて生かす発想がなく、ただ玉砕しろばかりの号令であり、負傷して起きられない兵士は救助を期待できず、ただ手榴弾で自決するしかなかった。人命無視の日本軍であった。

 捕虜の処置に窮したとき、例えば米軍の接近により捕虜収容が困難になったとき、捕虜収容所長は師団長に、いかがなすべきかとお伺いを立てる。返信は「適当に処分せよ」ばかりであった。捕虜収容所長は役人的文字解釈術に従い、これを処刑せよと読んだ。事が問題になると、師団長は「現地に処分を一任しただけで処刑は命じていない」と言い張るばかりである。
 「適当に処分せよ」の返信に対して、「死刑の意味と理解しても良いか」との再電信を打った捕虜収容所長はいない。軍人同士の公事決まり事に反するからである。