戦  間  期  論  (1)      2016年9月
金正雲はイスラム国に水爆を売るか
2016/10/04
戦間期論というテーマ
 歴史学には、戦間期論というテーマがある。
 第一次世界大戦では戦車、飛行機、重砲、毒ガスという新科学兵器が登場し、戦場の様相が一変し、大量殺戮の現場となり、史上最高の戦死者1000万人と戦傷者を出した。また、戦場の拡大は非戦闘員民間人に多くの死傷者を続出させ、戦争の前線と後方の都市との区別をなくしてしまった。第一次世界大戦前の1899年締結1907年批准のハーグ条約により非武装都市への爆撃と砲撃が禁止されたが、どの国も守らなかった。
1918年第一次世界大戦が終結し、世界世論は二度と世界大戦を防止する為にはどうしたらよいのかとの議論が巻き上がった。国際連盟の創設、残虐兵器の禁止と捕虜非戦闘員の保護を目的とするジュネーブ条約、兵力の総量規制を目的とする軍縮条約の締結、等である。
 しかし、現実には第二次世界大戦が勃発し、第一次世界大戦の10倍の死傷者を発生させた。何故、第二次世界大戦を防止できなかったのか、これが歴史学の戦間期論のテーマである。いずれ、第三次世界大戦が勃発するであろう。ならば、現在は第二戦間期と言える。第一戦間期論をしっかりまとめておかないと、第三次世界大戦を防止できない。

A第一次世界大戦の総括
 1914年大正3年6月28日オーストリア皇太子夫妻がセルビアて暗殺された。これを契機として第一次世界大 戦が勃発した。
 オーストリア・ハンガリー、ドイツ、トルコ、ブルガリア、の同盟軍、
 対するは、セルビア、ロシア、フランス、イギリス、日本、ベルギー、イタリア、ルーマニア、ギリシャ 、ポルトガ  ル、アメリカの連合軍
 世界を二分する大戦であり、アメリカの参戦は1917年4月である。
 1917年にはロシアで革命が勃発する。
 アメリカの援軍を得た英仏軍は西部戦線で優勢となり、次第にドイツ軍は劣勢となり、ドイツのキール軍港での水兵の反乱をきっかけとして戦線は崩壊し 1918年11月ドイツ皇帝とオーストリアハンガリー皇帝は退位した。
戦後の後始末をしたのは、パリ講和会議で、1919年6月28日ベルサイユ条約が締結された。内容は、ドイツ領土の割譲、陸海軍の制限(第二次世界大戦後の日本のような戦争放棄軍備禁止ではない。陸軍10万人以下、海軍10万トン以下、空軍禁止)、潜水艦禁止、巨額賠償金であった。このいずれもかが、第二次世界大戦勃発の原因→ドイツの復讐となる。

B 第一次世界大戦後の経過
 戦後のドイツは疲弊し、経済は混乱し、失業者が路頭に溢れた。 この時台頭したのがヒトラーであった。
 ヒトラーの提言する、ドイツの復権、再軍備、失地領土の奪還、巨額賠償金の支払い拒絶は、ドイツ国民の圧倒的支持を獲得した。戦間期で何が起こったか、時系列的にまとめた。
1918年 ドイツ降伏
1919年 ベルサイユ条約締結
1933年 ヒトラー首相就任、全権委任法により独裁の開始、国会の停止、野党への弾圧、国際連盟からの脱退、再軍備宣言
1936年 ドイツ軍はラインラントを無血占領、ラインライトは独仏国境にあり、ベルサイユ条約で非武装地帯と指定されていた。明らかにこれはベルサイユ条約違反であるが、英仏は何の対抗処置もしなかった。
日独防共協定締結
1937年 日中戦争開始
日独伊防共協定
1938年 ドイツがオーストリアを併合、英仏軍動かず。
ドイツがチェコスロバキアのズデーデン地方を併合、ミュンヘン会談で、英国チェンバレン首相はヒトラーの恫喝に屈服した。英国チェンバレン首相はヒトラーの領土要求はこれでお仕舞いとの話を真に受け、帰国すると戦争が回避できたとの英国民に歓迎された。
ドイツ軍はさらにチェコスルバキア全土を占領
9月 ドイツ軍ポーランド侵略、ソ連軍はポーランドを東から侵略し分割する。ここに至り、ヒトラーの嘘に気がついた英仏は宣戦布告し、第二次世界大戦が始まる。ヒトラーにだまされていた英国チェンバレン首相は退任し、チャーチルに交代する。
11月 ソ連はフィンランドへ宣戦布告なく侵攻、兵力少ないフィンランド は善戦する。
1939年
4月 ドイツ軍は中立国のノルウェーとデンマークに侵攻
5月 ドイツ軍はオランダ・ベルギー、ルクセンブルグへ侵攻、この三国経由してフランスのパリを目指した。
6月 パリ陥落、英軍はダンケルクから脱出
フランス84歳ペタン元帥は降伏し、フランス北半分をドイツ占領にまかせ、南半分にビシー政府を樹立して移転する。
英国チャーチル首相は、フランスが戦線脱落した後、単独でドイツと戦う決意を固め、ドイツ空軍のイギリス空爆に果敢に対抗し、やがて勝利し、ヒトラーはイギリス上陸を断念する。

8月 独ソ不可侵条約、ヒトラーはそもそも守る気のない条約を平気で締結するという男であった。
1940年
9月 日独伊三国同盟、外相松岡洋右、対英米戦争路線の確定
11月 ドイツ軍はポーランドワルシャワでユダヤ人隔離のゲットー建設
1941年
2月 ドイツ軍ロンメル将軍アフリカリビアへ侵攻、アフリカ戦線の開始
4月 日ソ中立条約、期間は5年
6月 独ソ戦開戦
7月 日本はフランスビシー政府を脅迫して、南部仏印へ進駐、アメリカは脅威ととらえた。
9月 ポーランドのアウシュビッツ収容所でソ連兵捕虜とユダヤ人の毒ガス処刑の開始 →アウシュビッツだけで400万人、総計1000万人が処刑されたと言われる。
10月 東条英機首相就任
12月 日米開戦
ソ連軍モスクワを死守する。
1942年
3月 英空軍はドイツ古都リューベックを空襲、ここには軍事施設はなかったが、英空軍はドイツ国民の戦闘意欲をくじく為に空爆をした。ヒトラーは直ちにイギリスの古都のエクスターを空爆してお返しとした。軍事施設を持たない古都、文化施設に対する攻撃はハーグ条約で禁止されていたが、英国空軍アーサーハリス中将の思いつきの復讐心で国際法が簡単に反故にされてしまった。この報復の連鎖の結果が広島長崎に至る。
6月 ミッドウエイ海戦、日本は空母4隻を喪失し大敗
9月 スターリングラード攻防戦の開始、ソ連は守り切った。
10月 アフリカ戦線でドイツ軍ロンメル将軍敗退。
11月 ドイツはフランスの南半分も軍事占領、ツーロン港のフランス艦隊自沈。
1943年
1月 スターリングラードのドイツ軍降伏
2月 日本軍ガナルカダルから撤退
7月 ソ連はクルスク大戦車戦に勝利する。
7月 英米軍はシチリア島へ上陸、ムッソリーニ逮捕される。
9月 イタリア降伏
11月 テヘラン会談、ルーズベルト、チャーチル、スターリン
1944年
1月 ドイツ軍に1941年以来包囲されていたレニングラードは解放され、ドイツ軍は撤退を開始した。ドイツ東部戦線の崩壊
6月 ドイツ軍に占領されていたローマ陥落
6月 マリアナ海戦、日本海軍大敗
6月 ノルマンディ上陸作戦
7月 マリアナ島陥落、
7月 ヒトラー暗殺未遂、クラウス・フォン・シュタウフェンベルグ大佐が 爆弾を破裂させるが、ヒトラーは無事。ヒトラーは関与者5000人報復処刑
8月 パリ陥落、ドゴール将軍パリ入り
10月 米軍がフィリピンレイテ島へ上陸
レイテ沖海戦、日本海軍全滅する。残るは大和はじめ残存艦隊少々
1945年
2月 ヤルタ会談、スターリン、チャーチル、ルーズベルト
4月 米軍沖縄上陸、6月陥落
イタリアムッソリーニ61歳処刑されさらし者に
ヒトラー56歳自殺、ベルリン陥落
7月 ポッタム会談、スターリン、チャーチル、トルーマン
8月 原爆投下、ソ連参戦、日本降伏
C 第一戦間期と第二戦間期
 以上の通り、1918年〜1938年が 戦間期である。第二戦間期は1945年から現在まで継続している。

 第一戦間期は1918年〜1938年ミュンヘン会談でのチェコスロバキアのズデーデン地方割譲までとする。ヒトラーの欧州征服の野望が明らかになった時である。1939年9月ドイツのポーランド侵攻による第二次世界大戦開戦から1945年ドイツ・日本降伏までが戦争期である。
 1933年のヒトラー政権機奪取から1938年第二次世界大戦勃発まで、短期間すぎると思われますか。たった五年間の戦争準備期間しかないのです。ヒトラーは準備不足のまま開戦したのでしょうか。違います。ヒトラーは英仏の戦争準備の遅れに着目して、「今攻めればすぐに勝てる。開戦の遅延は英仏の戦争準備に時を与える」と考えたのです。戦争の勝敗の決め手は、第一に戦機の選択、第二に兵法用兵策、第三に予定戦場の設営です。
 ヒトラーの政権奪取以前から、ドイツ軍参謀本部はベルサイユ条約の「陸軍10万人以下、海軍10万トン以下、空軍禁止、徴兵禁止」を無視し、正規兵ではない民兵の募集、仮装武装商船と潜水艦の建造を行って条約を無視し、空軍に至っては、ソ連と秘密協定を結んでソ連領内で航空機の製造と試験とパイロットの養成をして空軍を復活させてしまった。1936年勃発のスペイン内戦では、ドイツはフランコ将軍を支援し、ドイツ航空機と戦車が投入され、ドイツ軍にとって絶好の兵器実験場と兵員訓練となり、ドイツ軍は世界一の実戦部隊に変貌を遂げた。
 一方、英仏はスペイン内戦不干渉宣言をして武器輸出を禁じ、このためドイツ軍の新装備と航空機と戦車の共同機動作戦という新戦法を学ぶ機会を失った。ソ連はスペイン政府軍に武器援助をした。
 戦間期前半において、英仏は平和ボケをしていた。ドイツが復讐心を燃え立たせ、あんなに早期に再軍備して開戦するとは予想もしていなかった。特にフランスは多数の青年が戦死したり不具者になりフランス古来の出産率低下も合わさり兵力の補充ができなかった。第一次世界大戦の勝利の記憶に頼り、独仏国境にマジノ線という要塞地帯を完成させたが、ベルギーとの国境には建設しなかった。このため第二次世界大戦の緒線においてドイツ軍はマジノ線を攻撃せず、ベルギーを経由してパリへの突撃を果たした。マジノ要塞の大砲はいくら射程を長くしてもパリまで届かない。ドイツ軍はソ連領内での試験訓練やスペイン戦争で機動作戦を体得していた。戦車と航空機による攻撃は迅速かつ的確な破壊を可能にする。
 開戦時のフランス国防次官のドゴールはこれに気がつき早くから仏軍の機動部隊化を提唱していたが、頭の古い将軍たちはマジノ要塞にこだわっていた。それでもドゴールの説得の努力により機動部隊が新設されることとなったが、ヒトラーはフランス全軍が機動化する前に開戦しなければならないと決意したのである。
 ドイツ軍機動部隊の突撃によりフランスベルギー国境を防衛していた仏軍は壊滅し後退する。後退する仏軍よりも早くドイツ軍は進撃し、包囲して仏軍を捕虜にしてしまった。パリ陥落を目前としてフランス国民は士気喪失してしまい、厭戦気分が蔓延した。パリが陥落してもフランス南半分で抵抗する手段もあったし、取り分けフランス海軍は無傷であった。海外植民地軍も無傷である。降伏する必要がないのに、ペタン将軍は降伏してしまった。落胆するドゴールは飛行機でイギリスに飛び亡命し、自由フランス臨時政府を樹立し、フランス国民にレジスタンスを呼びかける。この男の決断は正しかった。
 ドイツのフランス占領はドイツに莫大な利益をもたらした。フランス軍将兵は全員捕虜となりドイツの兵器工場で強制労働させられた。労賃はただ同然である。日本兵捕虜のシベリア抑留と同じで、戦勝国は捕虜を使役する権利があった。ビシー政府は傷病捕虜については釈放を誓願したが。ヒトラーは代わりに釈放する捕虜一人に6人の健康なフランス工員技術熟練者を要求した。
 ただ、ハーグとジュネーブ条約では労賃を支払うように規定されていたが、たいていは食糧衣服で相殺勘定にされた。アメリカは日本兵捕虜に労賃を支払った。
 フランス国内の軍需工場はドイツに接収されフランス製の戦車や航空機が大量生産され戦場に送られた。ヒトラーはフランスに占領税を課した。フランスの歳入の六割を徴税した。ドイツ軍は直接統治の軍政ではなく、占領経費を節約できる間接統治をした。フランス警察を支配下に置き、レジスタンスやユダヤ人を逮捕させた。ドイツ兵の駐留経費はフランス持ちであり、パリの高級ホテルはドイツ兵のために借り上げられ、パリのドイツ兵はパリの娘を妾にできた。1945年の日本も同じで、日本娘は食糧が欲しくて米兵に身を売った。1944年パリ解放後、これらの娘は街頭へ引き釣り出され髪を切られた。日本ではそこまではしなかった。
 占領下では、レジスタンスが生まれる反面、裏切者も生まれる。フランス人の中にナチズムを信奉する傾向が見られ、フランスナチ団が結成され、フランス警察やドイツ占領軍と協力してレジスタンスを取り締まりユダヤ人のアウシュビッツ収容所送りを実行した。さらにフランスナチ団は独ソ戦線に出兵する。ヒトラーはフランスナチ団の忠誠を信用していなかったので、前線に投入されることはなく、後方の捕虜収容所勤務とか運送とかユダヤ人の逮捕に従軍した。ウクライナは元々反ソ思想が強く、ドイツに協力する軍隊もいた。ウクライナのソ連からの独立を目指す反共主義者であったが、ヒトラーはこれも信用せず前線には差し向けなかった。ヒトラーはドイツ純血主義者であり、他民族のナチに対する忠誠を信用していなかった。信用して活用すれば、独ソ戦はウクライナ民族戦争に転化するする可能性があり、ウクライナの多数の反共主義者を団結させて2個師団くらい編成させることも可能であったが、ヒトラーはこれを嫌った。ヒトラーはウクライナとロシアの完全ナチ支配を貫徹しようとしていたのであり、ウクライナの自治とか独立は拒絶していた。ウクライナ師団に重装備を与えることは反乱の危険ありと危惧した。
 戦後、フランスナチ団は帰国すると、ドゴールにより裁判にかけられた。ウクライナ独立軍はスターリン命令によりその場で銃殺された。
 1941年9月ヒトラーはソ連を攻撃する。第二次世界大戦が始まったばかり、占領したポーランドとフランスの経営に多忙なはずなのに。何故ソ連侵攻に踏み切ったのか。世界地図を見なさい。ポーランドからモスクワまで遠すぎる。ナポレオンさえ敗退して逃げ出した。
 1937年〜1938年にスターリンは赤軍幹部の大粛正を行った。1937年6月赤軍トハチェフスキー元帥ら八名がドイツのスパイ容疑で逮捕され処刑される。これをはじめとして、元帥クラス5人中3人、大将クラス15人中13人、中将クラス85人中62人、少将クラス195人中110人、准将クラス406人中220人、大佐クラス四分の三が処刑され、党籍のある赤軍30万人のうち15万人が処刑された。高級将校の65%が処刑されたことになる。ドイツ諜報機関がトハチェフスキー元帥がドイツのスパイという偽情報をスターリンにつかましたことが発端である。元々、このガセネタつかます作戦は、蒙古族とか女真族、満州族が得意としたものであり、漢、唐、宋、明の名将が何人犠牲になったことであろう。
 スターリンは処刑した幹部の後釜に若い将校を当てたが、赤軍全体の戦闘力が著しく弱くなった。軍隊は熟練の将校がいなければ指揮できない。ヒトラーは赤軍の弱体化を読み、今なら勝てると独ソ戦に踏み切ったのである。
 太平洋戦争の開戦もそうだ。東条英機と山本五十六は1941年9月の独ソ戦の開戦を見て、ドイツはソ連に勝つ。イギリスはドイツ相手で手がいっぱいでアジア防衛に兵力を回す余裕がない。アメリカの太平洋艦隊は日本連合艦隊と比べて数が少ない。日本の正規空母6隻に対してアメリカ3隻しかない。大西洋から1・2隻回すとしても月日がかかる。今なら勝てると読んだ。それで真珠湾を攻撃したのであるが、空母は討ち逃した。
 その後珊瑚海海戦などで消耗を繰り返し、1942年6月ミッドウェイ海戦では、日本は4隻、他に2隻あったが修理中。アメリカは3隻総出動でミッドウェイ島の基地航空機を足すと、日米互角の航空兵力比であった。アメリカ雷撃機の低空からの攻撃はゼロ戦が撃退したものの、高空からのアメリカの艦爆隊の急降下爆撃には対応できなかった。日本空母は4隻沈没し、アメリカの被害は日本潜水艦による1隻だけであった。
 東条英機も山本五十六も陸軍海軍大学の首席卒業の英才であったが、アメリカの生産能力と人口の多さを見逃していた。今なら勝てるという判断が間違いなのはヒトラーの独ソ戦開戦と同じである。英才が何故勝てない戦争を勝てると読んだのか。軍人の欲である。軍人の願いは「全軍突撃せよ」と号令を発することである。戦争を指揮してみたかったのである。負けてもよいから勝敗の結果を見たいのは武田勝頼と同じである。
 勝利の大原則の一つに、予定戦場の設営がある。自分が設営した戦場で戦うことである。身の丈に合う戦場を自己設営しなければならない。ヒトラーはポーラントからモスクワを予定戦場と設営し最初の6月間は成功した。しかし、ナポレオンも敗走した冬将軍に勝てなかった。1941年12月モスクワ近郊までドイツ軍戦車は行ったが、寒気のためエンジンは停止し、発砲は不可能となった。ドイツ兵の軍装はロシアの寒気に勝てなかった。防寒十分のソ連兵は凍死しかけのドイツ兵を簡単に狙撃できた。誤りに気がついても改めないヒトラーは攻撃中断して春を待てと命令したが、春もひどかった。雪解けの泥濘は戦車の進行を不可能にした。モスクワ攻撃が駄目なら南部だ、ということで矛先をスターリングラードに向けた。予定戦場の変更である。戦訓に言う。予定戦場を変えるべからず。それから1年スターリングラードで死闘を演じたが、1942年冬ソ連軍はスターリングラードを包囲してドイツ軍は孤立し、航空機による空輸も悪天候で失敗し、1943年1月飢餓寸前のドイツ軍は降伏し、10万人の捕虜が生まれた。過酷な収容所暮らしの結果、戦後ドイツに帰国できたのは5000人だけであった。
 1573年武田信玄は三方原台地を横断して三河を目指し、徳川家康が守る浜松城を無視した。見逃していれば、織田信長に対して面目がないと思った家康は出陣する。信玄軍は三方原台地を横断通過し下り坂を一列で下りているという諜報が届き、家康は兵力が少なくても下へ降りていく蛇の尻尾に食らいつけば信玄軍の戦列は混乱し勝利間違いなしと判断した。
 家康軍が三方原台地に登ったとき、下り坂を一列で降りているはずの信玄軍は戻ってきて台地真ん中に魚鱗の陣を布いていた。予想外れの家康は鶴翼の陣を布いて激戦が始まった。家康軍は鶴翼の陣の中央を突破され、個別包囲されて全滅した。ひとり家康は脱出して浜松城に逃げ込んだ。
 1573年信玄は病死し、勝頼が跡取りとなった。信玄が滅亡させた諏訪氏の娘に産ませたのが勝頼である。古今東西落城させた城の王妃を抱くのが勝利者の特権であり、ジンギスカンもイスラムの王たちもそうであった。勝頼の生まれの謂われから信玄の跡取りとなる筈はなかったが、嫡男が信玄に反乱をおこして処刑されたため、勝頼に跡取りが回ってきたが、家臣団には忠誠をためらう雰囲気があった。信玄は勝頼の才覚を疑い「三年間わが死を隠して内政を固めよ」と遺言したが、偉大な父を乗り越えたい勝頼は遺言に従わなかった。1574年勝頼は兵を起こし、織田領に侵入する。
 信長は長篠へ進み、馬防柵を築き鉄砲を並べ、武田軍の突撃を待っていた。
 信長軍3万人、武田軍1万5000人であり、兵力過少な武田軍は力攻めの正規戦を避けなければならなかったはずであるが、勝頼は軍扇を打ち下ろしてみたかったのである。馬防柵は強固で馬で押し倒せるものではない。馬防柵と鉄砲は信長の設営した予定戦場である。その真ん中へ兵を進めることは信長の策に陥ることとなるが、勝頼は気にしなかった。勝頼の武将たちは馬防柵への突撃に反対した。この場合、兵を甲州街道沿いに引き上げて街道の左右に展開して包囲作戦を採るべきであった。追跡してくる信長軍は当然一列にならざるをえない。登ってくる蛇を包囲して頭から腹から尻尾から攻めたてれば、信長軍は混乱に陥るから、そこに勝機を見いだすべきであったが、勝頼は突撃を命じ、武田軍は崩壊してしまった。
 敵の設営した予定戦場で戦うべからず。
 東条英機も山本五十六もこの過ちを犯した。マッカーサー元帥はフィリピンを脱出するとき「アイシャルリターン」と言った。逃げていった先は、ミンダナオ島でもセブ島でもボルネオ島でもなかった。オーストラリアなのである。在比米軍の一部はルソン島山岳地帯に立てこもり1945年の勝利までフィリピンに米国旗を立て続けた。フィリピン防衛の責任のあるマッカーサー元帥としてはオーストラリアまで逃げていっては本当はいけないのである。しかしこれは彼の戦略的後退なのである。フィリピン、シンガポール、マレー、タイ、ビルマ、インドネシアの占領と日本軍の快進撃が続いた。英米軍が逃げていった先まで追いかけて占領した。ついにはニューギニア、ガナルカタルまで占領し、米豪連絡遮断作戦と称した。フィリピン、タイ、マレー位ならば、在留邦人もおり、通訳をしてくれる。それから先は在留邦人はおらず、日本人が知らない土地であり、現地語も解せない。兵要地誌もない。地図もない。自生している食糧もわからない。熱帯病の知識もない。
 マッカーサー元帥は後退戦術により日本軍を補給のできない熱帯林に引きづりこんだのである。開戦時日本はニューギニアまで占領する予定はなかった。しかしマッカーサー元帥により引きづりこまれた。日本は自分で予定戦場の設営することができず、とにかく、行けるところまで行け、後で考えるというやり方で、これでは作戦がないに等しい。1943年日本は絶対国防圏を定め、ラバウルと東ニューギニアを外したが。遅きに失する。予定戦場の設営ということから、日本の戦略は間違っていた。

 第二戦間期の前半は、1945年から1989年ソ連の崩壊までであり、1989年からから現在までは第二戦間期後半と言える。
 1945年第二次世界大戦が終結したとき、歴史家は誰も今後はソ連とアメリカの対立、即ち、共産主義と資本主義の最終決戦が到来し、第三次世界大戦が勃発し、どちらが勝利するとしても、核戦争の放射能拡散の結果、地球は滅亡し、南半球しか生き残らないと予言していた。
 第二戦間期前半は、その予言通りであった。米ソ代理戦争としての、中国内戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争があった。いずれの戦争もソ連側の勝利であった。ソ連の共産主義陣営は中国を赤化し、次いでベトナム・カンボジャを赤化し、世界中を赤化し、最後はアメリカさえ赤化してしまおうとしていた。
 しかし、歴史の推移は異なっていた。何処にでも、いつでも鬼子はいる。毛沢東がソ連型共産主義に異を唱え、中ソ論争が始まり、ベトナムやカンボジャアに対する支援と指導が混乱してきた。中ソの対立の中にもかかわらず、ベトナムがアメリカに勝利したことは驚異的なことであるが、毛沢東の成果でもコスイギンの成果でもない。ホーチミンをはじめとするベトナム民族主義の勝利なのである。アメリカの資本主義が悪いから勝利したのではない。
 ソ連はベトナムを支援する。中国はカンボジャを支援する。両国とも共産主義国として独立革命を果たすのである。もちろんその理由は、ベトナムの親米政権とカンボジャのシアヌーク政権が無能であったことに大いに助けられている。独立後、ベトナムとカンボジャは宿年の国境紛争を起こす。両国がお互い共産主義国ならば、ソ連の仲裁で解決できたことであるが、既に中ソ対立の最中である。ソ連の共産国際社会での権威は失墜し、指導力がない。ベトナムとカンボジァの戦争が始まり、次にカンボジャを支援する共産中国が共産ベトナムを攻撃するという中越戦争が勃発し、最後はカンボジァのポルポトがのたれ死にすることになった。
 第二戦間期は、アメリカとソ連の対立という構図が毛沢東中国の登場により様変わりしたのである。ソ連のアジア赤化作戦は毛沢東との主導権争いの中で変質し、ベトナムの赤化解放を最後に停止してしまう。
 その内、1989年ソ連の崩壊が到来する。1960年頃ソ連のフルシチョフは、ソ連経済はアメリカを追い越した、社会主義の段階を超えて共産主義に向かいつつあると豪語した。しかし、現実にはソ連国民の生活水準は欧米と比較して低級であり、生活財の支給に窮するほどであった。ソ連共産党の幹部は赤い貴族と化し、国民を収奪して贅沢な暮らしをしていた。経費計算が不要な兵器やミサイルを作ることは上手であったが、コスト計算が必要な生産財の生産は下手で、欧米の低コストにはいつも勝てなかった。自由市場がなく、配給制度に頼っていたが、配給される生産財は、しばしば遅延し腐っていた。欧州からのテレビ電波が東ドイツやポーランドに届く1980年代になると、目で見る欧米の豊かな暮らしに衝撃を受け亡命者が続出し、ついにその勢いはベルリンの壁を押し倒すこととなった。ソ連のゴルバチョフが筋金入りの共産主義者だったら、戦車で暴動を押しつぶし、反対派を処刑や投獄してソ連を元通りに収容所列島に戻したであろうが、フルシチョフによるスターリン批判と雪解け自由化の時代を知っているゴルバチョフは歴史の後戻りを許さなかった。彼は共産主義の反対者となり、共産主義の墓堀人になる決意を抱いたのである。
 スターリンもフルシチョフもコスイギンも本当は世界米ソ戦争を願ってはいなかった、中国内戦とか朝鮮戦争とかベトナムカンポジヤ戦争については、軍備の支援をしただけで派兵はしなかった。ソ連共産党は第二次世界大戦の戦死者の多さに恐怖していた。だから他民族がアメリカと戦うことには応援したが、決してソ連の国民を派兵して損耗させることには反対した。世界の共産化を宣言しながらも自分の犠牲を忌避した。核戦争の恐怖がーに襲われていた。ソ連共産党の官僚、赤い貴族、ノーメンクラツーラは自分たちの贅沢な暮らしが永続できることを最大の願いとしていた。ソ連の領土内の共産主義支配が守れればよいと消極的であった。
 確かに、1956年ポーランドとハンガリーでの反ソ暴動、1968年チエコスロバキアのプラハの春のときは、ソ連軍は軍事介入をした。東欧はソ連の庭であり軍事を用いてでも死守しなければならなかった。
 キューバ危機のとき、ソ連はキューバに核ミサイル基地を建設中で、アメリカ艦船はソ連の軍事物資を満載した貨物船を臨検して追い払っていた。ヒトラーやスターリンならば開戦を決意するところであるが、フルシチョフはミサイル基地の撤収を決定し戦争は回避された。フルシチョフは降参したのである。凶暴であったソ連はいつのまにか平和ぼけするようになった。ソ連邦が1989年解体するとき、ロシア以外の共和国の独立を承認してしまったのも、ノーヘメンクラツーラたちの核戦争への自信のなさ、共産主義に対する信念の低下が原因である。第二次世界大戦後を見ると、アメリカの凶暴性とソ連のそれとを比較すると、格段にアメリカの凶暴性が認められ、ソ連の腰抜けぶりがわかる。1991年ゴルバチョフの自由化政策に反対したソ連共産党とKGBのクーデターは実にお粗末な結果であった。1917年の11月革命はレーニンのボルシェビキが指導する赤軍の組織的武装蜂起でケレンスキー政府を打倒したのである。1991年クーデターはこれに全く似ない幼稚なもので、とてもレーニンの弟子たちの仕事ぶりではなかった。エリツィンがクーデターを鎮圧して権力を握り、ソ連共産党が崩壊するに至る。

 私は、20世紀は共産主義が誕生し、発展し、消滅する世紀だったと総括する。
 アフガニスタンだけは別であった。ソ連は1993年地上戦に派遣し、アフガンゲリラに酷い目に遭った。やがて派兵を引き上げ、せっかく樹立したアフガニスタン共産政府を撤収せざるをえなかった。その後、アメリカがアフガニスタンにアルカイダ潰しのために派兵避けるが、同じように撤収した。
 現在、シリアでは、政府軍、反政府軍、イスラム国、クルド人が四つ巴になって戦い、ロシアは政府軍を、アメリカは反政府軍を支援して、空爆を続けているが、地上戦闘員を派兵する気がない。アフガニスタンでの敗北の教訓による。地上戦は現地の兵隊に任せることにしているが、戦争の勝利とは、軍旗を地上に掲げることである。このままでは、どの陣営も勝利できずに月日が経過し、市民の巻き添え死が増加するばかりである。その内に、後述するような、イスラム国によるサウジアラビア攻撃が始まる。

 ソ連の自己崩壊により、米ソの第三次世界大戦は回避されたのであるが、第二戦間期後半はここから始まる。主役は共産主義の生き残り、前世紀の遺物たる中国と北朝鮮である。もうひとつはイスラム国である。イスラム国は中世期の遺物の復活である。610年マホメットが唱えたイスラム教は、征服主義であり、イスラム教に帰依しなければ殺すか、奴隷にするか、課税するかを強制し、東はアフガニスタン、カスピ海周辺から、西はリビヤ、ジブラルタルから地中海を越えてスペインまで征服した。何故、イスラム国が第二戦間期後半に登場したのか。アラブ民族主義の高揚とは言えるが、石油収入による軍事力の増大、石油収入の多寡による国別貧富の格差の拡大が原因である。ナセルエジプト大統領はエジプトだけの民族主義者であり、フセインイラク大統領はイラクだけの民族主義者であったが、イスラム国は本気でカスピ海周辺からスペインまでを征服しようとし、7世紀のマホメットの世界を再現しようとしている。異教徒は殺すか、奴隷にするか、納税させるかにしている。イスラム教の批判を言えば、直ちに処刑、女が素顔を見せれば石打の刑となる。欧米の民主主義思想や人権思想に慣れた日本人には、信じられないことであるが、イスラム国の人たちは本気で思っているのである。2001年の9/11テロはじめ世界はイスラム国のテロに震え上がっている。世界はテロ対策に苦心しているが、根本として、イスラム国の、征服、略奪、強姦、殺人、奴隷化いう政策は、世界史の長く続いた常識であることに気がつかなければならない。人類1万年の世界史は征服、略奪、強姦、殺人、奴隷化の歴史であった。民主主義も人権思想も人道主義もこの150年前から普及したに過ぎない。「テロ反対、人に愛を」などと叫んでいても、「異教徒は殺せ」で殺されてしまうのです。日本人には信じられない思想であるが、日本だって長い間そんなものであったのです。織田信長に向かって「これからは戦争はなしにして征夷大将軍の位は民衆の入札選挙で決めましょう」と言う者がおれば、信長はすぐに殺してしまうでしょう。ヒトラーが600万人のユダヤ人を虐殺したのは、たった71年前のことです。
 テロ殺人は正義だと思い込んでいるイスラム国民との戦いは人類の滅亡を来すでしょう。イスラム国は水爆を躊躇いもなく投下します。アメリカのルーズベルト大統領が死亡し、後を継いだトルーマン大統領だって躊躇いもなく広島長崎に投下しました。彼は決して後悔しなかったし、被爆者を追悼することもしなかった。
 北朝鮮の金正雲なら狂喜しながら水爆を投下するするでしょう。

第三次世界大戦は何時勃発するのか、誰も予言できない。もしかすると、後世の歴史家は2001年9月11日ニューヨークテロが始期だと言うかもしれない。しかし、これは早すぎる。ヒトラー政権奪取を第二次世界大戦の開戦と言うに等しい。イスラム世界での激動が続いているが、局地戦であり、第三次世界大戦が既に勃発しているとは言えない。イスラム国では、9−11テロのことをイスラム世界征服の曙と呼んでいる。630年のマホメットのメッカ征服から最大領土を得る12世紀後半まで500年ある。イスラム国はこんなに長い戦争期間を予定している。

D 第三次世界大戦勃発の様相、イスラム国と北朝鮮の軍事同盟

 現在、イスラム国と北朝鮮とは関係ないように振る舞っている。しかし、現実には交流がある。イランとパキスタンの核開発に北朝鮮は技術者を送っている。北朝鮮はイスラム国の軍隊に対して観戦士官を送っている。ベトナム戦争のときもそうであった。戦場の実際を知り兵法を学ぶことと兵器の試験と開発に観戦士官の派遣は有効である。日ロ戦争のときは欧米から多数の観戦士官が来たし、第一次世界大戦では日本から多数゛の観戦士官が渡欧していた。
 イスラム国は北朝鮮と軍事同盟を結びたいと希望している。両国は今まで何の関係も無かったからあり得ないことだと否定する意見が多いであろう。しかし、何故日独伊軍事同盟が成立したかを考えてみる必要がある。東条英機首相も山本五十六大将も昭和天皇もヒトラーに会ったこともない。ヒトラーのヨーロッパ征服と日本のアジア征服の目的が一致したからです。世界二分支配の目的です。ヒトラーはフランスを占領し次にソ連を攻撃しカスピ海から南下し英仏支配のアラブを占領する。日本は英欄が支配するシンガポール、ジャワ、タイ、ビルマ、インドを占領する、ということであった。
 ヒトラーと日本との軍事同盟は、インダス川の畔で会おう、ということであった。実際日本軍は1944年インド領インパールまで侵攻している。ドイツ軍はカスピ海あたりで進撃が止まってしまい、遂にシリア、イラン、パキスタンとインドを眺める地点まで到達できなかった。日本だけが日独同盟を守ったこととなる。ヒトラーはソ連攻撃に勢力を集中して日本との同盟を反故にしたのである。
 イスラム国は水爆が欲しい。2001年の9.11テロの時は、アラブ人をアメリカの飛行機学校に入学させて飛行訓練をさせ、旅客機4機をハイジャックして自爆させ死者3000人余りが出た。これはアルカイダの仕業であったが、イスラム国はこれを賞賛し真似事をしたいと熱望している。アルカイダの3000人殺しよりもっと大規模な殺戮を実行し欧米世界を戦慄とさせたい熱望している。だから水爆が欲しい。
 北朝鮮が原爆実験をした最初は2006年である。アメリカとソ連は原爆開発から水爆開発まで5年を要し、中国は3年で 北朝鮮は10年経過しているので水爆開発に成功していることに間違いはない。原爆は広島市を破壊する程度であるが、水爆は広島県を破壊し四国を放射能で覆う。イスラム国は放射能の恐ろしさを知らない。現在の繁栄する広島と長崎を見て、放射能など雨で流されてしまい危険は薄いと思っている。水爆を爆発させるとき、「アッラーアクバルと唱えよ、信心厚き者は生き残り、不信心者は死ぬ」と言う。狂信的自爆テロ集団である。水爆の放射能など恐れない。
 イスラム国の使節は北朝鮮の金正雲に面会して水爆買い入れを提案する「水爆1個1兆円で3個3兆円、外洋型潜水艦3隻足して5兆円支払う。金はある。イスラム国がイラクシリアの半分を占領したとき、イラクシリアの第二の都市を占領し、市中銀行の金庫を押さえた。奇襲攻撃だったので政府軍は銀行から札束と金塊宝石を運び出す暇がなく、すべて我らの手中に落ちた。5兆円はドル札で支払う」
 金正雲は質問する。
「何故潜水艦なのだ。我が国はミサイルの開発に成功した。水爆の運搬にはミサイルが最適だ」
 使節は答える。「貴国のミサイルが完成するのはまだ年月がかかる。我らは待てないし、我らにはミサイル運用技術力がない。水爆は潜水艦で運びたい。潜水艦要員として300人のアラブ人の船乗りを派遣するから訓練して欲しい。」
 金正雲「水爆を何に使うのだ」
 使節「欧米の世界支配を崩壊させるために用いる。作戦の詳細は今は言えない。貴国は欧米と戦っている。共通の敵に対抗するために軍事同盟を結びたい。水爆の売買を最初の一歩としたい」
 金正雲は欧米の経済制裁の為に金がない。水爆の原料となるウランは北朝鮮内で産出できるが、電子機器などは輸入に頼る部分が多い。外貨が欲しい。国民への配給は縮小され国民の不満が高まっている。どんな金でもいいから欲しい。10兆円なら売る」
 使節「話は成立した。ドル札で10兆円を届ける」
 北朝鮮は経済制裁の下、中国への石炭鉱物資源・海産物の輸出で外貨を稼いできたが、2016年からの度重なるミサイル発射水爆実験により経済制裁が強化され、中国の支援も先細りする見込みである。そこに10兆円である。北朝鮮経済は復活する。国民への配給を増加させると、北朝鮮国民は金正雲への賛歌を唱えた。
空路・海路・陸路から300人のアラブ人が北朝鮮に到着した。隊長はシンドバットと名乗るイエメン海軍の元大尉である。
「我らは砂漠の民ではなく、海の民である。駱駝には乗らないが、船を操り、地中海からインド洋まで我らが庭である」
 300人は船乗りであり、潜水艦訓練を容易にこなした。
 1年後、潜水艦3隻は水爆を各1個搭載して北朝鮮を出発した。途中インド洋でイエメン船から補給を受け、1隻は喜望峰周りでニューヨークへ向かい、2隻はアラビア半島南部の隠れた港に入った。
 日独伊軍事同盟時代、日本とドイツの潜水艦の往来があった。日本は生ゴムを輸出し、ドイツから新兵器を輸入した。ロケット技術を輸入して製作されたのが日本初のロケット機秋水であったが、実戦投入前に終戦となった。日本伊号潜水艦はシンガポール出航後無補給でドイツ占領下のフランスのブレスト港へ向かった。6回の往来のうち、4回は途中で撃沈された。ドイツ潜水艦はシンガポールと横須賀を母港として太平洋とインド洋で通商破壊戦を実施した。ドイツに亡命していたインド人政治家チャンドラ・ボーズが日本へ到来したのもこの潜水艦ルートである。彼はシンガポールで捕虜になっていたインド兵を集めてインド独立軍を組織し、1944年日本軍と共にインドインパールに侵攻するが敗退する。終戦時彼は宝石箱を抱えて日本へ空路向かうが、台湾で墜落して死亡した。
 ドイツから日本への最後の潜水艦派遣は1945年4月、ドイツの敗色濃い時期にU234が日本大使館付き武官海軍技術大佐2人を同乗させて出航した。2人は秘密兵器資料を日本へ届ける任務が与えられていた。1945年4/30ヒトラー自殺、5/7ドイツ降伏により、U234艦長は米軍への投降を決意したが、大佐2人は5/13に自決してしまった。米軍の拷問により秘密を漏らすことを危ぶんだのか。2人は東大工学部卒の37歳と42歳であり、最新の科学知識を得ていた。戦後まで生き延びておれば、ソニー位の会社を興せたであろうに。惜しいことをした。

 北朝鮮は海中発射ミサイルを搭載した潜水艦を所有している。海上へ飛び出すミサイルの写真が報道されている。ミサイルの長さは20メートルを超えているはずである。このミサイルを艦体に搭載するためには潜水艦は巨大にならざるをえない。日本の伊号潜水艦のような1万トンクラスの外洋型大型潜水艦だと見られる。ディーゼル機関であろうが、無補給で地球半周は楽々である。
 北朝鮮の潜水艦技術は最高である。海中発射ができることがその裏付けである。
 北朝鮮による日本人拉致事件は何十件とある。北朝鮮の秘密工作員の日本潜入も何百回とあった筈である。しかし、一度も日本沿岸で検挙されたことがない。密航漁船に仮装した高速艇が撃沈されたことが一回あったが、水上艇は発見されやすい。拉致事件や工作員の潜入を一度も沿岸で検挙できなかったことは潜水艦を使用したのではないかと疑われる。自衛隊も海上保安庁も発見できなかったということは隠密性に優れた潜水艦とみられる。ミサイルなんか開発する必要はない。潜水艦で水爆を運べば十分であると金正雲は気がついているであろうか。別段、乗組員に自爆を強いる必要もない。東京湾の海底に水爆を設置して帰国すればよい。その水爆には電話を付けてあり、金正雲が平壌から電話を鳴らすだけで爆発できるようにすればよい。
 同じように、北朝鮮の在外大使館に水爆を設置する手がある。小型化に成功したと豪語しているから、外交行嚢に部品を忍ばせ館内で組み立て、平壌と電話で結べばよい。
 金正雲はいつでも世界の大都市で水爆を爆発させる手段を得ることとなる。特に目障りなモスクワと北京が標的となる。
金正雲がそれを本当にやるのかどうかは、彼の個性に関わることであるが、ヒトラーならば断固やったことである。
 日本人は、原爆の恐ろしさを体験しているので、金正雲は水爆を脅しの材料に使うだけで実際には使用しないだろうと楽観視する向きがあり、田舎へ疎開する人はまだいない。金正雲が水爆を爆発させるかどうかは、金正雲が如何なる世界政策を持っているかに関わることであるが、彼の世界政策は全く見えてこない。そもそも持っておらず、場当たり的に、国民の人心掌握のためにやる振りをしているだけのようにも見える。彼はまだ若い、世界史を知らない。しかし、イスラム国に渡した水爆がどの様に用いられるかを知ったとき、彼は自分の世界政策を構築するであろう。
 昭和14年日本の東条英機とか山本五十六という陸軍海軍大学首席卒業という秀才たちは英米との戦争を決意していなかった。ただ長引く日中戦争の勝利による収束だけを願っていた。中国蒋介石を支援するインドとビルマルートによる英米の軍事支援を遮断したかった。英米の支援さえ封殺できれば日中戦争は勝利できる。昭和14年頃東条英機が考えていたことは日中戦争の勝利だけであり、大東亜共栄圏なるものは太平洋戦争を準備する頃、昭和15年からの後講釈である。
 しかし、ヒトラーが第二次世界大戦を開始し、フランスを降伏させ、次いでソ連に侵入しモスクワ正面まで近接したとき、二人は「ドイツが勝つ。勝ち馬に乗る」と決意して、英米戦を決意したのである。金正雲にもこのような決意をする日が来る。


E イスラム国による水爆作戦
 イスラム国は現在イラクとシリアで戦争している。イラクシリアの半分と第二の都市を占領したが、政府軍と空爆する欧米ロシア軍に押され気味のようであるが、負けないであろう。なぜならば、欧米軍とロシア軍は地上部隊を再度派遣する気がないからである。アフガニスタンでアメリカもソ連も地上戦でひどい目に遭った。陸軍兵士の膨大な死傷者に懲りて、欧米とロシアは空爆に作戦を限定して損失を回避しようとし、現地の戦争を政府軍に任せている。しかし、戦争の勝利とは国土と人民を支配することであり、地上戦での勝利が絶対に必要である。欧米軍とロシア軍の地上戦参入がない限り、政府軍は勝利できないし、イスラム国が敗退することもない。特にシリアはアサド政府軍以外に反政府軍やクルド人兵力がおり、イスラム国とともに四つ巴の戦争となっている。
 イスラム国の真の攻撃目的はシリアイラクのようなイスラム世界の辺境ではない。サウジアラビア王国なのである。サウジアラビアには聖地メッカがある。世界のイスラム教徒が生涯に一度は参詣したいと熱望している。サウジアラビアを占領し、メッカかメジナを首都としないかぎり、イスラム国と名乗ることはインチキなのである。
 イスラム国はシリアのアサド大統領を背教者と呼んでいるが、一番の背教者はサウジアラビア王家だと信じている。サウジアラビアとはサウジ家のアラビアという意味で王国であり、王家が絶対支配し、イスラム国を敵対視している。特にサウジアラビア王家は石油収入を独占し、裕福である。アメリカとは同盟関係にあり、イスラム世界では少ない親米国である。サウジアラビアには米軍の基地がある。アメリカはアフガニスタンやイラク、シリヤから地上部隊を撤収したが、サウジアラビアならは絶対に撤収せず防衛するであろう。
 イスラム国教祖にとって、一番打倒したいのはサウジアラビア王家である。サウジアラビア攻撃は、イラクシリアの第二の都市を奇襲攻撃したのと同じ戦法が採られるだろう。そのとき水爆を使用する。
 北朝鮮からアラビア半島南岸に到着した水爆は巧みに秘匿されてトラックに乗せられて首都メデナの近郊の陸軍空軍基地に突っ込み自爆させる。
 爆風で首都の建物のガラスは全部吹き飛び、キノコ雲が空高く上がっていく。水爆だと気がつく首都防衛隊員は銃を捨て身軽になってキノコ雲の反対の方向へ逃げるであろう。政府役人も民衆も自動車を乱暴に運転して全員が逃げ出す。
 そのとき5000人のイスラム国兵士は市内へ突入して発砲し、生き残った者は捕虜にする。
 王宮と政府官庁内に突撃したイスラム国兵士は国王、王族、官僚を捕虜にする。
 イスラム国軍司令官は国王に対して無条件降伏文書を提示してサインを求める。国王はじめ主立った者には、ナビ付き電話付き爆弾腰ベルトを装着させ「外そうとすれば自動的に爆発する。何処へ逃げてもナビで位置がわかる。電話をすれば爆発する」と脅かす。
 降伏文書には、
 サウジアラビア王国のイスラム国への無条件降伏と政権の委譲
 サウジアラビア軍将兵の捕虜の承認
 サウジアラビア政府がイスラム国の支配下におかれること、
 サウジアラビア警察がイスラム国の支配下におかれること
 サウジアラビア国軍の解体とイスラム国への軍事施設の譲渡
 サウジアラビア国は外交権をイスラム国に授与すること
 イスラム国へ占領税を納税すること
 イスラム国法による裁判権への従属
 要するに、ヒトラーのフランス占領と同じことをする。

 その後、イスラム国による選別が始まる。イスラム国では占領後生かしておいてもよい人間と直ちに処刑すべき人間のリストを用意している。反イスラム国の立場を示していた者は全員銃殺となる。残りは奴隷にするか、納税する自由民にする。
 サウジアラビアの米軍基地にいた米兵にも同じ運命が待っていた。将校は銃殺され、兵士は人間の盾代わりに使用され、かつ奴隷とされた。
 ソ連のポーランド占領と同じである。1940年カチンの森でポーランド将校2万人がソ連軍によって銃殺された。将来ポーランドの独立戦争の要員となることを防止するためであった。独ソ戦開戦となり、ソ連と亡命ポーランド政府は共同対独戦を協定する。ソ連に捕虜にされていたポーランド人を解放して自由ポーランド軍を組織しドイツ軍と戦うことになっていた。しかしソ連の収容所から釈放されてくるポーランド捕虜の数が予想の一割しかいない。残りの九割はどうしたとのポーランド側の質問に対してスターリンは沈黙を守り続けた。やがてドイツ軍がカチンの森でポーランド将校の多数の死体を掘り当ててカチンの森の虐殺事件が明るみになったが、スターリンはドイツ軍の仕業と言い続けた。
 ある役人が「自分はイスラム国の教祖のザワフィと幼なじみだ。彼は私をよく知っている。助けてくれ」と哀願すると、イスラム国兵士はリストを開いて処刑者名簿に彼の名前があることを指さし、その場で処刑した。
 1975年カンボジャのプノンペンでも同じことがあった。ポルポト軍がプノンペンを包囲したとき、国外へ脱出する政府要人が続出した中、ある役人はポルポトの幼なじみだったので、助命してくれるだろうとの期待してとどまっていたが、同じことになった。独裁者は昔話を知る友達が嫌いなのです。ヒトラーには実は友達が一人もいなかった。ヒトラーの側近で建築家の大臣はヒトラーと建築美学について共通の趣味を抱いていたが、「彼とは建築美学のことで親しく話し合った。ベルリン改造計画では意見が一致し、我らは親友となった。私が知るところヒトラーには友達がいない。いるとしたら私一人であろう」
ウィーンの美学校に落第し浮浪者をしていたヒトラーに幼なじみはなく、昔を知る知り合いを嫌悪して遠ざけていた。

 イスラム国の攻撃を知った英米は直ちに地上部隊をサウジアラビアへ派遣する準備にかかった。イラクのフセインがクウェートを侵略したときアメリカが即座に開戦したように、英米にとってサウジアラビアは盟友だからである。
 そのとき、ニューヨーク港を遊覧していた豪華遊覧船の近距離に潜水艦が浮上し停船させてイスラム武装戦闘員が船を乗っ取った。自由の女神の目の前である。
 潜水艦からラジオ放送が流れた。
「水爆を搭載している。アメリカがサウジアラビアへ派兵するならば、爆発させる」
 ここで爆発されたら、ニューヨークは水没する。2001年9.11テロの比ではない。かくしてアリリカは派兵を断念し、国内世論はモンロー主義の昔に戻りかける。ニューヨーク市民は市から脱出し廃都となった。トランプが大統領になっていたら、トランプは自分のニューヨークの資産が駄目になるのを恐れて「アメリカはアメリカに戻ろう。遠いアラブは放置してしまえ」とモンロー主義を宣言するであろう。

 サウジアラビアの各地の銀行金庫は押収され、イスラム国は莫大な資金を手に入れた。 さらに、サウジアラビアの大蔵大臣とイスラム国の役人がアムステルダムの銀行を訪れ預金の引き出しを請求した。必要書類は完璧である。しかし銀行頭取が払うかどうか迷っていると、大蔵大臣はしきりに腹部を叩き、コンコンという金属音を頭取に聞かせた。爆弾腹ベルトを巻かされているのである。驚愕した頭取は直ちに支払いに応じた。
 かくして、世界各国からサウジアラビアの預金は引き出され、、イスラム国は株式市場で空売りを仕掛け、サウジアラビアが所有する外国企業の株式も売却されてイスラム国に集まった。このため、世界経済はイスラムショックという大暴落を経験することとなる。
 以上の仕事を終えたら、サウジアラビアの王族は全員処刑され、サウジアラビア王国は滅亡し、宗教国家イスラム国となる。一族根絶やしは、イスラムと源頼朝の原則であり、1918年ロシアニコライ皇帝一家7人銃殺刑と同じである。イスラム国に宣誓をしないサウジアラビア将官と将校も銃殺となる。1937年ソ連での赤軍粛正と同じである。
 大金を得たイスラム国は北朝鮮に水爆10個と膨大な数の兵器を追加発注する。
 かくして、北朝鮮は戦時貿易により莫大なドル札を握り国力は増進し、国民は金正雲を讃える。
 世界一裕福になったイスラム国のサウジアラビアに世界のイスラム教徒が集まる。人は金のあるところに寄るものである。
 スンニ派のイスラム国の次の目標はシーア派のイランである。核保有国である。イランを征服すれば、自前の水爆を持てる。
 イスラム国は水爆で脅かし、シリアとイラクを併合し、イランへ向かう。アフガニスタンのタリバンはイスラム国に応援して北からイランを攻撃する。シーア派イランは総崩れとなる。
 水爆同士の戦争である。宗教内戦争ほど恐ろしいものはない。イランイラク戦争が長年続いたが、凄惨なものであった。イスラム国とイランは平気で水爆を打ち合うだろう。共倒れになってくれればよいと願うが、戦史を見ると共倒れの歴史は実に少ない。ほとんどが一方の勝利で終わる。
 イスラム国の目標は、カスピ海からスペインまでの旧イスラム帝国の再現である。
 イスラム国は戦機の選択をどう考えるか。
 現在、イスラム国包囲網は、英米ソ連である。しかし空爆に限定し地上戦の用意がないし、この三国と現地国とは連携がとれていない。政府軍と反政府軍とクルド人が戦争し反イスラム国で団結する可能性がない。敵の混乱が勝機と戦機の到来を意味する。
 中国はアラブは遠いと言って、無干渉である。中国が英米ソ連に軍事荷担する前こそ勝機である。反イスラム国統一戦線が成立していない内が戦機である。だから開戦は早ければ早いほどよい。水爆がイスラム国に到着次第、サウジアラビア攻略作戦の開始→第三次世界大戦の開戦をする。
 イスラム国がイランを征服すれば、水爆保有国となり、アフガニスタンなどは過激派が支配しているから、すぐにイスラム国と同盟を結ぶであろう。次にパキスタンを攻略し、北上してカスピ海周辺を攻める。
 イスラム国の西方への遠征部隊は、エジプト、リビア、モロッコ、からスペインへ向かう。東方への遠征部隊はカスピ海周辺を征服してからウィグルを経由して中国の北京に向かう。
 
 イスラムと中国とは歴史的因縁がある。
  751年イスラムは唐にタラスの戦いで大勝している。
 1405年ティムール帝国は明の征服に東征したが、途中病死している。イスラムは中国征服を計画したことがあり、今もウイグルにはイスラム教徒がいるのはその名残であり、イスラム国の繁栄を見て、ウイグルのイスラム教徒は中国共産党への反乱を企画し、イスラム国の応援を求めるであろう。
イスラムはモンゴルに敗北したことはあるが、漢民族の中国に敗北したことはない。
中国共産党紅軍は1936年イスラム軍と戦い完敗している。1936年毛沢東は長征を終えて延安に根拠地を建設するが、対立する張国?は第四方面軍を率いて北西のソ連国境近くに新根拠地を建設すべく出発した。その目的地はイスラム族ウィグル族の支配地であり、イスラム騎馬隊は第四方面軍を包囲し殲滅した。一枚の写真が残っている。平原に横たわる多数の戦死者、ズボンを脱がされているのは女兵士の死骸である。生き残った女兵士は奴隷として売られた。張国?は毛沢東から批判されると、国民党に寝返る。
 中国共産党に勝利した経験を持つイスラムは中国攻撃を計画するであろう。中国西方のイスラムに漢民族が勝利したことは一度もない。漢民族を滅ぼした、モンゴル族とか満州族とか女真族はイスラムに勝利したことはあった。
 イスラム国の中国攻撃の目的は、宣教ではない。中国の産業の支配である。イスラムは漢民族がすぐに張国?のように裏切者をだして戦線を分裂させることを知っている。模範はヒトラーのフランス占領である。

 以上で、戦間期論(1)を終える。

 次号は、イスラム国の世界戦争の展開、北朝鮮金正雲の戦略について書きます。

F 要約、イスラム国の戦争を見て、金正雲は何を考えるか。
東条英機や山本五十六が独ソ戦開戦を見て、ソ連を攻めずに英米を攻めた。
金正雲はどうするか。
キーワードを並べる。
 元寇
 秀吉の朝鮮征伐
 日韓併合
 満州国建国
 朝鮮戦争
 朝日併合